12
揺れる馬車の中でエリスは目を閉じていた。
街の中を通っているのだろうか、外から住人たちの声援が聞こえるがもう応えるような気力は残っていなかった。
連日の力の行使で疲弊が凄まじく耳鳴りまでし始めた。メラ曰くこの戦いが終われば数日は休めるらしいが、そんなものは気休めでしかない。
これは消耗戦だ。きっとゼンオウ国も気が付いたのだ、神子も使い捨てであるということに。そして神子は次が用意されるまでに時間が掛かるということも既にバレていると考えて良いだろう。
ユラの国はケーレスの力のおかげで飢えとは無縁だ。そして不定期にゼンオウ国が攻め入ってくるせいで外交もしていない。だから誰もゼンオウ国がどれほどまでに強大な国なのかわかっていないのだ。
だがそう日も開けずに大量の騎士を送り込んで来るのだから国力は相当なものだと推測は出来る。
そう深く考えなくてもこんなこと誰だって気がつく。
だが圧倒的な神の力を前に胡座をかいたのだ。自分たちが負けるはずがないと、自分たちの安寧が脅かされるはずがないと誰もが信じて疑わなかったのだ。
そんなことがあるわけないのに。
「…神子様、開けてもよろしいでしょうか?」
いつの間にか馬車が止まり、扉を控えめに叩かれる。
エリスは重たい瞼を押し上げて「ええ」と答えた。開いた扉から光が入り、柔らかな空気と緑の匂いが届く。そっと馬車から降りてエリスは壁を見上げた。
まだ神子の力を授かっていなかった遥か昔にユラの国の民が作り上げた防御壁はもう至る所にヒビが入り、脆くなっているということをわかりやすく伝える。わかっているのに誰も修繕しようともしなかったのだ。
「神子様、こちらへ」
その声にエリスは壁から視線を逸らし、兵士の後ろをついて行く。
兵士たちは今日も顔が見えない程の重装備だがアテナがいなくなった次の戦いで見たような覇気はもう無いように思えた。
壁の上にはいつもの若い兵士とあと少しの人員しかいない。その代わり戦地には大量の兵士たちが並んでいる。ユラの国の国旗をはためかせ、兵士長と思われる男が声を張り上げている。どんなことを言っているのかはわからないがきっとゼンオウ国を嘲るようなことを言っているのだろう。
エリスは視線を遠くへと向けた。
黒く焦げた大地が見える。もう大地と呼んで良いのかもわからないほど黒く爛れたそこから時折風に吹かれて焦げた臭いが漂ってくる。そこで人が大量に死んだのだと思うと心は重たくなるが、もう吐き気に襲われることはなかった。
ただ、呼吸をするのが辛かった。この空気の中に、臭いの中に自分が屠った人たちの思いがこもっているような気がしてうまく息が吸えない。
これじゃ歌えない。
そんな一抹の不安が過ったとき髪を後ろへと流すようだった向かい風が急に追い風に変わる。焦げた匂いは消え失せ、代わりに感じたのは豊かな緑の香り。そして視界の端にちらりと浮いて見えた緑の粒子にエリスは勢いよく後ろを見た。
壁の上からだと遠くに見える白亜の神殿、そこに人がいるのかなんてわからないけれどエリスにははっきりとわかった。
「……ありがとう、ケーレス」
風は涼やかなのにそこにケーレスの想いも籠っているのか少し暖かい気がする。
浮いている緑に触れようと手を伸ばすがそれは風に吹かれて彼方へと飛んでいき、やがて追い風も止む。そうしたらまた焦げた臭いがするが、今度はもう大丈夫だった。
エリスは大きく息を吸った。
「大丈夫」
そう自分に言い聞かせて前を見た。
この感情も、臭いも、全部受け止めて、その上でまた罪を重ねる。
「絶対に守ってみせる」
その為に、自分は存在しているのだ。
昨日とまた同じような光景が繰り広げられていた。
壁の上からエリスが歌で敵を殲滅し、漏れ出たゼンオウ国の騎士を自軍の兵士が討ち取る。壁から遠かったゼンオウ国軍がジリジリと近づいて来ていることは自軍が後退しているのを見れば明らかだった。
何故そうなっているのかと問われると理由は明白だ。
エリスの攻撃の手が徐々に遅く、そして弱くなっているからだ。
攻撃範囲が狭まり、そしてムラも出始めた。その間を掻い潜った敵が猛然とユラの兵士に剣を振るいもう何人が倒れただろうか。戦場はまさに地獄絵図だ。
見張りの兵士が何事か叫んでいるがエリスの耳には何一つとして入ってこない。
耳鳴りがひどくて、目の前で花火が上がっているように光が点滅を繰り返している。何度目かの歌が終わり、エリスはその場に両膝を着いた。全身で大きく呼吸をして崩れ落ちそうになる体を床に両手を着くことでなんとか堪える。
息を吸うことも吐くことも難しい状態でエリスは歯を食い縛って立ち上がり、状況を確認しようと意識だけ兵士の方に向けた。
「…っ、いま、どうなってるの…⁉︎」
若い兵士は声を上擦らせながら「はい」と返事をした。恐怖と興奮が入り混じったような声で早口にエリスに状況を伝える。
「ぜ、ゼンオウ国軍が近づいています! 早く殲滅しなければ砲撃がっ⁉︎」
その時、壁が揺れた。
僅かな揺れだが、それが何を意味するかなんて考えなくてもわかった。
体に戦慄が走った。感じたことのない危機感に全身から汗が吹き出し、呼吸をすることも忘れて柵のギリギリのところにまで近づいて壁を見渡す。すると一箇所に砲弾が打ち込まれているところがあった。
壁の表層が剥がれ、煙が上がっている。目を見開きそこを凝視していると「危ない!」と切羽詰まった声が聞こえてエリスの体は後ろに思いきり引かれた。
痛みを感じるよりも先に襲ったのは衝撃だ。強い揺れと破片まじりの爆風に吹かれたかと思えば、先程までエリスがいた場所が砲弾で抉られていた。もう少し体を引かれるのが遅かったらエリスは絶命していただろう。
全身が冷えていく感覚に唇が戦慄いた。指先が氷のように冷たく感じて、奈落へと落ちていくような絶望が全身を一瞬にして駆け巡る。
暇なく打ち込まれる砲弾と聞こえる悲鳴にエリスも叫び出したい衝動に駆られる。生まれて初めて感じる恐怖に理解が追いつかず声にならない喘ぎが漏れた。
死んでしまうのだろうか、ここで。こんなところで、死ぬのだろうか。
漠然とした死という概念がエリスの中で膨れ上がる。歌わなくてはと思うのに乱れ切った呼吸を整えることもこの状況を打破するイメージも出来ない。
火花が散る、砲弾や矢が雨のように降り注ぎ見張りの兵士が数人犠牲となった。悲鳴の中に「神子様は⁉︎」「どうして歌わない!」「助けて!」そんな悪夢のような声が混ざり、それだけで今ユラの国が危機に瀕していることがわかった。
歌わなくては。
わたしが守らなければ。
そう思うのに、恐怖からか口が開かず奥歯ががちがちと音を立てた。
──ああ、終わりだ。
不意にそう思った。
立ち上がろうとした体から力が抜け、床に座り込む。もう何も考えられなかった。
全てが終わろうとしたその時。
「──エリスーーーっ‼︎」
聞こえるはずのない声がした。
幻聴だろうかと振り返った先にいた少女の姿に、エリスの目が限界にまで見開かれた。
「タナ…っ⁉︎」
見間違いだろうか、どうかそうであってくれ。そうでないといけない。
だが現実は残酷だ。
「エリス、エリス歌って! タナも頑張るから! ちゃんと頑張るから! だから!」
小さな体が近づいてくる。必死な顔をして、細い手を目一杯伸ばしてエリスに向かってくる。エリスは首を振った。
だめ、来てはダメ。あなたはまだ戦えない、こんなところにいたらダメ。
そう伝えたいのに口が動かない。
無数の矢が降り注ぐ。エリスに向かって、殺意の塊が降ってくる。
「タナ‼︎」
悲鳴のような声がタナの声を呼んだ。
タナは立ち止まり、空を見た。その
「─やめてええぇええ‼︎」
エリスの絶叫が天を裂き、大地が白く染まった。
降り注いでいた全てが一瞬にして消え去り、人の気配も消えた。
音も何もかもが消失したかのような錯覚に陥る数秒間、それはエリスの歌によって急速に終わりを告げる。
空を覆う程巨大な円陣が一瞬にして現れ、空気が震えた。
エリスの決して大きくはない、囁くような歌声が響く。それはやがて力強いものに変わり、それに合わせて円陣の光も増していく。戦場と化している全ての範囲に赤い粒子が舞い上がり、異様な光景を作り出す。
エリスは戦場を見下ろすように立ち、片手を高く掲げた。
それを見た辛うじて生き残ったゼンオウ国軍の騎士の手から、武器が滑り落ちる。
先端が地面に着くと同時、エリスの手が振り下ろされた。
無情な程呆気なく戦況は変わった。
多くの悲鳴や命乞いの声がエリスの歌声で塗り潰される。
悪夢のような光景の筈なのに、ほんの僅かでも美しく感じてしまうのはそれがまさしく神の御業だからだろう。
エリスは文字通り全てを消し去った。
歌声が余韻を残して終わると空を覆っていた円陣も消え、辺りは再び静寂に包まれた。
誰も何も言わなかった、否、言葉に出来なかったと言う方が正しいか。
戦場には何もなかったのだ。ゼンオウ国軍が乗ってきた船も、数多あった重火器も、そして人間さえ。最初からそこには何もなかったと思うほど、跡形もなく消し去られていた。
ここで戦いがあったのだとわかるのは壁に打ち込まれた砲弾の跡だけだ。
それだけが、その場にいたゼンオウ国軍を証明するものとなった。
*
歌が終わり、赤い粒子が全て空に消えた瞬間エリスはその場に倒れ込んだ。
もう呼吸することも苦しい。けれど体は勝手に酸素を求めて胸を上下させる。とにかく全身が鉛のように重たくて、体中が痛くて仕方がなかった。
息をすれば肺が痛み、瞬きをすれば目の奥が刺されたように痛んだ。
どうにか痛みを和らげようと体を丸め、目をぎゅっと固く閉じる。そうすればいくらかましだった。
「エリス、エリスっ!」
届いた声に今にも遠のきそうだった意識を繋ぎ止めて腕で体を支える。
なんとか顔だけ上げて、薄く目を開いた。
「タナ…っ」
喉が引き攣り、ひゅっと短く息を吸った。
「…怪我は、してない…?」
ドクドクと心臓がうるさいほど鳴っていた。
「うん…っ、あ、危ないことして、ごめんなさい…っ」
ぼろぼろと大きな目から涙を流して泣くタナの涙を拭おうとエリスは腕を伸ばした。指先が目元に触れて、確かな温度と柔らかさを感じる。
その指先に、はらりと赤いものが落ちた。
だがそれは指に触れることなく、腕をすり抜けて落ちていく。床を見てもそれはどこにもありはしなかった。
「…怪我がないなら、よかった…」
今自分はうまく笑えているだろうか、目の前の幼い子に気取られていないだろうか。
エリスは空を見た。
はらり、はらりと赤が舞う。
残酷な程美しく降り注ぐそれは、真紅の花弁だった。
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