第4話 【過去】千夏という少女(後編)

俺が千夏を初めて『女の子』として意識したのは、小5の夏休みだったと思う。


俺の家は新たに建てられたためか、他の集落とは少し離れた場所にあった。

千夏の家はさらに少し離れた場所にある。

そのため学校が休みの時は、俺は千夏と二人だけで遊ぶことが多かった。


その日は蒸し暑かった事もあり、千夏が「川で遊ぼう!」と言い出した。

俺たちが向かったのはいつも行く家の近くの川ではなく、山の方に入った渓谷だ。

二人とも自転車で行ったのだが、登坂が続く道でも千夏はスイスイと登っていく。

一方の俺はひいひい言いながら、やっとの思いで自転車をこいでいた。


山に入った所で川は渓谷の様相を見せて来る。

俺たちは川原に降りやすい所を探して、川遊びを始めた。

最初は魚を探しているくらいだったのだが、段々と遊びに夢中になり川の中ほどまで進んで行った。


「キャッ!」


千夏が悲鳴を上げた。

驚いて彼女の方に視線を向けると、千夏は川の中で後ろ手に尻もちをついて座り込んでいた。


「大丈夫か? 千夏」


そう言って近づいた俺は、思わず息を飲む。

千夏が着ていた白いTシャツは、水に濡れて透けてしまっていたのだ。

そして彼女の膨らみかけた胸と、ポツンと突き出た乳首がハッキリと写っていた。

呆然と立ちすくむ俺に、千夏は不思議そうな顔で言った。


「どうしたの? 陽人」


だが俺の視線が自分の胸に注がれていると知った時……

千夏は俺の顔に水を引っかけた。


「なにすんだよ!」


まともに水を喰らった俺が文句を言うと千夏は


「陽人が変な所を見てるからでしょ! エッチ!」


と言って両手で胸を隠すようにした。

日頃男子に混じって遊んでいる千夏からは考えられないようなそのポーズに、俺はまたもやドキッとさせられる。


「バ、バッカ野郎! 千夏の胸なんて誰が好き好んで見るかよ! たまたま目に入っただけだろ! 千夏なんて女のウチに入らねぇよ!」


俺は顔を逸らしながらそう反論した。

ただ自分でも顔が火照っているのは感じていた。


千夏は胸を隠しながら立ち上がると、川から出て行った。

俺の視線を避けるようにして、陽の当たる場所に立っている。

とは言え、Tシャツが渇くまでは時間がかかる。

俺はそのままにはしておけないような気がした。

自分のTシャツを脱ぐと、俺に背を向けている千夏に「これ、着ろよ」と差し出した。

千夏が黙ってそれを受け取ると、「俺はアッチ向いてるから」と言って彼女に背を向けて離れる。


その後、彼女は濡れた自分のTシャツで身体の水気を落としてから、俺のシャツを着たんだろう。

ある程度の時間が経ってから「もうコッチ見てもいいよ」と千夏が言った。


振り返ると千夏が俺のTシャツを着て立っている。

俺が着ている時には無い胸の感じが、また俺に視線を逸らさせた。


「しばらく服は乾かしておこうか」


俺はそう言って千夏のTシャツを、陽の当たる大きな岩の上に広げた。

既に絞ってあったので、割りとすぐに乾くだろう。

そのすぐ横に太い倒木があったので、二人で並んで座る。

太陽はまだ高い位置にあり、午後の強い日差しが渓谷全体に差し込んでいた。

山の中は静かだ。

時折、鳥の声が聞こえて来るくらいしかない。

俺は上半身が裸の状態で、すぐ隣に俺のTシャツを着ている千夏がいる事が、すごく不思議な気持ちがした。


「ねぇ」と千夏が話しかけてきた。


「なんだ?」


俺は正面を向いたまま、そう返事をする。

千夏の方を見たら、また変な所に目が行ってしまいそうだから。


「陽人はさ、好きな女の子とか、いる?」


俺は驚いた。

これまで千夏がそんな話題を口にした事は一度もないからだ。


「いないよ」


俺は正直に答えた。

それまで特に誰かを「好き」なんて意識した事はない。


「良美はさ、陽人の事が好きだって言っているけど?」


山本良美よしみは同じクラスの女子だ。

真面目そうな感じだが、女子の中では発言力があるようだ。


「でも俺、良美と話した事、あんまりないし」


そう答えた後で、俺は「千夏は好きなヤツとかいるの?」と聞こうと思っていた。

だがその言葉がなぜか躊躇われて、中々出てこない。

すると今度も千夏の方から先に口を開いた。


「陽人は……今までキスとかした事、ある?」


「え?」


思わず自分の耳を疑った。

だが千夏はもう一度、同じ事を聞いていた。


「キスってした事、あるの?」


「な、なんでそんなこと、聞くんだよ」


「……都会の方が、そういうの、早いのかなって思って」


「ある訳ないだろ。俺がコッチに引っ越してきたのは、まだ小三だぞ」


俺は焦りながらも、そう答える。


「そうなんだ……」


俺は自分が赤面してくるのがハッキリと分かった。


(なんで千夏は、こんな事を言いだしたんだろう)


俺は横目で千夏を見た。

その時、千夏も横目で俺を見た。

二人の視線が一瞬、絡み合う。

俺がすぐに目を逸らした、その直後だった。


「だったら、アタシとしてみる?」


「えっ?!」


今度はハッキリと千夏の方を振り向く。

千夏のパッチリとした黒目が、俺の方をまともに見据えていた。


「アタシとしてみる? キス……」


心臓がドキドキと早鐘を打つ。

千夏の顔しか目に入らない。

彼女のパッチリとした目、大きな黒目、スッキリと通った鼻筋。

そして……柔らかそうな朱色の唇。


不意に母親が「千夏ちゃんって美人よね。あんな可愛い娘と友達になれて、陽人は良かったね」と言っていたのを思い出す。


(そうだな、千夏って、本当はかなり可愛いよな)


そう思った俺は、まるで熱に浮かされたように「うん」と答えていた。


「じゃあ、コッチを向いて……」


千夏にそう言われて、俺は身体を捻って彼女の方を向いた。

彼女も俺の方に身体を向け、二人の膝がくっつく。

なんかそれだけで興奮してくる。


(このまま、顔をくっつければいいのかな?)


そう思った時、千夏が俺の二の腕に触れて来た。

俺も同じように彼女の二の腕を柔らかく掴む。

その体勢で二人は唇を近づけあった。


彼女の顔が目の前に迫った時、俺は自然と目を閉じていた。

始めてのキスは、柔らかいけど、ちょっとひんやりした感じがした。

キスをしていた時間は、おそらく1分くらいだったと思う。


顔を離した時は、俺は恥ずかしくて千夏の顔を見られなかった。

おそらく千夏も同じだったと思う。

そのまま無言で十五分以上が過ぎてから


「もう服は乾いたかな」


と言って千夏が立ち上がった。

干してある岩まで行くと「うん、乾いてる」と言い、千夏は「着替えるから向こうを向いていて」と言った。

俺は言われた通りに彼女に背を向ける。

今度はすぐに彼女が近寄って来る気配があり、背後から「Tシャツ、ありがとう」と言って俺のシャツが差し出された。

俺は黙って受け取ると、すぐにそれを着る。

首を通す時、千夏の体温と、彼女の匂いが感じられた。


二人とも着終わると、千夏は自転車に向かい「それじゃあ帰ろうか」と言い出した。

いつも暗くなる直前まで遊んでいるので、「こんなに早く?」と疑問は感じたが、俺は反対しなかった。

お互い照れ臭かったのだ。

今日はもう十分、という気がしていた。


自転車に乗る時、俺は気になって仕方がない事をようやく口にした。


「千夏はさ、これが初めてだったの?」


千夏が振り向く。

その目が怒っていた。


「初めてだよ!」


そう吐き出すように言うと、さっさと自転車に跨って走り出した。

俺は慌てて後を追う。

帰り道は下り坂だったが、千夏は俺を待とうともせず、どんどん先に走って行った。

いつもならあまり離れると、彼女は待っていてくれるのだが……。


集落近くに出て、道が平坦になる。

そして右に行くと千夏の家、左に行くと俺の家という分岐点に来た。

千夏はそこでいったん止まる。

俺もすぐに追いついて止まろうとすると、彼女は「じゃあね、バイバイ!」と言ってすぐに走り出した。

俺は挨拶をする間もなく、しばらくその場に立ち尽くしていた。



その夜、俺は眠れなかった。

昼間に見た、千夏の胸、そして千夏とのキス……

その後、逃げるように帰って行った千夏。


(もしかして、嫌われたのだろうか?)


そう考えると、胸が押さえつけられるような苦しさを感じた。

無性に千夏に会いたくなった。

それまでも千夏が他の男子と仲良く話しているのを見ると、何か胸の中でモヤモヤとした物は感じていた。

今、そのモヤモヤの正体がハッキリと分かった。


(俺は、千夏が好きなんだ……)


そう考えると、余計に不安が強くなる。


(もし、明日から千夏が俺を避けるようになっていたら……)


俺は悶々とした思いで夏の早い夜明けを迎えた。



だが結果から言えば、千夏は変わらなかった。

翌日も昼前に「陽人、遊ぼう!」と俺の家に押しかけて来た。

いつものようにはしゃぎ、いつものように走り回り、いつものように笑う。


だが俺の方は変わっていた。

俺の中で、確実に彼女の存在が大きくなっていたのだ。



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この続きは、明日正午過ぎに公開予定です。

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