第28話 【現在】良美の誘い

丸山のお婆さんの家から戻って来た時には、すでに薄暗くなりかけていた。

千夏は俺よりも先にお婆さんの家を出ていた。

なんでも仕事があるらしい。


俺が家の前に到着すると、見かけない車が止まっている。

車は大阪ナンバーのBMWだ。


(なんだろう。ウチに用事? リフォーム会社か? 約束は明日のはずだが)


俺がそんな疑問を感じていると、車のドアが開いて誰かが降りて来る。

襟から肩が露出したオフショルダーのサマーニットに、腰のラインが分かるタイトスカート。

そして長い黒髪の女性は山本良美だった。


「こんばんわ」


彼女は笑顔でそう挨拶をして来た。


「こんばんわ。どうしたんだ、こんな時間に?」


「一緒に食事でもどうかな、と思って誘いに来たの」


「食事?」


「そう。陽人くんの家は誰もいないんでしょ? だったら少し付き合ってくれない?」


なんとなく戸惑いを感じるが、断る理由も特に思いつかない。

そこに良美がダメ押しのように言った。


「この辺だと食べに行く所も無いし、毎日カップ麺かコンビニ弁当じゃ飽きるでしょ? いつかの打ち上げもまだだし……」


俺は苦笑した。


「分かった。ありがとう。ご一緒させてもらうよ」


「じゃあ車に乗ってくれる?」


彼女は再び運転席に潜り込む。

俺も助手席に乗り込んだ。



彼女が食事の場所に選んだのは、I市にある観光ホテルのレストランだった。


「ホテルのレストランか。高そうだな」


俺がそう言うと彼女は


「大丈夫。ここはリーズナブルな値段で美味しい料理を提供してくれるの。そんなに高くないわ」


と答えた。


「そうか。詳しいんだな」


「私はね、コストと時間のパフォーマンスを重視してるの。無駄な投資はしないわ」


と当然のように言った

(彼女らしいな)と俺は感じる。


既に予約してあったらしく、ウェイターが席まで案内してくれる。

料理はコースではなく、俺がラムチョップステーキ、良美が鯛のパイ包み焼きを注文する。

それと同時に良美はワインを注文した。

俺が「おい、車の運転をするんだろ? アルコールはマズイって」と注意すると


「大丈夫よ。帰りは運転代行を頼むつもりだから」と答えた。


ワインがまず運ばれて来る。

良美だけではなく、俺のグラスにもワインが注がれる。


「それじゃあ、再会のお祝いに」


良美がそう言ってワイングラスを持ち上げる。

俺もそれに合わせた。


「陽人くんは電子部品の商社に勤めているって言ったわね。主にどんな仕事をしてるの?」


「普通の商社と変わらないよ。顧客企業から注文を取り、大量の電子部品をメーカーから入荷して、それをまた顧客企業に売る。その繰り返しさ」


「電子部品って半導体? 今は台湾と韓国が強いのよね?」


「ちょっと違うかな。むしろ半導体は別の市場だよ。俺はコンデンサや抵抗器、トランスやコイルなんかをメインで扱っている」


「そっちか。現在の日本で世界シェアを押さえている、数少ない業種の一つだもんね」


「良美の方はどんな仕事なんだ? ベンチャー企業の立ち上げを手伝っているって言っていたけど」


「有望そうなベンチャー企業を投資家に紹介したり、または技術力があっても経営力が乏しい会社に人材を派遣したり……」


「凄いな。コンサルタント様って事か?」


「別に凄くなんかないわ。ただ業界や会社の間を走り回っている、便利屋みたいなものよ」


そして口元に微笑を浮かべてこう付け加えた。


「そもそも今の私が凄いとしたら、アナタが自信をくれたからだわ」


「俺が? どうして?」


良美はそれには答えない。

彼女はワインをぐっと飲むと、疲れたような口調になった。


「大学を出てから六年間、ずっと一生懸命に走り続けてきたけど、最近考えちゃうのよね」


「なにを?」


「これが私の望んでいた人生なのかな、って。特に大学時代の同級生や元同僚が寿退社して、子供なんかを連れている所を見ると」


「その代わりに高級外車を買える収入とスキルを手に入れたんだろ? 問題ないじゃないか」


「もちろん、今の仕事に後悔はしてないわ。仕事を辞める気もないし……」


そう言いながらワイングラスの縁を指でなぞり始めた。


「でも私は両方を手に入れたいのよ。欲張りなのかな?」


「今はそういう女性の方が多い。別に欲張りって訳じゃないだろう」


そこまで話した所で、注文した料理が運ばれて来る。

鯛のパイ包み焼きにナイフを入れながら、良美が話を続けた。


「仕事に疲れて部屋に帰った時、真っ暗な寒い部屋に入ると侘しさを感じるの。誰かが暖かい部屋で待っていてくれたら、どんなに心が休まるだろうって」


「旦那も働いていたら、必ずしも相手が先に家にいるとは限らないだろ」


「そういう事を言っているんじゃないわ。なんて言うかな……『心が安心して帰れる部屋』が欲しいのよ」


俺は無言でラムチョップステーキを口に運んだ。

彼女の言っている意味はわかる。

独り暮らしで仕事に疲れた時、誰もが思う事だ。


「陽人くんみたいな、一緒にいるだけホッとするような……そんな人がいたらいいなって」


俺は口の中のラムチョップを飲み込んだ後で、水で喉を湿らせた。


「君は俺を買い被り過ぎだよ。良美ならその気になればイイ男はいくらでもいるだろ。文弘の結婚式でもみんなが『美人だ』って騒いでいたぞ」


「『三つ編みメガネ』は卒業したって事?」


良美が嫣然と笑う。

俺は苦笑した。


「それで、陽人くんはどう思ったのかしら?」


その言葉の意味が分からず、俺は聞き返す。


「なにを?」


「私の事、魅力的だって思ってくれた?」


「ああ」


「千夏より?」


思わず俺は彼女の顔を凝視した。

さっきまでの誘うような雰囲気とは一転して、まるで挑む様な怖い目で俺を見ている。

胃に送ったはずの肉が、喉につかえたような気がする。


「比べた事がないから、分からないな」


辛うじて俺は、そう答えた。

しばらくの間、じっと俺を見つめていた彼女の視線が、ふっと緩んだ。


「あの頃の陽人くんは、千夏しか目に入ってなかったもんね」


俺はそれには答えなかった。

だが良美は俺を逃す気はないらしい。


「陽人くんって、真面目で、正直で、そのうえ一途だよね」


「別に、そうでもないだろ」


「そうだよ。だって自分をフッた相手を十年も思い続けているなんて、普通の男に出来る事じゃないわ」


俺は良美を睨んだ。

良美は俺を面白そうに見ている。

そしてその目は何かを企んでいるかのようだ。


「勘違いも甚だしいな。俺はもう、千夏の事なんて何とも思っていない」


「そうかしら? だったらそれを証明できる?」


「どうやって?」


良美は上半身を反らせて窓の外に視線を投げた。


「さっき、私がワインを頼んだら『車なのにアルコールはダメだ』って言ったわよね?」


「ああ」


彼女は上半身を戻すと、今度はテーブルに肘をついて手を組み合わせ、その上に自分の顎を乗せて俺を見つめた。


「運転代行を頼む以外に、もう一ついい方法があるの」


「なんだ?」


「このホテルに泊まっていく事……」


良美の目がキラリと光ったような気がした。

俺は彼女から視線を逸らすと、静かに彼女に尋ねた。


「良美が俺にそんな事を言うのは、千夏に対抗しての事なのか?」


彼女からの返事はない。


「だとしたら本当に無意味だぞ。俺は千夏をどうこうしようなんて、全く考えてないからな」


「千夏をどうこうしようとは考えてなくても、千夏の事はずっと考えている。違う?」


俺はそれを無視するように、料理にナイフとフォークを入れる。


「それに陽人くんにその気が無くっても、千夏の方にはあるかもしれないわね?」


俺は顔をあげて再び良美を見た。


「千夏が嫌いなのか?」


「嫌いだわ。でも同時に羨ましく思っている。私とはいつも正反対にいるあの娘が、ずっと陽人くんの心を引き付けている事が」


「良美は千夏にない物を、たくさん持っているだろう?」


「それでも女にとって一番欲しい物、『どんな事になっても自分を想い続けてくれる存在』は彼女しか持っていないわ」


そう言った後、彼女は再び疲れたような表情を見せた。


「さっき私ならイイ男がいくらでも、って言ってくれたけど、実際に色んな男と付き合ったわ。外資金融、商社マン、弁護士、医者、青年実業家、芸能人……」


「凄いな。俺みたいな一介のサラリーマンじゃ、足元にも及ばないような大物ばかりだ」


「でもね、違うって気づいたの。そういう人たちじゃ、私が求めているものは与えてくれない。私の心を休ませてくれる相手じゃないのよ」


そう言った後で、またもや良美は俺をじっと見つめた。


「心が帰れる場所になれる男って、本当に稀な存在だわ。アナタは私に力を与えてくれる。そんな人は私が出会った中では、陽人くん、アナタだけだった……」


「嬉しいけど、付き合ったら一日で失望させる自信があるね」


それを聞いた良美は微妙な笑みを浮かべながらタメ息をついた。


「ところでどうかしら?」


「何がだ?」


「さっきの話よ。私が飲酒運転をしないで済む方法。『運転代行を頼む』か『このホテルで一泊していくか』?」


俺は最後のラムチョップステーキを口に入れると、注文伝票に手を伸ばした。

だがそれより先に良美が手を伸ばして、伝票を押さえた。


「私が誘ったのよ」


彼女が咎めるように俺を見る。


しかし俺はポケットから財布を取り出すと、テーブルの上に一万円札を置く。

メニューでは五千円以下だったから、ワインを入れてもこれで足りるだろう。


「お誘いありがとう。だけど俺はこれで帰るよ。良美は一人でここに泊まっていけばいい」


そう言って立ち上がり、彼女の横を通ろうとした時。

良美が素早く俺の腕を掴んだ。

俺が彼女に目を向けると、彼女はまたもや挑むような目のまま、口を開いた。


「私に、最後のチャンスをくれない?」


「最後のチャンスって?」


「陽人くんは明後日には東京に帰るんでしょう?」


「ああ」


「私は明後日の夕方まで実家にいる。私を選んでくれるなら、連絡をして」


「……」


「私は他の女みたいに、アナタを頼らない、アナタに寄りかからない、アナタの負担にならない……」


そう言った彼女は、最後はまるで哀願するような目をしていた。



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この続きは、明日正午過ぎに公開予定です。

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