第34話 【現在】ネバー・エンディング・ラスト・サマー(後編)

俺は展望台の柵の所に戻った。

千夏はそこに立ったままだ。


「真理恵は、なんて?」


「話をしろってさ。それで決着をつけろと」


俺は柵に腰掛けるように寄りかかった。


「そう」


「でも決着なんて、とっくの昔についているんだよな。十年前のあの日に」


「そう……そう、だよね。きっと……」


「千夏は、俺に何か話したい事とかあるのか?」


千夏はしばらく沈黙した後、静かにこう言った。


「話したい事って言えば沢山あるけど……でもどう言っていいのか分からない」


俺は思わずタメ息を漏らした。

俺も同じ思いかもしれない、と思ったからだ。


「関との生活は……楽しかったか?」


「なんで、そんなこと聞くの?」


「何から話せばいいか分からないんだろ? だったら幼なじみが結婚していたなら、その生活について聞くのはそんなに不思議でもないだろう」


「そっか、陽人はあくまで幼なじみとして聞いてくれているんだね?」


「ああ、そうだよ」


横で千夏が大きく深呼吸をしたかと思うと、三歩ほど前に進み出た。

俺に背を向けたまま「パン、パン」と二度自分の頬を両手で叩き、そしてクルリと俺の方を向き直った。


「よぉ~し、それじゃあこれからアタシのマリッジ・ライフを語っちゃうぞ! 陽人くん、結婚経験者の貴重なお話として、心して聞けよ!」


そう言った千夏の顔は、普段通りの明るい顔つきだった。

俺もそれに付き合う事にする。


「拍手でもするか?」


「おお、頼むよ!」


俺は小さく両手を叩いた。


「それでは……」


千夏は「コホン」と咳払いの真似をした。


「え~、とある山間やまあいの田舎町に、宗像千夏さんという世紀のスーパー美少女がいました」


「世紀のスーパー美少女とか、自分で言うか、普通」


「そこは流して!」


千夏は笑った。


「千夏さんには、小学校の時からの幼なじみであり、親友でもあった神崎陽人くんという少年がいました」


「俺には何か形容詞はつかないのか? 超絶イケメンとかさ」


「超絶ヘタレ野郎ならつくけど?」


「却下! 続けて」


「千夏さんは小学校時代から、ずっと陽人くんの事が好きでした。でも彼女には彼に打ち明けられない理由がありました。それは彼女の家が、同じ地区で村八分的な扱いを受けていたからです」


「えっ」と思い、俺は千夏を見つめた。

だが千夏は俺とは目線を合わせず、その先を語り出した。


「何度かいい雰囲気になりつつも、陽人くんが千夏さんに告白する気配は一向にありません。その上、陽人くんは学校でも女子に人気のある男子です。千夏さんは『やっぱり自分じゃダメなのかな』と諦めていました」


(そんな、それは全く逆じゃないか)


そう思っている俺を尻目に、千夏は話を続ける。


「そうして数年が経ち、高校二年の時です。千夏さんは当時高校に臨時数学講師として教えに来ていた関智樹と出会いました。関はとても女生徒に人気がある先生でした。千夏さんの所属している委員会は顧問が関智樹だったので、二人は自然と色んな話をするようになりました」


「……」


「そんなある日、関智樹も母子家庭である事を千夏さんは知りました。そして関智樹は最愛のお母さんを失くしたばかりだったのです。傷心の関智樹に、千夏さんは深く同情するようになりました。そうして彼の身の回りの世話をするためアパートに通う内に、関智樹に段々と惹かれていったのでした」


「関に、そんな事情があったのか?」


俺がそう漏らすと千夏が言った。


「関先生が母子家庭だって事は話したよね。あの時の彼は公私ともにボロボロだったんだよ。お母さんを病気で失くし、唯一の生きがいであり収入源でもあった研究室の助手の仕事も無くなって……彼は本当に疲れ切っていたんだ。アタシが支えてあげなくっちゃって、そう思った」


千夏は足元を見ながら小さく歩く。


「きっと陽人には、こういう気持ちは分からないだろうね。家に帰っても真っ暗で誰もいない部屋に一人って。小さい時からアタシは陽人が羨ましかった。家でご飯を作ってくれているお母さんがいて、休みの日にはどこかに連れて行ってくれるお父さんがいて……。陽人の暖かい家から一人で暗い家に帰ると、どうしようもなく寂しさに捕らわれたよ……」


俺も自然と視線が下に向く。

俺は千夏がそんなに孤独感を感じていたとは思いも寄らなかった。


「それで千夏は関に?」


「もちろん、それだけじゃないよ。確かに最初は同情からだったけど……でも関先生は慣れない授業も一生けん命にやろうとしていたし、委員会でも分からないなりに熱心だった。元々人付き合いが苦手な人なのにね。それに数学に賭ける情熱は本物だったと思うよ。アタシはそういう所に惹かれたのかな……」


「それで千夏は……」


そう言いかけた所で、千夏が「ストップ!」と言って右手で止める仕草をした。


「その前に二つ、陽人に教えて欲しい事があるの」


「俺に教えて欲しい事? 何をだ?」


「陽人はさ、アタシに告白してくれた時、言っていたじゃん。『ずっと前、小五の時には好きだった』って」


「ああ」


「どうしてアタシを好きになったの?」


「どうしてかな? 可愛いとは思っていたけど……やっぱり一緒に居て楽しかったからかな」


すると千夏は赤い顔をして言った。


「そうなんだ。アタシの事、可愛いって思ってくれてたんだ」


千夏が急に恥ずかしそうにするので、俺まで恥ずかしくなる。


「ま、まぁな。千夏は客観的に見て美人な方だろ。俺の母親もよくそう言ってたよ」


「エヘヘ」


千夏は小さく照れ笑いをした。

なんだかそんな仕草が、やけに子供っぽく見える。


「じゃあさ、何がキッカケでアタシを好きだって思えるようになった?」


思わず俺は俯いた。

言いにくいし、あまり言いたくはない。

だけど、ここはお互い正直に話さなければならない時だと感じた。


「ハッキリ意識したのは、あの時だよ」


「あの時?」


「ほら、小五の時に渓流で遊んでいて……」


「キスした時?」


千夏のその言葉に、俺は頷いた。

ってか28歳にもなって、キス一つでこんなに照れるなよ、俺!


「そっかぁ、あのキスで、陽人はアタシを好きになってくれたのかぁ」


そう言った彼女はブラブラと歩いたかと思うと、俺の方を向き直ってこう言った。


「じゃあアタシがここでもう一度キスしたら、陽人はアタシの事を好きになってくれるかな?」


「は?」


「ヘヘッ、冗談だよ、冗談。そんな事で今の陽人が、アタシを好きになる訳ないし」


「変な冗談を言うなよ。そもそもあの時だって、キスしたから好きになった訳じゃないぞ!」


「そうなんだ。じゃあもっと前から、アタシを好きでいてくれたんだね」


千夏は嬉しそうな、そして寂しそうな顔でそう言った。

俺はそんな千夏から視線を逸らし、小声で聞いた。


「そういう千夏は、どうだったんだよ」


「どうだったって?」


「さっき俺の事、ずっと好きだったって言ったろ?」


千夏が静かに目を閉じた。

しばらく経ってから口を開く。


「そうだね。アタシはずっと陽人の事が好きだったよ。たぶん、陽人がアタシを好きになるより前から……」


「それも関が来るまで、って事か……」


千夏が再び沈黙する。

今度の沈黙は今まで一番長かった。


「高校を卒業してからは、陽人の事は考えないようにって……努力していたよ。自分で選んで決めた事だから……」


千夏が空を見上げた。

夜風が吹き、彼女の髪を柔らかくそよがせる。

しばらくして、千夏が手を叩いた。


「じゃあ二つ目の質問、いいかな?」


「なんだよ」


「陽人くんは昨夜レストランで一緒だった女性に、連絡をするのでしょうか?」


俺は目を丸くした。

思わず口から洩れる。


「なんで……知ってるんだ?」


「幼なじみテレパシー!」


千夏は両手をX型にクロスさせてポーズを取る。

だが次の瞬間、ポーズを崩すと笑いながら言った。


「そんな驚いた顔をしないでよ。種を明かすとね、昨日、陽人が良美と一緒に来たレストランで、アタシはバイトをしているんだ。厨房で皿洗いとか雑用係だけどね。それで二人が居るのを見ちゃったの」


まだ唖然としている俺に千夏は続けた。


「彼女、キレイになっただけじゃなくって、カッコ良くなったよね。大阪でコンサルタント?とかいう凄い仕事をやっているんでしょ? それで高級外車かぁ。アタシとは凄い差が着いちゃったよね。原チャリでバイトに通っているアタシとは大違い」


俺はなんとも居たたまれない気持ちになっていた。

幼なじみとかっての同級生が食事をしている裏で、自分は正社員でもなくバイトとして雑用係をやっている。

その時の千夏の気持ちを考えると、俺は胸が締め付けられるような気がした。


「近くを通ったウェイターの男の子も言ってたよ。『頼らないし寄りかからないし負担にならない』だって? すっごいなぁって」


そう言った後で、千夏は夜空を見上げた。


「もうどう足掻いたって、アタシじゃ勝ち目はないよね? ここからあの星を見上げているみたいだよ」


「別に俺は、そんなつもりは……」


「無理しなくていいよ。今のアタシと良美だったら、正常な男性だったら誰だって良美を選ぶって。そもそもアタシには、最初から陽人に選ばれる資格なんて無いもんね。アタシは陽人を裏切って、自業自得でバツイチになったんだし……」


俺はその時の千夏に、何を言えばいいのか分からなかった。


「それじゃあ、陽人くんの後学のために、アタシの話をもう少し続けるとしますか?」


千夏は両手を後ろに組み、身体を少し前屈み気味にして話し始めた。


「千夏さんは高校を卒業するとすぐに、関智樹と結婚しました。二人はM市に暮らす事にしました。関智樹もそれ以上は高校に居られなくなったので、大学に戻る事にしたためです。しかし彼はその年も研究室の助手の職にはありつけなかったため、研究室に居候するポスドクの立場でした」


「助手でもないポスドクって……生活費はどうしていたんだ?」


「研究室から給料は出ないからね。アタシが主にパートで働いていたよ。あと関先生も塾講師として週2でバイトしていたけど、それはアイツの小遣いだったかな」


まだ十代の千夏がパートで家計を支える。

同年代は遊んで青春を謳歌している頃、それは精神的に辛い生活だったのだろう。


「苦労したんだな……」


しかし千夏は明るい表情で首を左右に振った。


「あの頃はまだ若かったし、それほど苦労でもなかったよ。それに……裏切者には当然の罰じゃないかなって、そう思ったし……」


俺は思わず顔を顰めた。

心の痛みを、現実の胸の痛みのように感じたのだ。


「でもさ、本当に辛かったのはその後だよ」


今度は明確に、千夏は悲しそうな顔で話し始めた。


「その後、関先生は研究室の助手になれたんだけど……結婚して七年目にね『別れよう』って言われたの」


「離婚の理由は何だったんだ?」


「それがさぁ酷いんだよ。最初は『若い君を僕に縛り付けるのは可哀そうだから』とか言っちゃって、『なに、今さら?』って感じ。最後には『僕と君とでは知的レベルが違う。話が合わない』とか言い出しちゃってさ。コッチは高卒で結婚してるんだから、当たり前だっつーの!」


「それが離婚理由なのか?」


俺が驚いて聞くと、千夏は苦笑いを見せた。


「本当の理由は違ったんだよね。アイツ、研究室に入ってきた女子大生と不倫してたんだよ……。早い話が若い女の子に乗り換えられたって訳」


そう言った後で千夏は横を向いて拳を構えると


「あんの野郎~、アタシを働かせて家事とかも全部アタシにやらせていたクセに、自分は若い娘と不倫とか……もう『死ね死ね死ね』って感じ!」


そして『死ね』に合わせてジャブを三発繰り出した。

だがその行動の裏にも、千夏の深く傷ついた心が見え隠れするようだった。


「それで離婚してコッチに戻って来たのか?」


「うん、まぁ。離婚してもお金は全然貰えなかったしね。財産がないと分けようもないから。それとコッチに戻って来たのは、ちょうどその頃にお母さんにガンが見つかってさ。もう手遅れなんだけど、アタシが看病するしかないでしょ? それで……」


(本当に苦労したんだな、千夏……)


「お母さんはいつ亡くなったんだ?」


「三か月前。でもそれももう終わったから、アタシもこの町から出ていこうと思ってるんだ。とりあえず真理恵の結婚式まではコッチにいたけど……」


俺はここに来た最初の日に、同級生であるサナが「千夏も家を処分する」という話をしていた事を思い出した。


「出ていくって……どこに行くんだ?」


「まだ考えているんだけど……大阪かな?」


「都会に出ると金がかかるぞ。住む所があるなら、ここに残るって言うのも一つの方法じゃないか?」


「それはもう無理って感じ。ここに居たって仕事とかないじゃない。それこそアタシじゃ資格も経験もないし、スナックのホステスとか水商売くらいしか出来ないよ。だけどこの土地で、それだけは絶対にやりたくないんだ。アタシの家が何て言われているか知ってるでしょ? その言葉通りに母娘三代で水商売なんて……」


俺は押し黙った。

職業に貴賤は無いとは言え、この集落ではそういう事を言う人は多いのだ。

それに以前の良美が言っていた『千夏の母親の件』は、単なる噂ではなかった。

千夏が俺でさえも、家に来させたくなかったのは、そういう事情もあった。

その辛さを、千夏は子供の頃から身に染みて味わっている。


「それにさ、同級生だって、その家族だって、みんなアタシの事は知っているしさ」


千夏は俺に背を向けて話し始めた。


「バツイチとかならまだマシ。『教師に弄ばれて捨てられた女』、『関の使い古し』、『中古車』……」


その肩が小さく震えた。


「みんな口が悪くて、まいっちゃうよね~」


その声も語尾が震えていた。


「アタシなりにさ、頑張ってたんだけどなぁ~」


俺の胸が激しく痛む。

俺がキャンパスライフを謳歌し、そして不満を言いながらも不自由なく暮らしている時、千夏はこんなにも苦労を重ねていたのだ。


「千夏……」


千夏が振り向いた。


「ア、アタシ……そんなに汚れちゃったかな? みんなに言われるほど、そんなに……」


その両目から、大粒の涙が零れ落ちた。

今まで話しながらも、ずっと堪えていた涙が、堰を切ったように流れ出していく。

千夏は我慢しきれず、両手で顔を覆い、声を殺して泣いていた。


そんな千夏を見つめながら、俺は二つの心の中で揺れ動いていた。

「千夏を力一杯抱きしめてやりたい気持ち」と「それでも千夏を受け入れられない気持ち」だ。


真理恵の言った通り、俺は今でも千夏を愛している。

この十年間、心の奥深い所にずっと千夏は居たのだ。

だが愛しているからこそ、十年前のあの夏の日の光景が忘れられないのだ。


(俺は、どうすれば……)


……どうしたらいいのか分からなくなった時、これを開けてみて……


真理恵の言葉が、どこからか聞こえたような気がする。


俺はポケットに手を突っ込むと、彼女から渡された物を取り出した。

紙で包まれた何かだ。

俺は紙を広げてみる。

中から出て来たのは……小さな土星の模型だった。

そして紙には、こう書いてあった。


『土星の月は、砕けても土星の周りを回っているよ』


(砕けても……)


俺の中で、何かが落ちたような気がした。

俺は千夏のそばに行くと、小さく震える彼女の身体を、背後からそっと抱きしめた。


「……陽人?」


千夏が小さく意外そうな声でそう言った。


「千夏は汚れてなんかない。俺の中ではいつも輝いている。始めて会った夏の日みたいに……」


「……陽人……」


「俺は子供の頃からずっと、千夏が好きだった。その気持ち、今も変わってないよ」


しかし千夏の身体は強張った。

まるで俺から離れようとするみたいに。


「でも、でも、アタシ、陽人を裏切ったんだよ……」


「裏切ってなんかない。あの時の自分の気持ちに正直だっただけだろ」


「でもアタシ、陽人の気持ちを知っていて、関先生に……」


「言うな! 言わなくていい!」


俺は強く千夏を抱きしめた。

もう彼女が逃げ出さないように、しっかりと。

千夏が俺の腕の中で、微かに顔を上げる。


「いいのかな……アタシ、そこまで陽人に甘えていいのかな?」


俺は十年分の想いを絞り出すように言葉にした。


「俺が、千夏を必要としているんだ……」



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この続きは、明日正午過ぎに公開予定です。

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