第25話 【過去】暗雲(後編)

俺が確実に千夏の変化を意識したのは、年が明けてからだ。

千夏と一緒に帰る日は以前の半分ほどに減っていたが、その時ですら千夏は関先生の話をする事が多かったのだ。


「関先生がね、金閣寺より銀閣寺の方が趣きがあっていいんだって。金閣寺は昭和に再建されたものだけど銀閣寺は昔のままだから」


「奥嵯峨野にある念仏寺って、お地蔵さんみたいのが一杯並んでいるんだって。その中に関先生の教授ソックリな仏像があって、研究室のみんなと大笑いしたって言ってた」


「関先生が京都の学会に行った時、凄く美味しい抹茶パフェのお店があったんだって。修学旅行の時には教えてくれるってさ」


その程度なら、俺もまだ黙って聞いていた。

修学旅行委員なのだから、修学旅行に関する話をするのは当然だろう。


だが話のほとんどが関先生に関する事だと、さすがに面白くない。

しかもそれが、千夏には今まで全く縁がなかったような話なら尚更だ。


その日は久しぶりに千夏と一緒に帰る事になり、二人で電車に乗っていた。


「この前、関先生が教えてくれたんだけど……」


千夏はそう言って話し始めた。


「コラッツ予想って知ってる? 全ての自然数は偶数なら2で割る、奇数なら3倍して1を足す。これを繰り返すと必ず1になるんだよ。不思議だと思わない?」


「リーマン予想って言うのがあって、それが素数の並び方と関係しているんだって。しかもそれも原子のなんかと同じって言っていた。この問題が解ければ100万ドル貰えるんだってさ」


「100万ドルの懸賞金がかかった問題って、ミレニアム懸賞問題って言われているだって。関先生もいつかこれに挑戦するって言っていた。人類の難問に立ち向かうなんて凄い事だよね。やっぱり関先生って普通の人とは違うなぁって感心しちゃった」


俺はやけにイラついた。

久しぶりに一緒に帰っているのだ。

俺は以前のように、もっと別の話をしたかった。


「なあ、その話、まだ続けるのか?」


千夏が「え?」という顔をして俺を見た。


「今まで千夏はさ、そんな話はしてなかっただろ。なんで急にそんな話をするようになったんだ?」


「そんな話って別に……そりゃ今までは数学に興味なんてなかったからさ。でも関先生が話してくれたらとっても面白くって」


「関が話したから、面白いのか?」


「そういう意味じゃ……」


「だいたい千夏がそんな話をしたって薄っぺらいんだよ。千夏は元々数学は得意じゃないだろ。他人の受け売りを得意げに話されたって、聞いている方には何も伝わらないんだよ」


それには千夏も気色ばんだ。


「別に得意げになんて言ってないでしょ! 何よ、数学が得意な人しか数学の話はしちゃいけない訳?」


俺は横を向いた。

これ以上なにかを言うと、さらに言い合いになると思ったのだ。


「せっかく人が話してあげているのに……」


そう言って千夏も前を向いて口を閉じた。

俺たちは気まずい思いのまま、降りる駅までずっと無言だった。



修学旅行も終わり、春休みになった。

俺は内心ホッとしていた。

委員会は終了して千夏は関先生と会う機会も減るし、春休みなので学校に行く事もない。


(これで千夏も落ち着くだろう)


そんな風に考えていた。

だが実際は違った……。


ある日の夕食の時だ。

母親が俺に話しかけた。


「そう言えば今日、駅に行く所で千夏ちゃんを見かけたわよ」


「駅に行く所?」


俺は疑問に思った。

学校は休みだし、基本的には駅を使う理由なんてないはずだが。


「そう。何かを紙袋を持っていたわね。両手で大事にそうにしていたから。お料理でも入ったいたのかな?」


「それって何時頃?」


「母さんがパートに行く時だから、午前十時前だったかしら」


(そんな時間に千夏がどこへ?)


俺は嫌な予感がしていた。



その三日後、俺はマンガを買うために出かける事にした。

母親がパートに行くので、近くまで車に乗せていってもらう。


「あら、千夏ちゃん、今日もいるわね」


そう言われて駅の方を見ると、自転車置き場から千夏が出て来る所だった。

駅に向かっている。

ブランド店の紙袋に入った何かを、大事そうに両手で抱えていた。


「何かしら? 知り合いの家にでもお届け物かしら?」


母親がそう言うのを聞きながら、俺はじっと千夏の姿を見つめていた。



その日は一日中ずっと、千夏の事が気になって仕方が無かった。


(千夏のヤツ、どこに行ったんだろう……)


そればかりが頭の中に浮かんでくる。


(まさか、関の所に行っているとか……)


俺の頭の中で「そんなはずはない」という考えと「でももしかしたら」という思いが交互に浮かんでくる。

夕方になって、居ても立っても居られなくなった俺は、自転車に跨ると駅に向かった。

駐輪場にはまだ千夏の自転車があった。


(千夏のヤツ、まだ戻って来ていないのか……)


俺は駅で彼女を待つ事にした。

3月の夕暮れはまだ寒い。

そんな中、ダウンジャケットを着て簡易カイロを手に、俺はじっと千夏を待った。

千夏が駅から出て来たのは、午後六時近くだった。


「千夏!」


俺が声を掛けると、千夏はビクッとして身体を強張らせた。


「な、なに、陽人? いきなり声を掛けられたらビックリするじゃない」


手には朝持っていた紙袋をぶら下げている。

中身は既になく空だ。

俺は彼女に近づくと「今まで、どこに行っていたんだ?」と尋ねた。

すると途端に千夏の表情が険しくなる。


「どこに行っていたって、そんな事、陽人に言う必要がある?」


「関先生の家に行っていたのか?」


俺が静かにそう尋ねると、千夏はギョッとしたような顔をして俺から視線を逸らせた。

千夏は何か隠したい事がある時、必ず目を逸らすクセがある。


「そうなのか?」


「だから、アタシがどこに行くかなんて、一々陽人に報告する理由はないでしょ!」


横を向いたまま、千夏が不満を滲ませる。


「あんな陰キャな男がいいのかよ」


思わず漏れた俺の言葉に、千夏はキッとなって睨んで来た。


「陰キャじゃないよ! 関先生は知的で大人な男性なんだよ!」


そう言い返してくる。


「やっぱり関の所に行っていたんだな……」


俺がそう言うと、千夏は再び俯いた。


「先生とは言え、独身男の独り暮らしの部屋に、女が行くのはどうなんだよ」


俺はまず正論で千夏を説得しようとした。

しかし千夏は


「そんな人に文句を言われるような、変な事はしてないよ。関先生は独り暮らししてるけど、何も出来ないらしいから……料理のおすそ分けを持って行って、洗濯と部屋の掃除をしているだけだよ。後は晩御飯の準備とか……」


と力なく答える。


「だけど関だって若い男だろ。本性はどうだか分からないんだぞ!」


「止めてよ! そんな事を言うの! 陽人は関先生の事なんて、なんにも分かってないじゃん!」


千夏は怒りを込めた目で俺を見た。


「だいたい何? なんで陽人がそんな事を心配する訳?」


「友達として心配するのは当たり前だろ!」


「余計な心配だよ! 陽人には関係ない事でしょ! アタシと先生の事に首を突っ込まないでよ!」


千夏は俺を拒絶するように、そう叫んだ。


(俺には……関係ない事)


その言葉は残酷なナイフとして、俺の心に突き刺さった。

もう千夏にとって俺は「関係ない存在」なのだ。

千夏と関先生だけの関係。

そこに、俺の入り込む余地はない……


俺は黙って千夏に背を向けた。

千夏ももう何も言って来ない。

そのまま自分の自転車に向けうと、急いで駐輪場を離れていった。。

両目に込み上げて来る悲しみが、零れ落ちてしまうその前に……



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この続きは明日正午過ぎに公開予定です。

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