「……なにを、しにきた」


 顔を殴られて口の中が腫れているのだろうか、普段よりもくぐもった声がした。


「会いに来たの」


 静かに上げられた顔はやはり手酷く殴られたようで頬は腫れているし口端には固まった血が付着している。心配になる程の酷い怪我だが、彼のしたことを思うとこれも仕方がないのだろうと思う。


「……タナ、泣いていたわ。あなたは悪い人なのかって」


 微かに眉が寄せられたのを見て、エリスは瞼を伏せた。


「最初から全部あなたたちの計画の内だった?」

「……神殿にいけるかどうかは、賭けだった」

「…意外ね、話してくれるの?」

「お前になら、良い」


 伏せていた瞼を上げると視線が交差する。

 パーシアスの目が真っ直ぐにエリスを見ていた。


「…俺の本当の目的はお前を殺すことだった」


 パーシアスがゼンオウ国を裏切ったわけではないとわかった時から想像していたことだった。ただ情報を盗むだけならあんなにエリスたちに近づく必要はないからだ。

 それ以外に必ず理由があるはず。そしてその理由は、ゼンオウ国にとって一番利益のあるものでなければならない。そう考えると神子の、その中でもエリスの殺害が何よりも一番効果のあるものだと思う。


「…どうして殺さなかったの? チャンスは沢山あったはずなのに」


 霊廟に行ったときも、雨宿りをしたときも、二人だけの時間は思い出すだけでも相当な数があった。パーシアスであればエリスを殺害することなんてきっと造作もなかった筈だ。

 そう問いかけながらもなぜパーシアスが自分を殺せなかったのかを、エリスは朧げながらも理解しているような気がした。

 じっとエリスを見たまま、パーシアスは口を開いた。


「……普通だったからだ」

「…え?」

「…悪魔だと教えられていた神子が蓋を開ければ俺とそう変わらない年の女だった。男の裸を見たくらいでぎゃあぎゃあ騒いで、頑固で気が強いくせに変なところで臆病で、…ゼンオウにいる奴らと何も変わらない普通の女だったから、だから俺は俺のしていることが正しいのか、わからなくなった」

「…あれはあなたが悪いじゃないの」

「ほら、そういうところだ」


 パーシアスから語られる内容に面食らって瞬きを繰り返していたエリスだがやっと絞り出した言葉にパーシアスが少し笑った。それに驚いて見せると彼の眉尻が下がった。

 困り果てたと、そう言っているような表情だった。


「…俺は人を守る為に騎士になった。お前を殺すことで誰かを守ることが出来るなら、それは俺にとって名誉なことの筈だったんだ。だが、もう俺には出来ない」


 諦めたようにパーシアスは笑ってがくりと項垂れた。その拍子に鎖が重苦しい音を立てて揺れた。


「…お前が倒れた戦いの日、俺はやろうと思えばどさくさに紛れてお前もタナも殺すことが出来た。それなのに俺はお前を殺すどころか生かすために必死なった。…それをこの国に紛れてるゼンオウ国のやつに見られたんだろうな。祖国にとって不利益になる前に処分する、間違いなく正しい騎士の判断だ。…そのおかげでこのザマだけどな」


 エリスからは頭しか見えないが、その顔が笑っているのが雰囲気でわかった。

 だが今彼は一体どんな気持ちでこの話をしているのかは、エリスには想像も出来なかった。


「俺は今日にでもここの兵士に殺されるだろう。タナにはうまく伝えておいてくれ。…最後にあんたと話せて良かった」


 僅かな沈黙の後、吹っ切れたように晴れた声で告げられた言葉にエリスは固唾を飲んだ。


「──まだ終わってないわ」


 エリスは両手を伸ばし、俯いているパーシアスの頬に触れた。そのまま顔をゆっくりと上げさせ、緊張の中でもしっかりと笑みを浮かべた。


「あなたは生きるのよ、パーシアス」

「…何を言ってる」

「あなたは生きて、タナやケーレスやメラを助けて欲しいの。それが出来るのはあなたしかいないの」


 眉を寄せ困惑の表情を浮かべるパーシアスの顔に真紅の花弁がひとひら落ちる。吸い込まれるように消えていったそれを見届けてからエリスは小さく息を吸った。


「わたしは次の戦いで死ぬわ」


 ゆっくりと双眸が見開かれ、驚愕の声がエリスに届く。


「…どういうことだ」

「わたしたちは命を削って力を使っているの。わたしの命はもう次の戦いで尽きるわ。…でもそうしたらもうゼンオウ国を脅かす力はいなくなる。次の赤の神子が見つかったとしても歌うことを教えなければ、その子は普通のままでいられる。タナはまだ幼いし、ケーレスとメラに戦う力はないわ。だから、もうゼンオウとは戦えないの」


 伝えれば伝えるほど言葉は早くなり笑顔も消えて、最後は祈るように呟いた。自然と視線は下がり頬に触れていた手も力なく落ち、今はエリスの方が項垂れている。


「…わたしがいなくなったこの国はきっとすぐに壊れてしまう。そうしたら沢山の人が死んでしまう。それは嫌なの、どうしても嫌。だからお願い、パーシアス。…この国とゼンオウを繋ぐ人になって。助けて、わたしの大切な人たちを、どうか助けて」


 今自分がどれほど身勝手なことを言っているのかエリスにはわかっているつもりだ。だがもうこれしか今生きている自分が未来に残せるものがないのだ。


「都合が良いことを言ってるってわかってる。こんなことをあなたにお願いするのも間違ってるなんてわかってる。わかってるけど、そうしないと、そうしないと…っ」


 メラやケーレスの前ではこんなこと言えなかった。もしかしたらメラはもうエリスがいなくなった未来を視ているかもしれない。今エリスがしていることは必要のないことなのかもしれない。けれどエリスは不安でしょうがないのだ。


 泣かないと決めていたのにエリスの視界は滲んでしまった。泣いて何が解決するというのだろうか、こんなものになんの価値があるというのだろうか。血が滲むほどの強さで唇を噛んでエリスは深呼吸を繰り返した。


 ああ、なんて惨めなんだろう。神子だ歌姫だと持て囃されてきたのに、一番大事なところで役立たずになってしまうじゃないか。


「…エリス」


 あんまり悔しくて、悲しくて、惨めで、もうどうしたらいかわからなくなったとき名前を呼ばれてエリスは思わず顔を上げた。


「…俺はもう裏切り者だ。俺が交渉を持ち掛けたところで悪魔に懐柔されたと言われて処刑されるのが関の山だろうな。お前の言ってることは夢物語だ」

「……」


 何か言葉にしなくてはと口を開くけれど浮かんでくるのは言葉にならない思いだけで、エリスは声すら出さずに口を閉じた。


「俺たちも、お前たちも、わかり合うには遅過ぎたんだ。数え切れない程昔から深く根付いたお互いへの嫌悪感はそう簡単に消えるものじゃない。もし万が一話し合いが出来たとしても、誰かは必ず誰かを憎んでる。俺たちは仲間を殺し続けてきたお前たちを許さないし、お前たちは平和を脅かす俺たちが許せないだろう」


 低く、いっそ残酷な程丁寧に語られる言葉にエリスは体から力が抜けていく感覚がした。


「例え最大の脅威だったお前が死んでも、もうゼンオウ国には死んだら次の神子が選ばれることは知られてる。神子が誰か死んだところで次がいるなら、国がやることなんて一つだ。脅威は排除しないといけない。…例えそれがどれだけ幼い子供でも、そうなる可能性があるなら全て潰さないといけない。…残された神子に戦う力がないとしても、神子だという時点でそれはもう脅威だ」


 言葉にならない虚しさにエリスはただ首を横に振ることしかできない。

 お互いを知ろうとすれば良いだけ、たったそれだけのことがこんなにも難しい。もう手立てはないのだろうかと微かに回る頭で考えるが、当然解決策なんて見つからない。そんなものがあったらとうの昔にこんな関係ではなくなっているに違いないのだ。


「……どうして、こうなってしまったのかしら…」

「…わからない」

「…本当にわたしたちは争わないといけないの…?」


 情けないくらいにか細く震えた声が地下牢の壁に吸い込まれて消えていく。どこにも逃げ場がないこの空間は、近い未来のユラの国のようにも思えた。


「わからない」


 物心つく時から互いを悪だと教え込まれ、そして争うことになんの疑問も抱かずに今日までやって来た。争うことこそが自然なのだと、そう教えられて来た。

 だがその誰もが本当に争う理由なんて知り得ないのだ。どれだけ歴史を遡っても互いの国には争いの記録しかなく、その原因なんて誰も関心を持っていなかった。ただ「そういうもの」だと常識のように捉えて、考えることをしなかった。


 エリスもパーシアスにさえ出会わなければ、きっとこんな思考にはなっていないのだ。

 今まで通り、何も知らずにいられたらきっとこんなに苦しくなかった。こんな不安に駆られることも、タナに歌えるようにならないで欲しいなんて感情も、持つことはなかった。


 だがその全てが、もう遅いのだ。


 それから二人の間で言葉が交わされることはなかった。

 痺れを切らした兵士長が扉を開けて階段を降りてくる音でエリスは立ち上がり、鉄格子の方へと向かう。扉に手を掛ける直前で立ち止まり、振り返った。


「…ここから出して貰うように取り計らうわ。そうしないとタナが悲しむから」

「、おい」

「さよなら。あなたとお話しするの、楽しかったわ」

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