第四章 春死なむ

1

 明くる日の夜、幻乃は冬馬に連れられて、ある小さな家屋の前に立っていた。

 たいまつに照らされた古びた家の前には、大勢の男たちが立ち並ぶ。一様に口を閉ざす男たちの中央には、貫禄ある顎髭を蓄えた壮年の男――酒井さかい 俊次としつぐが厳しい顔で座っていた。かつての主人の実弟と顔を合わせるのは半年ぶりだが、壮健ぶりに変わりはなさそうだ。むしろ、権力を手にしたことで以前よりもいきいきと目を輝かせているようにすら見えた。


「お久しゅうございます。酒井さま」


 幻乃が声を発した瞬間、四方八方から一斉に刀の切っ先が突きつけられた。

 殺気立った周囲の行動を、しかし幻乃は一瞥するだけで流してしまう。周りを囲むのは、顔見知りが半分と、見覚えのない若者たちが半分ずつ。想定の範囲内だ。


「……幻乃。何の用だ、裏切り者め。二度とこの地に戻るなと告げたはずだ」


 俊次がおどろおどろしい声で告げる。主君に続くように、周囲を囲む男たちも、次々に口を開いていった。


「よくも顔を出せたものだな、この侍崩れの狐が!」

「忍の風上にも置けぬ不義理なコウモリ男め」

「三条の犬と成り果てておいて、なにが『お久しゅうございます』だ。生きて帰れる思うなよ……!」


 犬なんだか狐なんだかコウモリなんだか。


「おや、手厳しい」


 くすくすと笑いながら顔を上げれば、男たちは怯んだように口を閉ざした。威勢のいいことは言うくせに、幻乃のような小さな男の何がそんなに怖いと言うのだろう。

 向けられる刃を歓迎するように両腕を広げる。これが交渉ではなく斬り合いだったのなら、さぞや心が踊る状況だったことだろうに、楽しめないのが悔やまれる。隣に並ぶ冬馬が、あの気色の悪い目でこちらを注視しているのを感じつつも、気にせず幻乃はにこやかに続けた。


「忍。侍。仰る通り、俺はそのどちらでもないし、どちらでもあります。ですが、裏切りも不義理も、すべて謂れのない言い掛かりです。我々のような者が、情報を手に入れるためなら姿も住処も偽ることくらい、ご存じでしょう?」

「何を言っている?」

「ご覧になる方が早いかと思われます」


 そう囁いた幻乃は、懐から書状を取り出し、俊次に手渡した。警戒しながらも中身をあらためた俊次は、「これは……!」と驚いた様子で声を漏らす。その様子を見て、側近が興味を惹かれたように身を乗り出した。


「お屋形さま、そちらは一体?」

「……三条の屋敷の見取り図だ。警備の体制まで、詳しく書き込まれている。我々が手にしていた情報より、はるかに細かい」

「なんと……! 次の討ち入りも、これがあれば……!」

「なるほど、役に立つのは間違いない」


 丁寧に見取り図を折りたたみ、懐にしまいこんだ俊次は、厳しい顔で幻乃を見据える。その視線を受け止めて、幻乃は軽やかに口を開いた。


「討ち入りの日にちがお決まりでなければ、次の満月の夜をお勧めします。彦根の同盟藩が、彼の地に集う計画だと小耳に挟みましたゆえ」


 ざわりと声が上がる。俊次が身を乗り出すように、幻乃を睥睨した。


「確かなのか」

「書状の写しは取ってあります」


 執務のための部屋にこそ入れてもらえた試しはなかったが、直澄は寝室でも書き物をしていたし、屋敷の中にいればいくらでも書状の中身を覗き見る機会はあった。こんな風に使う予定があったわけではなく、習慣とでも言うべき職業病で集めていただけの情報だったが、備えがあれば役立つものだ。


「いや、待て。なぜその日に当てる? あちらに戦力が集まる前に討ち入る方が良いのではないか」


 誰かが呟く。同調の声が上がる前に、幻乃は素早く「そうとも限りません」と否定した。


「酒井さま。この戦いの目的は何ですか?」

「知れたこと。新時代などというくだらぬまやかしに傾倒する愚か者どもを、叩き潰すことだ」

「でしたら、事はすでに我々だけの問題ではありません。腰の重い幕府軍全体を動かすためには、大義名分が必要なのではありませんか。『先に手を出したのは向こう側だ』と。そうお考えになったからこそ、酒井さまは三条を挑発するため、先の襲撃を命じたのでは?」

「知らぬな。浪人どもが勝手にやったことだ」


 冬馬が小さく舌打ちをした。捨て石扱いどころか、彼らは真実捨て石だったらしい。

 揉み手で商品を売り込む商人のように、幻乃はしたり顔で「なるほど」と頷いてみせる。


「そしてお次は、こちらにお集まりの皆さまが勝手に討ち入りを果たして、前線に出ることもしない方々のために命を散らすと。いやはや、皆様の幕府への忠義には頭が下がります。大恩ある主人のためならいざ知らず、姿ひとつ見せぬお方のために死線に赴くと言うのですから」


 俺にはとても真似できません。そう言って嘲るように口角を上げた瞬間、俊次が唾を飛ばしながら立ち上がる。


「貴様、何が言いたい!」

「どうせ命を賭けるなら、有意義な賭けに使いませぬか、ということです。これは我々単独の企みではなく、正統なる将軍の名のもとで下される天誅なのだと、そう言ってしまえばいいのです。我々が先陣を切れば、三条に兵を送る他藩は手薄になりましょう。全体で見れば厳しい戦いであったとしても、個々の勝ち戦に乗らぬ者は、少ないのではありませぬか」

「……同盟軍を唆せと言うのか。巻き込めるだけ巻き込んで、争いを起こせと?」

「それは、酒井さまがお決めになることです。ですが、混沌が広がれば広がっただけ、番狂わせも起きやすくなるのが常というもの。例えば二大勢力の相打ち。例えば将軍の。――そうなったとき、この国を治められるのは、勇猛たるお力を持ったお方だとは思いませぬか? 考えようによってはこれは、上に立つべきお方が力を示すための、これ以上ない好機なのです」


 とびきりの秘密を教えてやるというように、耳触りの良い言葉を選んで幻乃は囁く。

 次男として生まれた俊次は、常に俊一の後ろで生きてきた。彼が権力へ並々ならぬ執着を抱いていることは、小浜藩に仕える者たちの間では周知の事実だ。

 ぎらりと俊次が目を輝かせる。


「……よかろう。狐の甘言に乗るのは業腹ではあるが、試す価値はある。幕府の者どもが勝てばそれでよし。彦根藩が勝つにしても、あのが弱ったところを叩くには、都合が良かろうな」

「ええ」


 直澄を侮る言葉に、ぴくりと頬が引きつりそうになる。こんな崩壊寸前の家の当主如きが、何を以てあの男を測るのか。笑いたくなる気持ちを抑え込みつつ、幻乃は試すように問いかける。


「いかがでしょう。手土産には足りませぬか?」

「十分だ。情報が真実正しければな」


 ぎろりと幻乃を睨んだ俊次は、次の瞬間、荒々しい動作で抜刀すると、その刀を幻乃の首筋に突きつけた。


「――問おうか、幻乃」


 巻き込み斬られた髪が数本、ぱらぱらと首筋に落ちていく。しかし幻乃は笑みをたたえたまま、一歩たりとも退かなかった。


「貴様の主君は誰だ。何のために刀を振るう?」

「分かりきったことをお聞きになる。俺の主君は酒井さまだけですとも」


 月光に照らされる俊次の刀には、見覚えがあった。特徴的な刃紋を見間違えるはずもない。かつての幻乃の主君・俊一の刀そのものだ。


(俊一さまの刀を使ったところで、あのお方になれるわけではないというのに)


 込み上げる笑いもそのままに、幻乃はゆっくりと視線を動かす。刃紋から柄、刀を握る拳を眺めた後で、最後に険しく吊り上がった俊次の瞳をしっかりと見据えた。

 臣下想いで聡明だった兄・俊一とは対照的に、短慮で荒々しい弟・俊次は、幻乃をして、仕えるくらいなら野垂れ死ぬ方がマシだと思わせる無能な男だ。

 けれど、その無能も今だけは都合がいい。


「刀を振るう理由も、変わりません。自らの信じるのために。それだけです」


 強い者が生き、弱い者が死ぬ。心震える一瞬を味わうために、腕を磨いて刀を振るう。どれほど時代が変わろうと、誰に間違っていると謗られようと、それが幻乃にとって唯一絶対の生きる指針だ。


「皆さまとて、同じでございましょう? それぞれ譲れぬ理由があってここにいるのだと思いましたが、違いましたか?」


 緊迫した空気の中、周囲は息を呑んで俊次と幻乃を見つめていた。彼らの視線をものともせず、幻乃は飄々と笑みを深めてみせる。

 やがて、俊次はゆっくりと刀を下ろした。


「いいだろう。働いてもらうぞ」


 ――かかった。

 狐のようだと称される細い目をさらに細めて、幻乃は満足げに喉を鳴らした。

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