12

 夜がとっぷりと更けるころ、幻乃は闇に紛れるように細路地を歩いていた。冬の夜、しかも前日に襲撃があった場所ともなれば、歩く者どころか門から顔を出す者ひとり見当たらない。

 唯一の例外は、目の前で瓦礫がれきの上に腰掛けている男くらいだ。


「こんばんは。お待たせしてしまいましたか?」

「別に。待つと言ったのはこちらの方だ」


 声を掛けると、幻乃とそう年も変わらぬだろう男は、気だるげに立ち上がった。昨日斬り合ったときのままの薄汚れた袴姿に、ざんばら髪が寒々しい。


「やっぱり来たか、狐。そんな気がした」


 そう言って男はほんのわずかに口角を上げた。喜びと悲しみが混じり合ったような、複雑な笑みだった。まじまじと顔を観察してみると、なるほど見覚えがあるような気がしなくもない。俊一の下にいた者なのだろうが、名前までは覚えていなかった。


「お名前をお聞きしても?」

「……相変わらず、眼中にない奴はとことん忘れるお人だな。冬馬とうまでいい」


 苗字なのか名前なのかも分からぬ名を名乗って、冬馬はぴたりと幻乃の間合いの直前で足を止めた。昨日も一番最後まで手を出さなかったことといい、警戒心の強さが伺える。

 一際強い風が、凍えるような音を立てて、ふたりの間を吹き抜けていった。痛みさえ感じるほどの寒さに眉をひそめつつ、幻乃は淡々と問いかける。


「あなた方のまとめ役はどなたですか」


 世間話をするような間柄でもない。早々に本題に切り込むと、それを予期していたかのように冬馬も端的に答えを返してきた。


「酒井俊次としつぐ

「主を呼び捨てにしていいんですか? それだからこんな捨て石のような扱いを受けるのでは?」

「俺の主は俊一さまだけだ。あの男の行動が、今はまだ俊一さまの遺志に沿っているから従っているまで。他藩の傀儡にしかなれぬお方を、主人と仰げるはずもない。お前だってそうではないのか、狐。それとも彦根の藩主に鞍替えしたという噂は、本当だったのか?」


 俊一によく似た声で問い詰められると、別に悪いことをしたわけでもないのに、裏切り者となじられているような気分になった。なんともいえない居心地の悪さを笑みで覆い隠しつつ、幻乃はゆるゆると首を横に振る。


「いいえ、事実無根の噂です。俊次殿に追い出されて行き場をなくしたところを、世話になっていたのは本当ですけどね。もっともそれも、あなたがたのおかげで続けられなくなりましたが」

「そうか。気の毒にな」

「ええまったく。それで、小浜藩を矢面に立たせている後ろの方々は、どの程度出張ってくるつもりなんですか?」

「さあ。興味があるなら自分で調べたらどうだ。得意だろう? ……まあ、あんたが俺たちの側につくというのなら、道中で話せることもあるだろうけどな」


 こちらにつけと言う割には、詳しい話をする気はないらしい。

 いくらかつて同じ主人の下で働いていたと言えど、昨日、幻乃は冬馬の仲間を切り捨てたばかりだ。警戒されるのはやむを得ないことだろう。

 ふう、と小さくため息をついて、幻乃は「いいですよ」と呟いた。


「あなた方の陣営につきます。何をしようとしているのか知りませんが、戦場があるなら参加しましょう。俺も新時代とやらは肌に合わないようなので。……俊次殿が受け入れるかどうかは知りませんが」

「どうとでも言いくるめられるだろう、あんたなら」

「……そうですね」

「一応聞いておくけど、生きて帰れる見込みが薄いとしても、意志は変わらないな?」

「俺にそれを聞くんですか。そんなこと、気にしたこともありませんでしたよ。斬れればそれで良いです。強い剣士がいれば、もっと良いですけど」

「やっぱり」


 ごくごく普通に返しただけなのに、冬馬はなぜか感極まったような顔をして、何度も確かめるように頷き始めた。


「そうだな……、そうだよな。あんたはそういう人だよな、狐」


 そういう人とはどういう意味なのだろう。

 きらきらと輝く眼差しを向けられて、幻乃は頬を引きつらせた。よく知りもしない相手から、く在れかしと決めつけられることほど不快なことはない。


「あなたは、俺の何をご存知で?」

「あんたの悪癖ならよく知っているつもりだよ、戦狂いの狐。俺が俊一さまに仕えるようになってから、俊一さまの懐刀であるあんたのこと、ずっと見てきた。他人の目も良識もしがらみも、あんたは何も気にしない。戦場で笑うあんたを不気味がる奴も多かったけど、俺はあんたを見るたび、ほっとしてたよ」

「ほっとした……?」

「戦場であんたの背中を見ていると、何も怖くなくなるんだ。罪悪感も恐怖も、どうでもよくなる。これでいいんだって……、自分の信じるもののために刀を振ればそれでいいんだって、そう思えた」


 開けていた距離をゆっくりと詰めて、冬馬は恐る恐るといった様子で手を伸ばしてきた。何をする気かと見ていれば、冬馬は幻乃の左手を恭しく両手で取って、ぎゅっと握り込んでくる。


「歓迎する、狐。心から。……ここでまた会えたのは運命だと思う。あんたの隣で死ねるなら、どんな戦場でも怖くない。たとえ負け戦だとしても、望むところだ。ともに俊一さまのために、義を尽くそう」


 暗い熱を含んだ瞳。喜びに歪んだ唇。幻乃を『狐』と呼ぶときの、耳にまとわりつくような、興奮を無理矢理抑えつけた掠れ声。幻乃であって幻乃でないものを見ている狂信者のよ

うな目に、鳥肌が立ちそうになる。

 既視感があった。直澄に向けられたそれらは心地よいと思えたのに、この男から向けられる視線は気色が悪くてたまらない。声こそ俊一によく似ているものの、亡き主人が絶対に浮かべなかった表情と、そこに込められた歪んだ憧憬に、怖気が立つ。

 湧き上がった嫌悪感に任せて、幻乃は勢いよく手を振り払った。


「慣れ合うつもりはありません。俊一さまはもういない。俺が戦うのは自分のためだ。血生臭い私欲のために、俊一さまの名を使う気はありません」


 冬馬はぱちぱちと瞬きをした後で、そっと手を引っ込めた。


「……そうか。あんたがそう言うなら、それでいい」


 気分を切り替えるように頭を振って、冬馬は淡々と幻乃を促した。


「行こう、狐。拍子抜けするくらい、見回りがいないんだ。何かがおかしい。追手を差し向けられたら面倒だし、早めにこの地を離れた方がいい」

「ああ、それなら大丈夫です」

「え?」


 口角をかすかに上げて、歩き出す。


「皆さん、お忙しいんでしょう。黄昏時に、川際で首無し死体が見つかったと聞きましたから」


 ひとり幻乃に追いついてきた忠義に厚い武士の名は、たしか半蔵といっただろうか。直澄の信を得ているだけあって、そこそこ楽しめた。

 他にもいくつか、場所を散らして置き土産を残してある。こちらに目が向くことはないだろう。


「ですが、早く離れた方が良いのは確かです。夜歩きはしたくありませんが、早めに山だけ降りてしまいましょう」

「そうだな。そうしよう。街道のそばまで行けば、身を休められる場所がある」


 冬馬が先導する形で、ふたりは足早に山を下っていく。

 町から十分に距離を取ったところで、幻乃はかすかに歩調を緩めると、ちらりと佐和山城の方角に目をやった。


「名残惜しいか?」


 目ざとく幻乃の視線の動きに気づいたらしい冬馬は、振り返らぬまま、揶揄からかうように問いかける。


「別に」

「挨拶は済ませたのか。三条の若頭と、いい仲なんだろ。ねやだなんだと言っていたろう」


 舌打ちする。直澄の家臣たちと揉めていたところを、どこからか見ていたらしい。


他所よその藩主相手に、仲も何もあるわけがないでしょう」


 一宿一飯ではすまない恩を仇で返す形にはなるが、元はと言えば幻乃を生かした直澄が悪い。幻乃の行動に制限はしないと言ったのは直澄本人だ。幻乃が出て行こうが直澄の敵につこうが、いちいち報告する義務もなければ、別れを告げる義理もない。

 ぎり、と奥歯を噛み締める幻乃を見て何を思ったのか、冬馬は笑い混じりに歩調を緩めると、幻乃の隣に並んできた。


情夫いろには、さすがのあんたでも情がうつったか? 狐は男色嫌いだって聞いていたのに、変わったな」

「あなたには関係のないことです」

「どうかな。あるかもしれない。人肌恋しくなったら、気軽に声を掛けてくれ。あんたの相手なら、喜んで勤めさせてもらうから」

「……戦の前に死にたいか? お仲間の後を追いたいというのなら、わざわざ回りくどい言い方をしなくてもいい。今この場で冥土に送ってやる」


 刀に手を掛けながら声を低めれば、慌てたように冬馬は距離を取った。


「冗談! 冗談だ! ……短気なのは相変わらずか。何でもかんでも暴力で済ませようとするなって、俊一さまもよく言っていたろう。あんたのそういうところ、俺は好きだけど、言葉で穏便に話し合うってことも少しは覚えた方が良いと思うぞ」

「生憎ですが、必要を感じません」

「感じろよ。あれだけ口酸っぱく言ってた俊一さまが気の毒だ。『狐。刀で打ち合うことは会話とは言わないのだと、何度言えばいいのかな』って」

「その声で俊一さまの真似をするのはやめていただけませんか。不愉快です」

「似てるだろう? 俺の自慢なんだ。この声のおかげで、俊一さまがこっそりお休みされたいときにも、お役に立つことができた」


 心臓に悪かったけど、と笑う声を聞いていると、在りし日の主人の姿が脳裏に浮かんできた。通りがかった冬馬の腕を引いて、自分の声真似をしろと無茶振りをする俊一の姿が、見えるかのようだ。


「……あの方には、そういうところがありましたね」

「ああ。知っているか? お方様が来たばかりのころだってな――」


 ぽつりぽつりと思い出を語り合う。野営の場所に着いてからも、ふたりは競い合うようにかつての主人の思い出を話し続けた。思えば俊一が死んで以来、亡き主人について誰かと語り合ったのは、これが初めてかもしれない。

 俊一が生きていたのなら、自分はどうしていただろう。戦場で直澄と斬り合える日を指折り数えて待ちながら、変わりゆく時代に馴染めていただろうか。あるいは主と運命をともにする覚悟を決めて、とっくに命を落としていただろうか。

 ひとつ確かなのは、こうまで深く直澄と関わり合うことはなかっただろうということだけだ。


「……たらればの話をしても、仕方がありませんよね」

「うん?」

「いえ、楽しみだなって」

「本当に戦狂いだな」

「別に戦が好きなわけじゃありませんよ。斬り合うのが好きなんです」

「同じだろ」


 冬馬の声を聞きながし、幻乃は愛おしむように刀を抱え込む。


(俺は、あなたにまた会いたい)


 目を閉じ、何も告げずに離れた相手をひっそり想う。


出会ったあなたに、また会いたい。直澄さん)


 復讐だと言っていた。思いつく限りを幻乃から奪いたいのだと言っていた。

 とっくに奪われている。あの夜直澄に斬られた瞬間、幻乃は自分だけのものだったはずの心を、あの強く美しい男に丸ごと奪われてしまった。


「……もうすぐですね」


 幻乃の独り言を、小浜藩への道のりのことだと思ったらしい。冬馬が「ああ」と力強く頷いた。


「明け方になったら動こう。明日の夜までには着くはずだ。それまで、身を休めておくと良い」


 無言で頷き、幻乃は鞘に頬を預けた。

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