6
錆びついた蝶番の軋む音と一緒にエリスは牢から出た。降りて来た兵士長はエリスの姿を見て問題がないのを確認すると虫でも見るような目をパーシアスに向けた。けれど何か声を掛ける訳でもなく、二人は階段を昇り始めた。
「…どんな話を?」
「…毒にも薬にもならないような話しよ。彼はゼンオウの人間だけど、白の神子やわたしを助けてくれたこともあったから、そのお礼も伝えたわ」
「まだ幼い神子様を拐い、助けただなんだと嘯いて神殿に入り込む奴らの浅ましさには吐き気がしますね。悪神ゼンオウの末裔だけはある」
「……そうね」
前を歩く男の声を聞いてもエリスはそう返す他なかった。
パーシアスと出会う前の自分であればこの言葉になんの疑いもなく同意の言葉を返せただろう。そうできたらどれだけ気が楽かとも思うが、もう知る以前の自分には戻れない。
階段を昇り終えて扉が開かれると柔らかな自然光が差す。空気は程よく乾いていて、換気のために開けられている窓からは爽やかな風が入り込んでいた。
たったそれだけのことでこの国がどれだけ豊かなのかを改めて感じる。思わず窓に目を向けたエリスだったが兵舎の中が来た時よりも騒がしいことに気がついて室内に視線を戻し、僅かに目を開いて思わず少し体を退いた。
「ほ、ほら! だから言ったじゃないですかこんな大人数困るって!」
エリスが兵舎に来たときには数人しかいなかった兵士が今では室内を埋める程いてエリスの体は無意識に強張った。エリスは元々人の注目を集めるのが得意ではないし、メラと一緒でできれば静かにひっそりと過ごしていたい。
だからこそ少し身構えてしまったのだが、自分を見る兵士たちに包帯が巻かれている人や杖をついている人の姿を見つけてキュ、と唇を引き結んだ。
その表情が怒りにでも見えたのか兵士長が今にも怒鳴りそうに大きく息を吸い込み声を出すよりも先にエリスは口を開いた。
「守りきれなくてごめんなさい」
その場がしん、と静まり返る。誰もが何を言われたのか理解できておらず目を白黒させる中、エリスだけは表情を苦しそうに歪めた。
「…わたしがもっときちんと歌えていればあなたたちはきっと怪我を負うことはなかった。人が死ぬことも、きっとなかった。……本当にごめんさない」
目に見えてエリスの歌が精細さを欠くようになったことをここにいる兵士たちは知っている筈だ。これまで彼らは戦いに出てもかすり傷一つ負うことは無かったのに、今はどうだ。あの戦いで一体どれだけの人が傷を負ったのか、想像するだけでエリスは息が出来なくなる。
「…あー…、神子様は何か勘違いをされていますな」
誰もが口を開かない静寂の中、唯一人兵士長だけが僅かに顎に生えている顎を髭を撫でながら気の抜けた声を上げた。
「確かに私たちはあなた方のおかげで傷を負うようなことは滅多にありません。だが、我らは本来あなた方の盾となるべき存在です。白の神子様がお力をまだ身につけられていない今、あなたとユラの民を守るのが私たちの使命なのです。……とは言っても、私を含め皆あなた方に守られることに慣れ過ぎている。…先の戦での失態は我らに非があるのです」
「失態なんて」
「いいえ、あれは失態です。皆どこかで思っていたのです、赤の神子様さえいれば安泰だと。戦わずに済むと。…けれどそんなことはなかった。あなたの力は神に等しいが、万能ではないということを忘れていたのです」
軽くすらすらと語られていることなのに内容は重く、エリスはその落差に何度か瞬きを繰り返す。その様子を見た兵士長がエリスに向き直り、片膝を着いた。
「謝罪すべきは我々なのです。一番に守らねばならないあなたを危険な目に遭わせた挙句、神殿にゼンオウ国軍のネズミまで侵入を許してしまった。彼奴からどれほどの情報が敵に流れたかはまだ把握できておりませんが、あ奴らがどんな策を講じて来ようとも我らは今度こそ神子様に傷一つお付けしないことを誓います」
その人の行動を見て他の兵士たちも膝を着く。けれど全員がそうするには狭すぎて、後ろの方からは小さい声で「もっと寄れ」なんて声が聞こえてくる。その光景を見てエリスは言葉が出なかった。
兵士長である男の言葉がどこまで真実かはわからない。けれどエリスはこうして兵士の顔を見るのも、言葉を交わすのも初めてだ。
エリスの世界には神子と歌しかない。それ以外は必要ないと思っていた。神子として高潔であれば全てを守り、神子としての責務が果たされると思っていた。だから守る人の顔が変わろうが、全てを布や鎧で覆っていたとしてもエリスは何も感じなかった。
だがいざ自分の命の終わりが見えて、そうなって初めてエリスの世界は広がり始めた。
いつもエリスに状況を教えてくれる青年に目を向ければ彼は照れたように笑って頬を染めた。兵士長を見れば難しそうな顔をしているがそれでもエリスを見る目は穏やかだ。中には好奇の目でエリスを見る者もいるが、そこに嘲りの色なんてない。
「…立って」
言葉に詰まったエリスがようやく絞り出せたのはその一言だった。
それに従い兵士長が立ち上がり、他の兵士もそれに続く。彼らのエリスを見る目はどこまでも真っ直ぐだ。その真っ直ぐさが眩しくて、刺さるように痛いと感じるけれどエリスは目を背けることはしない。
エリスの思う神子は、こんなときにこそ凛と背を伸ばし迷わない人だ。
「──あなたたちの献身に感謝します」
その言葉に兵士たちが一斉に礼を取る。
一糸乱れぬその構えにエリスは奥歯をぎゅっと強く噛み締めた。
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