「おい」

「…なに」

「もういいぞ」

「なにが」

「もう服を着たと言ってるんだ」

「信じられないわ」

「はあ?」

「信じられるわけないでしょうっ? 女性の前で急に服を脱ぎだす無礼者の言葉なんて信じられる筈ないじゃない!」

「ああそうかよじゃあずっとそうしてろ」

「言われなくてもそうするわよ」


 互いが同時に鼻を鳴らし、エリスは腕を組んだ。

 ああ早く雨よ止み給え。

 そう願うのに悲しいかな雨は上がらない。そうしてどれほどの時間が経っただろうか、十分くらいはそうしていたかもしれない。

 その間二人は無言で、その間の空気はなんとも重たいものだった。

 だがその空気を壊したのは意外にもパーシアスの方からだった。


「はー…」


 これみよがしにため息を吐いたパーシアスが少し体勢を変えたのが足音でわかった。


「…この雨もお前たちの力なのか」


 問う声は低く、無愛想。けれど敵意は無くて純粋に暇を持て余したが故の質問なのだということがわかる。普段のエリスであれば答えていたのだろうが生憎今は虫の居所が悪い。パーシアスの第一声が不埒で無礼な行いに対する謝罪であったならきっとエリスは許していたに違いないのだが、そうではなかった。


「…謝れば教えてあげるわ」

「はあ? 俺が何を謝る必要があるんだよ」

「服を脱いだじゃない」

「あんなのゼンオウじゃ普通だ」

「ここはユラよ。そしてわたしは女性なの。女性の前であんな風に服を脱ぐなんて野蛮だわ。まずはそこを謝って」

「……」


 パーシアスの視線が背中に突き刺さっているのがわかるがエリスは頑として譲らない。

 そうしてまた沈黙が続き、そして折れたのはまたしてもパーシアスだった。


「…悪かった」

「それは謝罪じゃないわ」

「………ごめん」


 雨の音に負けるんじゃないかと思うほど小さく唸るように呟かれた謝罪にエリスはようやく顔をパーシアスの方に向けた。

 ゆっくりと警戒しながら観察し、服を着ているのを確認すると少しだけ体勢を変える。変えるといっても背中を見せていたのを少しずらすだけだ。パーシアスからはエリスの横顔しか見えないだろう。


「…豊穣の歌姫の力よ。緑の神子であるケーレスが歌えばユラの国の大地は潤うわ。花も咲かせられるし、風を吹かすことだって出来る。この国の大地が豊かなのはケーレスのおかげよ」

「……」

「…なに、教えてあげたでしょ」


 横目でパーシアスの方を見ると彼は意外そうな顔でエリスを見ていた。まるでエリスが聞かれたことに素直に答えるはずがないと思っていたというような顔だ。


「…いや、まさか答えるとは思ってなかった」


 想像した通りの台詞にエリスは短く息を吐く。


「これくらい答えるわよ、この国にいる全員が知っていることだわ。わたし以外の人でも同じことを伝えるでしょうね」

「…だが俺はゼンオウの民だぞ」

「…そうね。わたしたちの敵だわ」

「ならどうして」


 視線を前に戻し、エリスは灰色の空を見た。

 自分の心のようだと思った。


「…わからないの」


 ぽつ、とこぼした言葉はパーシアスに届いたようで訝しげな視線がエリスを射抜く。


「あなたが来てからずっとわからないことだらけよ。…あなたはどうしてタナを助けたの? あの子は次の白の神子よ。力の使い方さえ覚えれば間違いなくあなたたちの脅威になる。それくらいわかってるでしょ」


 今は雨に濡れている大地だが、アテナがいなくなる数週間の間この大地が雨に降られることはなかった。あったとしたらそれはアテナが力を解除した時だ。彼女はこの広大な国に壁を張り、全てから民を守ってきた。

 多少時間は掛かるだろうがタナにもそれと同等の力があるはずなのだ。

 その存在を一度は奪ったはずの国が手放す筈はないと普通は思う。


「……どんな脅威だろうと子供を殺すのは違うだろ。それは俺の騎士道に反する。…だけどそのまま国に残しおけばタナは確実に殺される。それならこの国に来るしか無いだろうが」

「あなたは殺されるかもしれないのに?」

「実際殺されなかっただろうが。あんたの前でこうして生きてる」


 エリスの視線がまたパーシアスへと移る。すると目が合った。

 ユラの国のほとんどの人が持つ、ありふれた明るい茶色の目だ。肌の色も、髪の色も、やはり普通の人たちと変わらない。

 変わらないことがエリスの胸をざわつかせる。

 苛立ちに似た焦燥がエリスの中に湧き上がり、頬の内側の肉を噛んだ。二の腕に爪を立て、痛みで冷静さを取り戻そうとしながらもその焦燥がエリスの口を開かせた。


「…わたしが憎くないの」


 瞬間、無音になった気さえした。


「…どういう意味だ」


 低い声が鼓膜を震わせる。


「そのままの、意味」


 さあ、と雨粒を乗せた風が吹いた。肌に小さな水滴が付着し、そこだけ温度が下がる。二人の間に再び沈黙が落ちた。エリスもパーシアスも目を逸らさなかった。互いをじっと見据えているが探るような目をしていたのはパーシアスだ。


「…俺にそれを聞いてどうする。答えなんて一つだろ」


 どこまでも冷静な声にずしりと大きな石が心に沈んでいくような気がした。

 その石はどこまでも深く沈んでいくようで、きっと浮上してくることはない。「そう」とだけエリスは返して目を逸らした。心に残ったのは後悔と理不尽な物悲しさだった。


「…変なことを聞いてごめんなさい」


 雨の音だけが聞こえる。

 空を見るとまだまだ暗いが、遠くの方で光が差しているのが見えた。それがもうそろそろ雨が止むサインだというのをエリスは知っていた。


「…そろそろ雨が上がるわ。…風邪引かないようにね」


 優しく降り注いでいた雨の勢いが弱まり霧のような細かさになった頃、エリスは霊廟の屋根の下から出た。顔中に感じる細かな水の粒に目を細めるも歩くのに支障はない。

 雨が上がり切る前に歩き出したエリスに後ろから「おい」と声が掛かるがエリスは気が付かない振りをして足を前に進めた。

 草についた雨が足を濡らす。踏みしめた地面が少し緩い。空を見れば雲間から光が差し込んで街に光が注がれていた。

 光の梯子のようだと思いながらエリスは歩いた。

 幻想的で爽やかだとも言える空気の筈なのに、エリスの心は重く暗いままだった。



「外にいたときに降られたの?」


 神殿に戻ったとき出会ったのはメラだった。相変わらず青く見える程の白い肌に一瞬どきりとするがそれが彼女の通常だと思い直してエリスは頷いた。


「そう。霊廟から出たら降り出してた」

「じゃあ長い時間外にいたんだね」

「ええ」


 エリスとメラの間に会話は少ない。お互い元々口数が多いタイプではないし、どちらかといえばコミュニケーションを取るのは苦手だ。だがお互いにそれを理解し合っているからか必要最低限の会話だけで済むこの関係を心地良くも思っていた。

 今日も少ない数の会話を済ませてその横を通り過ぎようとした時「エリス」名前を呼ばれた。

 足を止めて少し背の低いメラを見ると彼女の目は真っ直ぐにエリスを見た。


「霊廟に誰かいた?」

「…どうしてそんなことを聞くの?」

「なんとなく」


 全てを見透かしているのではないかと思う程澄んだ黒い目に見られて心臓がどきりとした。特に思い当たる節がなかったとしてもこの目で見られると背筋が自然と伸びる。

「…パーシアスがいたわ。もういないかもしれないけど」


 特に後ろめたいことがあった訳でもないため素直に伝えるとメラは「そう」と返事をして視線を外した。そしてそのまま外へと歩き出した背中を見送り、エリスもまた歩き出す。


 いつの間にか側にいた侍女に風呂に入ることを伝えるとその場から遠くない浴場へと足を向けた。ずっと外にいたせいで冷えた体を温めようと思ったのだが、途中から入ってきたケーレスとタナの二人組によってエリスの穏やかな入浴時間は強制的に終了となった。

 

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