3
時間は正午に差し掛かる頃、馬車は予定通り検問所へと到着し動きが止まる。
外からカチャカチャと甲冑の擦れる音が聞こえて側で止まり、数秒と経たず馬車の扉が開かれた。出迎えたのは顔も見えない鎧で全身を覆った兵士。「お手を」余計なことを言わず簡潔に指示だけ出され、アテナはそれに従い出された兵士の手に己のそれを重ねた。
そうして地面に降り立ち、次にエリスも同じように降りると二人の目の前には見上げる程の大きな壁が聳え立っていた。いつ見ても強烈な威圧感を与えるその壁がアテナはあまり好きではなかったが、そんなことを言えるような気軽さはこの場所には存在しない。
「状況は?」
エリスが一歩前に出て問う。
「黒の神子様の予言通り、ゼンオウ国の軍が我が国の領土へと接近しております。攻撃可能距離への接近まではあと数分程かと」
「了解。門を開けて! 前に出るわ!」
凛とした声に兵士が腕を上げて合図を送り、門の上にいる人物がそれに応じて重たい門を開いていく。ぴたりと閉められていた門に隙間が開き、そこから眩しいほどの光が差し込む。
このまま外に何もない長閑な風景が広がっていたらどれほどいいだろうか、そう思うけれど現実は無情で見えてくるのは鈍く光る甲冑に身を包んだ兵士といななく馬達、風に吹かれてはためく国旗と、大量の銃火器。その光景の中を一切の武装をしていない、真紅の服に身を包んだ少女が進む様のなんと異様で美しいことか。
凛とした後ろ姿にアテナは眩しそうに目を細め、自分もその後に続く。
エリスは前を行きどんどんその背中は小さくなる。
アテナは門を出たすぐの場所で立ち止まり、なだらかな傾斜のはじまるその場所で状況を見守る。先程の兵士はあと数分だと言っていた。
あと数百秒もすればこの場が戦場に変わるのだ。
その証拠に、彼方の大地から国を目掛けてやってくる軍勢が見える。
愚かだなと、アテナは思う。自分達に勝てるはずがないのにと。
そうして待つこと、数分。
「白の神子様、定刻まで三十秒です」
「オッケー」
猛り狂う声が耳に届くのに反して、アテナ達の軍勢はまるで攻撃の準備をしない。する必要が無いのだ。
アテナが大きく息を吸った。
胸の前で両手を組み、その場に膝をついて目を閉じる。
敵軍の音が大きくなる、そばにいる兵士がカウントダウンを始める、三、二、一、その数字の余韻が終わる瞬間、アテナは歌った。
「いつ見ても壮観だな」
「ああ、これが女神様のお力だ」
一応武器は持っているが一切構える様子のない兵士の一人が呟き、その仲間が同調するように口を開いた。
迫っていた敵軍勢がある場所を境に動きを止めていた。
否、正確には止められていた、という方が正しい。彼らの前には半透明の壁が現れ、それはアテナ達の軍勢を守るように半円状に広がり敵の侵入の一切を許さない。
目と鼻の先とは言わないがそれでも随分と近い敵軍勢を前に兵士達は和やかに笑みすら浮かべている。それは嘲りとも取れる笑みだった。
「嗚呼、美しい歌声だ」
またある兵士は恍惚とした様子で呟いた。
その場に楽器なんて場違いなものがあるはずもないのにどこからともなく美しい旋律が聞こえ、それに合わせて柔らかな声が辺りに響く。怒号に掻き消されるはずのその声は他の何よりも良く聞こえた。
「守護の歌姫様の防御は絶対だ。ゼンオウ国の奴らも愚かだな、一体何人の犠牲を出せば我が国に敵わないと気付くんだ」
隊長格の兵士の声に同調の声が混ざり嘲りが波紋のように広がっていく。
まさしくその通りだと、歌いながらアテナは思った。
アテナを中心にふわりふわりと光の粒子が舞い、風もないのに白い髪と柔らかな生地を浮かせる。アテナの足元には巨大な光る円形の陣が浮かび、その中には幾何学模様やら古代文字やらで何か描かれているがアテナはその意味を知らない。知ろうと思ったことすらなかった。
ただこの陣が出ている間、アテナが歌っている間はどんな攻撃も届くことはない。それだけは確かだ。
「敵、砲撃来ます!」
壁の上で戦況を見ている兵士が叫んだ。その直後にアテナの歌を掻き消すほどの轟音が響いて光の壁にぶつかり爆煙が舞う。砲撃は一度で終わらず何回も際限なく繰り返される。
しかしそれら全てはアテナの作り出した壁の前に無力化された。
「ははぁっ! 奴らには脳みそがついていないらしい。女神の加護が授けられないのも当然だ」
兵士達はただ見ているだけだ。万が一つにでもアテナの壁が破られることはないと思い、ただのお飾りとしてそこにいる。この連中からしたら壁にぶつかり爆ぜる砲撃は品のない花火と同じかもしれない。
そしてまた爆音が響き、壁にぶつかった。
──簡単に言ってくれるよねえ。
アテナの歌は止まらない。優しく、そして包み込むような慈愛の歌とも評されるアテナの歌声が戦場と呼んでいいのかもわからない場所に響く。優雅とも取れる歌なのに、アテナが胸の前で組んだ手は小刻みに震える。
砲撃が止まず、壁にぶつかり続ける。その攻撃が増える程、アテナの背中には嫌な汗が伝う。
馬鹿ばっかりだ、アテナはそう思っている。
こんな常軌を逸した力が代償も無しに使えると思っているのかと。
──でも、ま、しょうがないか。
砲弾がぶつかる度にアテナの体には鈍い痛みが襲う。刃物で切られるような痛みではない、殴られたり蹴られたりする鈍痛に似ている。だがどれほど痛みが襲っていてもアテナは歌うことを止める訳にはいかなかった。
なぜならそれがアテナの使命だから。けれど、
「──赤の神子様、目標地点に到達しました!」
その言葉が耳に届いた瞬間、アテナは歌うのをやめた。ここから先はアテナの出番ではない。
瞬きのうちに光の壁が消え失せ、音楽も止まる。
静寂はその一瞬だけ。
音楽と呼ぶにはあまりに凶暴な重低音が轟き、絶叫にも似た声が空を裂いた。
時間にして何秒だろうか、数えることも馬鹿らしくなるようなその数秒で千はいたであろう存在が跡形もなく消え去っていた。
そこに何かがいたとわかるのは痛みを堪えているアテナだけ。その痛みが、そこに確かにいた存在を証明してくれる。けれどその痛みを知るのもまた、アテナ唯一人だ。
最初の絶望とも取れる音楽とは正反対の優しい旋律が漂う。それはアテナの歌ではなく、たった今千の敵兵を消し去ったエリスの音だ。
その音の中を弦楽器の様な繊細な歌声が歌詞もなく揺蕩い、やがて余韻と共に静かに消えていく。
アテナはそれを
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