第四章 春死なむ
1
明くる日の夜、幻乃は冬馬に連れられて、ある小さな家屋の前に立っていた。
たいまつに照らされた古びた家の前には、大勢の男たちが立ち並ぶ。一様に口を閉ざす男たちの中央には、貫禄ある顎髭を蓄えた壮年の男――
「お久しゅうございます。酒井さま」
幻乃が声を発した瞬間、四方八方から一斉に刀の切っ先が突きつけられた。
殺気立った周囲の行動を、しかし幻乃は一瞥するだけで流してしまう。周りを囲むのは、顔見知りが半分と、見覚えのない若者たちが半分ずつ。想定の範囲内だ。
「……幻乃。何の用だ、裏切り者め。二度とこの地に戻るなと告げたはずだ」
俊次がおどろおどろしい声で告げる。主君に続くように、周囲を囲む男たちも、次々に口を開いていった。
「よくも顔を出せたものだな、この侍崩れの狐が!」
「忍の風上にも置けぬ不義理なコウモリ男め」
「三条の犬と成り果てておいて、なにが『お久しゅうございます』だ。生きて帰れる思うなよ……!」
犬なんだか狐なんだかコウモリなんだか。
「おや、手厳しい」
くすくすと笑いながら顔を上げれば、男たちは怯んだように口を閉ざした。威勢のいいことは言うくせに、幻乃のような小さな男の何がそんなに怖いと言うのだろう。
向けられる刃を歓迎するように両腕を広げる。これが交渉ではなく斬り合いだったのなら、さぞや心が踊る状況だったことだろうに、楽しめないのが悔やまれる。隣に並ぶ冬馬が、あの気色の悪い目でこちらを注視しているのを感じつつも、気にせず幻乃はにこやかに続けた。
「忍。侍。仰る通り、俺はそのどちらでもないし、どちらでもあります。ですが、裏切りも不義理も、すべて謂れのない言い掛かりです。我々のような者が、情報を手に入れるためなら姿も住処も偽ることくらい、ご存じでしょう?」
「何を言っている?」
「ご覧になる方が早いかと思われます」
そう囁いた幻乃は、懐から書状を取り出し、俊次に手渡した。警戒しながらも中身をあらためた俊次は、「これは……!」と驚いた様子で声を漏らす。その様子を見て、側近が興味を惹かれたように身を乗り出した。
「お屋形さま、そちらは一体?」
「……三条の屋敷の見取り図だ。警備の体制まで、詳しく書き込まれている。我々が手にしていた情報より、はるかに細かい」
「なんと……! 次の討ち入りも、これがあれば……!」
「なるほど、役に立つのは間違いない」
丁寧に見取り図を折りたたみ、懐にしまいこんだ俊次は、厳しい顔で幻乃を見据える。その視線を受け止めて、幻乃は軽やかに口を開いた。
「討ち入りの日にちがお決まりでなければ、次の満月の夜をお勧めします。彦根の同盟藩が、彼の地に集う計画だと小耳に挟みましたゆえ」
ざわりと声が上がる。俊次が身を乗り出すように、幻乃を睥睨した。
「確かなのか」
「書状の写しは取ってあります」
執務のための部屋にこそ入れてもらえた試しはなかったが、直澄は寝室でも書き物をしていたし、屋敷の中にいればいくらでも書状の中身を覗き見る機会はあった。こんな風に使う予定があったわけではなく、習慣とでも言うべき職業病で集めていただけの情報だったが、備えがあれば役立つものだ。
「いや、待て。なぜその日に当てる? あちらに戦力が集まる前に討ち入る方が良いのではないか」
誰かが呟く。同調の声が上がる前に、幻乃は素早く「そうとも限りません」と否定した。
「酒井さま。この戦いの目的は何ですか?」
「知れたこと。新時代などというくだらぬまやかしに傾倒する愚か者どもを、叩き潰すことだ」
「でしたら、事はすでに我々だけの問題ではありません。腰の重い幕府軍全体を動かすためには、大義名分が必要なのではありませんか。『先に手を出したのは向こう側だ』と。そうお考えになったからこそ、酒井さまは三条を挑発するため、先の襲撃を命じたのでは?」
「知らぬな。浪人どもが勝手にやったことだ」
冬馬が小さく舌打ちをした。捨て石扱いどころか、彼らは真実捨て石だったらしい。
揉み手で商品を売り込む商人のように、幻乃はしたり顔で「なるほど」と頷いてみせる。
「そしてお次は、こちらにお集まりの皆さまが勝手に討ち入りを果たして、前線に出ることもしない方々のために命を散らすと。いやはや、皆様の幕府への忠義には頭が下がります。大恩ある主人のためならいざ知らず、姿ひとつ見せぬお方のために死線に赴くと言うのですから」
俺にはとても真似できません。そう言って嘲るように口角を上げた瞬間、俊次が唾を飛ばしながら立ち上がる。
「貴様、何が言いたい!」
「どうせ命を賭けるなら、有意義な賭けに使いませぬか、ということです。これは我々単独の企みではなく、正統なる将軍の名のもとで下される天誅なのだと、そう言ってしまえばいいのです。我々が先陣を切れば、三条に兵を送る他藩は手薄になりましょう。全体で見れば厳しい戦いであったとしても、個々の勝ち戦に乗らぬ者は、少ないのではありませぬか」
「……同盟軍を唆せと言うのか。巻き込めるだけ巻き込んで、争いを起こせと?」
「それは、酒井さまがお決めになることです。ですが、混沌が広がれば広がっただけ、番狂わせも起きやすくなるのが常というもの。例えば二大勢力の相打ち。例えば将軍の
とびきりの秘密を教えてやるというように、耳触りの良い言葉を選んで幻乃は囁く。
次男として生まれた俊次は、常に俊一の後ろで生きてきた。彼が権力へ並々ならぬ執着を抱いていることは、小浜藩に仕える者たちの間では周知の事実だ。
ぎらりと俊次が目を輝かせる。
「……よかろう。狐の甘言に乗るのは業腹ではあるが、試す価値はある。幕府の者どもが勝てばそれでよし。彦根藩が勝つにしても、あの
「ええ」
直澄を侮る言葉に、ぴくりと頬が引きつりそうになる。こんな崩壊寸前の家の当主如きが、何を以てあの男を測るのか。笑いたくなる気持ちを抑え込みつつ、幻乃は試すように問いかける。
「いかがでしょう。手土産には足りませぬか?」
「十分だ。情報が真実正しければな」
ぎろりと幻乃を睨んだ俊次は、次の瞬間、荒々しい動作で抜刀すると、その刀を幻乃の首筋に突きつけた。
「――問おうか、幻乃」
巻き込み斬られた髪が数本、ぱらぱらと首筋に落ちていく。しかし幻乃は笑みをたたえたまま、一歩たりとも退かなかった。
「貴様の主君は誰だ。何のために刀を振るう?」
「分かりきったことをお聞きになる。俺の主君は酒井さまだけですとも」
月光に照らされる俊次の刀には、見覚えがあった。特徴的な刃紋を見間違えるはずもない。かつての幻乃の主君・俊一の刀そのものだ。
(俊一さまの刀を使ったところで、あのお方になれるわけではないというのに)
込み上げる笑いもそのままに、幻乃はゆっくりと視線を動かす。刃紋から柄、刀を握る拳を眺めた後で、最後に険しく吊り上がった俊次の瞳をしっかりと見据えた。
臣下想いで聡明だった兄・俊一とは対照的に、短慮で荒々しい弟・俊次は、幻乃をして、仕えるくらいなら野垂れ死ぬ方がマシだと思わせる無能な男だ。
けれど、その無能も今だけは都合がいい。
「刀を振るう理由も、変わりません。自らの信じる
強い者が生き、弱い者が死ぬ。心震える一瞬を味わうために、腕を磨いて刀を振るう。どれほど時代が変わろうと、誰に間違っていると謗られようと、それが幻乃にとって唯一絶対の生きる指針だ。
「皆さまとて、同じでございましょう? それぞれ譲れぬ理由があってここにいるのだと思いましたが、違いましたか?」
緊迫した空気の中、周囲は息を呑んで俊次と幻乃を見つめていた。彼らの視線をものともせず、幻乃は飄々と笑みを深めてみせる。
やがて、俊次はゆっくりと刀を下ろした。
「いいだろう。働いてもらうぞ」
――かかった。
狐のようだと称される細い目をさらに細めて、幻乃は満足げに喉を鳴らした。
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