「あーーーーっ、もうっ! つっかれたーー!」

「うるさいわよアテナ」


 アテナとエリスの声がいやによく響いた。視界は湯気で不明瞭で、耳には湯が落ちる音が聞こえてくる。そして鼻に届くのは何かしらの石鹸の香りだ。今日は花の香りがする。


 二人は戦場から戻ってゆっくりとお風呂に浸かっていた。これは二人の中での決まり事のようなものだった。

 アテナの羊のようにもこもことした白い髪の毛もさすがに入浴中にそのままにしておく訳にもいかずこの時ばかりは一つにまとめているのだが如何せんボリュームがたっぷりで頭上にもう一つ頭が乗っているようだった。


 対してエリスの髪の毛は短いためアテナのような苦労はなくそのまま入浴している。今は髪も清めた後だからか全体を後ろに撫で付けていていつもより大人びて見える。

 けれどこれを伝えたらエリスが拗ねることを知っているためアテナは何も言わないようにしていた。


「エリスはさー疲れたりしないのー? 歌の規模でいったらあたしの方が大きいけどさ、瞬間出力で言ったらエリスの方が圧倒的に上じゃない?」


 浴槽の縁に両肘を乗せ上半身を預けるような体勢でアテナは聞いた。


「全く疲れないって言ったら嘘になるけど今日くらいのじゃなんともないわよ。……アテナは、どうなの? 最近ずっと使い続けているでしょう…?」


 アテナとは違い縁に背中を預けているエリスの少し沈んだ声音に、にぃと口元に笑みが浮かんだ。


「えー、エリスってば心配してくれてるのー?」

「は、はぁ⁉︎ そんな訳ないでしょ! 調子に乗らないでくれる⁉︎」


 意地っ張りで頑固なのに優しくて、でもそれを隠そうとしているエリスは随分と恥ずかしがり屋で今も入浴したことで良くなった血流の催すものとは違う赤みを頬に乗せてアテナを睨んでいる。


 その様子がおかしくてケラケラと笑う声が大浴場に響き、それに羞恥から頬を膨らませて震えるエリスが何かが決壊したようにお湯をアテナに掛けた。


「うわっぷ! ちょ、ちょっと! 怒った⁉︎ 怒っちゃったのエリスーっ」

「うるさいうるさい! なんで、なんでいつもアテナは意地悪ばっかり…っ!」


 バシャバシャと豊かなお湯が乱れる音が浴室に響く。


「意地悪じゃないってば! 可愛がってるのーっ!」

「年だって、アテナが二つ上なだけじゃない!」

「えー? でもエリスの身体はまだまだお子ちゃまじゃーん?」


 ぴた、と争いが止まり、エリスの視線が水面へと移動した。エリスと向き合う体勢に変わったアテナの張りのある豊かな双丘が見え、そしてエリスは自分の胸を見た。


「〜〜っ! アテナのばかーーーっ‼︎」


 ぷるぷると震えた後、目に涙を溜めて叫びこれでもかとお湯を浴びせてきたエリスにアテナは湯船に沈められかけ、その不毛な争いはあまりに騒がしいと様子を見にきた侍女が声を掛けるまで続いた。


 入浴を終えて着替えた後もエリスは拗ねた顔のまま侍女と自分の部屋に戻ってしまい、外の廊下にはアテナとその侍女だけが残された。


「あは、からかい過ぎちゃった」


 随分長い時間入浴していたからかアテナの頬は赤く、肌からは湯気が上っていた。

「侍女ちゃん、あたしちょっと散歩してから部屋戻るね。侍女ちゃんも今日はもういいから早く休んでー」


 侍女は返事をせず、その代わり綺麗な礼を取ってからアテナの側を離れた。

 広い廊下にぽつりと残されたアテナは一つ息を短く吐いてから歩き出す。いく場所は決めていないけれど、とりあえず外の空気に触れたかった。


 廊下を進み、扉を開けるとそのまま外へと繋がる場所になる。今日の午前にメラと話していた場所だ。

 また外でも見ようかな、夜だからきっと何も見えないけど。

 アテナは歌詞のない音を口ずさみながら歩き、その場所を目指す。

 もうほとんど外と言っていい場所なのに不気味な程空気の動く音がせず、その代わり虫の声や神殿の下に広がる街の音は普段よりもよく届いた。灯りとして掲げられている松明の炎も揺れることはなく、時折爆ぜる音が聞こえる。

 静かな夜だとアテナは思った。


「……っ、いた…」


 その静寂の中で腕を強く掴むような痛みが襲い、歌が止まる。

 実際には掴まれてなんていない、ただそう痛むだけだ。


「アテナ」


 朝と同じように背後から現れた気配にアテナは驚かず、視線を後ろに向けた。


「やっほー、メラっち」

「痛いの?」

「あれメラっちはやめてって言わないの」


 戯けたようにメラの真似をして微笑むアテナにメラは厳しい視線を向けた。


「茶化さないで」


 松明の炎がメラを照らす。濁りのない黒はこの薄暗がりの中でも炎の橙に負けないのだなとアテナは場違いなことを思った。


「んふふ、茶化してるつもりはなかったんだけどなぁ」


 また体が痛んだ、今度は背中だ。


「……アテナ」

「しょうがないよ」


 アテナは視線を前に向けた。ぽつぽつと灯りは見えるが建物の形や、ましてや人の動きなんて全くわからない。けれどそこが栄えていることは明かりの多さでわかる。

 耳を澄ませていればもしかしたら騒いでいる人の話している内容も聞こえてくるかもしれない。


「…これがあたしの使命だから。白の神子としてこの国を守る、それだけ」


 それにさ、アテナの声が続く。


「痛いって訴えたところでどうしようもないじゃん? これは誰にも代われないし、代わって欲しいなんてこれっぽっちも考えてないし。それならあたし一人が我慢してた方が全然」


 不自然なところで言葉を切ったアテナはメラを見ていた。普段変わらない人形のようなメラの顔が辛そうに歪んでいるのを見て朝と同じようにああ、しまったなと思った。


「…ごめん、メラっちにそんな顔させたかった訳じゃないんだ。でもさでもさ、こればっかりはしょうがないじゃん?」

「…私の方こそ、ごめんなさい」

「えー? なんで謝るの?」


 不思議そうにアテナが首を傾げるのを見て更にメラが表情を歪めてしまった。怒っているような、ともすれば泣きそうだとも取れる表情にアテナは早々にお手上げ状態になってしまった。


「えええっ、ちょ、メラっち! 本当にどうしたの? ええあたしこそなんかごめんね」

「…アテナのそれは、なにに対する謝罪なの」

「え?」


 問われている意味が分からずにいるアテナにメラは浅く息を吸った。


「私が謝罪したのは自分の言動が軽率だと思ったから。だから私はアテナに謝る必要がある。けどアテナにはそんな必要ない」

「えー…、あたしのはメラっちにそんな顔させてごめんって感じなんだけど、だめ?」

「ダメ」

「えーなんでよー」


 メラとの付き合いは短くないがこんな状態の彼女は初めてでアテナは困ってしまう。けれど初めて見ることのできたメラの一面が嬉しくてつい表情が緩んでしまって、それに目敏く気がついたメラが今度はアテナを睨んでくる。


「なんで笑ってるの」

「えー、今日のメラっちめちゃくちゃぐいぐいくるじゃーん。なになに、とうとうアテナちゃんのこと好きになっちゃった?」


 いつもならここで絶対零度の視線が襲ってくるのだが、今日はそうではなかった。


「…そうだね、少しは」

「え、マジ? 明日嵐でも来るんじゃん?」

「…私がエリスなら今頃怒鳴ってるよ」

「あは、簡単に想像できてちょーウケる。今日もいっぱい怒られちゃった」


 空気を漏らすように笑ってアテナは空を見上げた。

 そこには満点の星空と柔らかく輝く満月があって、特に眩しくもないのに目を細める。


「…ねえメラっちー。あと何回だっけ?」


 見上げてい数秒も経たないうちに現れた流れ星に少しだけお願い事をしてみる。

 早すぎてとても三回も唱えられないけれど、なんとか一回は胸の中で呟くことができた。神の子だなんて言われているのに星に願い事をする自分がおかしくてアテナは軽く口角を上げた。


「……一回」


 明るいアテナの声とは正反対にメラの声は消え入りそうな程小さい。

 振り返ると声と同じような顔をしたメラがそこにいた。


「…メラっちって意外と色んな顔できるんだね」


 メラは何も言わなかった。代わりにアテナの隣に来て、一緒に夜空を見上げる。

 また体が痛んだ。今度は腹の奥、どこかしらの内臓が引き絞られるように痛い。

 アテナは自分の掌に爪を立てて強く握った。傷を付けるのは掌が一番適していた。腕を抓ったり、他の場所は着替えの時に見えてしまう。侍女に見られるのも、他の神子達に見られるのも嫌だった。できればずっと笑顔の自分を覚えていて貰いたい。それはアテナの小さな矜持であり、願いでもあった。

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