5
朝になって夜になって眠って、また朝になる。そんな風に何日が過ぎただろう。
このまま何もない、今まで通りの平穏な日が過ごせるのではないかと希望を持つ。けれどそんなものも体の痛みによって打ち砕かれる。
たった数週間前まで、こんな状態ではなかったのになとアテナは水平線を双眸を眇めて見つめた。
「白の神子様」
呼ばれて、振り返る。
「お支度を」
アテナの記憶のある限りではこの侍女はアテナの子供の時から変わっていない。十年は共に過ごしたことになる筈なのに、アテナはこの侍女の名前も顔も知らない。そういうものだと思い生きてきたが、今になって少しだけそれが少し寂しく感じた。
「ねえ侍女ちゃん」
話しかけても侍女は何も言わない。顔を完全に隠しているせいで視線が合っているのかどうかすらわからない。
「お名前、なんていうの?」
アテナは首を傾げた。ふわふわの羊のような、雲のような髪がふわりと滑らかな肌を撫でる。そのまま数秒待ってみた。…やはり侍女は何も答えなかった。
「…うん、そっか」
アテナは納得したように頷いて、いつも通りの笑みを浮かべた。
「わかった。行こっか」
侍女はその言葉に首を垂れてアテナを誘導するように歩き出した。向かう先は鏡の間、これから始まるのは争いだ。戦場に向かうためにアテナは着替え、そして馬車へと乗り込む。数日前と同様エリスも一緒だ。
これもまた。メラの予言通りだった。
「…またゼンオウ国が攻めてくる。敵も前より多い、三倍はいる」
メラがそう言ったのは前回の戦いから二日程過ぎた日のことだった。静かな声で抑揚もなく伝えられる言葉はメラの力で見た未来。
その予言は絶対に外れることはない。
「武器は?」
「…砲台が多かった」
メラとアテナは二人きりで話していた。予言のことはもう周知されていて今頃王城や街は大騒ぎだろうけれどそことは隔絶された世界にいる神子達にはその喧騒は届かない。
今も二人の声しかしない静かな場所で向かい合うようにして椅子に座り、侍女が置いていってくれた果実水で喉を潤していた。
「そっかぁ、他は何か見えた?」
「エリスがいた」
「そりゃあいるよ、あたしとエリスはセットみたいなもんなんだし」
テーブルには果実水の他にも焼き菓子が置かれている。それを一つ摘んで口に入れると仄かな甘味とサクッとした食感に思わず頬が緩む。「おいしー」なんて呑気に言っているアテナを見て、メラの表情が曇る。
「…アテナ」
名前を呼んだきりメラは何も言わず視線を下げた。
あまり表情の出ないメラの行動を意外には思うが驚きはしない、その反応もまた当然だろうと思う。きっとアテナがメラの立場なら同じことをした。
「教えてくれてありがと、メラっち」
下を向いていたメラの黒くて深い瞳がアテナを捉えた。その目の中にいるアテナは笑っていた。我ながら晴れやかな顔だと思う。
「ありがとね」
もう一度言うとメラはほんの微かに下顎を震わせた。息を雀の涙ほど吸って、いつもの人形のように無機質で、けれど少し不機嫌そうな顔をした。
「メラっちはやめて」
「あは、やだよこっちの方がかわいいもーん」
「そんな風に思ってるの、アテナだけだよ」
アテナは笑ったがメラは笑わない。そんないつも通りのやりとりが楽しくて、アテナはまた笑った。
「ねえメラっち、ありがとね」
「何回も言われなくても聞こえてるよ」
「良いじゃん、何回でも言わせてよ」
ありがとう、もう一度伝えた言葉にメラは俯いた。肩が震え、鼻をすする音が聞こえ、そして揺れる声で紡がれた「私こそ」その言葉を聞いてアテナの心は軽くなった。
それが、数日前の出来事だ。
「敵発見!黒の神子様の予言通りです!」
「各員配置に付け!」
場所は以前と同じ、国を守る巨大な門の前。ユラの国へと侵攻するための出入り口はこの場所しかなく、それ以外の場所からは侵入が出来ない。
それ故に戦場はこの場所と決まっていた。
何千もの兵士が踏み鳴らしたせいでその場所に緑はなく、折角咲いた小さな花も軍靴に踏み躙られる。それは横に何十メートルと続き、その先にも他の大地とは全く違う地肌が剥き出しの荒野が続く。
緑が生えないのは度重なる争いと、歴代の戦勝の歌姫による攻撃のせいだ。
先日エリスが歌った場所は黒く焦げており、そこだけ地面が抉れている。そんな場所はいくつもあった。歴史を辿らずとも血が流れていない箇所などこの荒野にありはしないのだと容易に想像が出来るほど、この場は荒れている。
けれどアテナの後ろにある門が開き、一度中に入れば豊かな緑と整理された石畳を確認することができるだろう。それほどまでに壁の中と外ではまるで違っていた。
アテナ達は、この壁の内側で生きる全ての人を守るために存在している。
ある神子は敵の攻撃から全てを守る為。
ある神子はその敵の全てを葬り安寧を得る為。
ある神子は降り掛かる災いを払う為。
ある神子は全ての民が飢えの苦しみに喘がない為。
アテナ達は、その為だけに存在している。
「攻撃来ます!」
今日も安全圏から状況を叫ぶ兵士の声がする。
アテナは胸の前で両手を組み、前方を見た。もう随分と離れてしまったエリスの背中を見てふと泣きたくなった。「エリス」掠れた声で名前を呼ぶ。
呼んだ声は当然届くことはなく、エリスは前を進んでいく。迷いなんて微塵も感じさせないその背中に胸が切なくなった。
──ああ、ダサいなぁ。
自分で決めたくせに、今になって躊躇してしまう。
「白の神子様?」
隣に居た若い兵士がアテナを見ている。普段のアテナであれば笑っていられただろうが、今日という日は無理だった。下唇を切れそうな程強く噛み、表情を苦悶に歪める。
「神子様、攻撃が」
歌ってもいないのに組んだ両手は震えていた。寒くもないのに体も震え、嫌な汗が顎を伝って真っ白な服にシミを作る。
「…わかってる、わかってるよ」
辛うじて絞り出した声は情けないくらいに掠れていて兵士には届いていないようだった。いつまでも歌わないアテナを見てあからさまに狼狽えているが、今のアテナにはそれを気遣う余裕なんてない。
息が乱れ、手が震える。しっかりと呼吸を整えなければ歌えないのに、それがうまく出来ない。壁の上から兵士が叫んでいる、砲撃が、敵軍が、そんな言葉だ。
わかっている、早く歌わないといけない。早く守らなければ誰かが死んでしまう。わかっているのに。
躊躇している場合ではないのに。
その時だ、兵士達がざわめいた。空気が動揺と焦りと怒りで揺れた。
そして声がした。
「アテナ!」
切り裂くような声だった。
宝石みたいな綺麗な髪を振り乱して、綺麗な顔を必死の形相に歪めて走ってくるエリスを見てアテナの瞳からとうとう涙が零れ落ちた。
「神子様!」「砲撃が!」「神子様―!」そんな兵士達の言葉はアテナには届かない。目に映るのも、声が届くのも、それは全てエリスのものだけだ。
その時、ようやくアテナは覚悟を決めた。
「…エリスだけは、守らなきゃね」
衝撃と轟音が伝わる。もうきっと戦いは始まってしまったけれど、今自分を案じて駆けて来てくれたこの子だけは守ろう。それ以外は、申し訳ないがどうだっていい。
エリスが、神子達が無事で居てくれたらそれでいい。
エリスが必死の形相で叫び、手を伸ばしている。やめろと、そう言ってくれているのだろうなと簡単に想像が出来るけれど、やめる訳にはいかない。
視界に鮮やかな花弁が舞う。その中を駆けてくるエリスは、やはり異様なほど美しい。
アテナは目を閉じて、そっと息を吸った。
直後に思い出したのはメラの言葉だ。
──一回。
それが何を意味するかなんて、そんなことはアテナが一番よくわかっていた。
これが、最期の歌だ。
「っ、アテナ、ダメえぇえぇえ‼︎」
必死に手を伸ばして叫んだエリスの声はアテナの歌声に掻き消された。
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