11
「…エリス、」
馬車から降りたエリスを見てケーレスは言葉を失った。いつもは笑顔でおかえりと言ってくれる人が表情を険しくさせてエリスを見つめ、それだけで今自分がどんな状態なのか想像できて笑ってしまいそうだった。
「…ただいま。…お風呂、行ってくるわ」
身体は重たいし、戦装束は汗を吸っているせいで冷たくてしょうがない。エリスは真っ先に浴場に向かい、いつの間にか側にいた侍女がそっと扉を開けてエリスを中に促す。
パタリと扉が閉まった瞬間気が抜けたのか崩れ落ちそうになったエリスを侍女が慣れた様子で支え、服を脱がせていく。
力を使い過ぎたときはいつもこうなっているからか、侍女の手つきは慣れたものだ。
エリスも全てを侍女に任せきり、ただぼんやりと虚空を見つめる。やがて全ての装飾品も衣類も脱がされ生まれたままの姿になると「神子様」と呼ばれ意識が戻る。
小さな声で「ありがとう」とお礼を言って歩き出し、真っ白な湯気で目の前が遮られる浴室へと足を踏み入れる。そこから全てのことを侍女に任せ、エリスはお湯の中に四肢を投げ出した。
そうすると疲労が浮いて流れていきそうな心地になるのに、心は一向に晴れないままだ。鉛のように重たくて、夜の海のようにどこまでも深くて暗い。
このまま水に溶けてしまえたらどれだけ素敵だろうか。そうすれば、この苦しみからも逃れられるのだろうか。
そんなことを考える一方で、それをエリス自身が即座に否定するのだ。
「……つかれた…」
無意識にこぼれた言葉にエリスに触れる侍女の手がぴたりと止まるがまたすぐに動き出しエリスの髪を清めていく。もう誰かを慮るような余裕がエリスにはなかった。
全身を清め、入浴を済ませると寝支度を整える。
まだ日は高く眠るには早い時間だがもうエリスは立つのもやっとなほど疲弊していた。
「食事も必要ないわ、ごめんなさい」
侍女に支えられながら自室へと戻り、寝台に横になったエリスの言葉に侍女は何も言わなかった。吸い込まれるように目を閉じて深く息を吸う。次の瞬間には意識が闇の奥深くへと落ちていく感覚がして、エリスはそれに逆らうことなく身を任せた。
夢の中で誰かに頭を撫でて貰っているような気がした。とても優しくて、少し懐かしくも感じた。
目が覚めた時、辺りは薄暗かった。
ゆっくりと瞬きを繰り返し意識的に呼吸する。喉が張り付くように乾いていて少しだけ咳き込んだ。それが落ち着いてから上体を起こし、視線を巡らせて空を見た。
藍色と、薄紫と、白。もう少し経てば太陽が顔を出し鋭い光が当たりを照らし出すような、そんな時間。まだ疲労の抜け切らないぼんやりとしている思考を起こすようにエリスは首を振り、寝台から足を下ろした。
足先に触れた床石はひやりと冷たく、そのまま足裏全てを触れさせて立ち上がる。
途端ずし、と重たくなる体に息を吐き侍女が用意してくれていたグラスに水を注いでゆっくりと一口飲み込んだ。
戦いが始まってからというものまともな食事を摂っていないせいか冷たい液体がそのまま胃の底にまで落下してきて背筋がぞくりとする。その冷たさが意識を明瞭化させて視界が少し開けたような気がした。
グラスを置いて椅子の背に掛けてあったショールを手に取る。これもきっと侍女が用意してくれたのだろうと推測し、またお礼を伝えようと思いながら肩にそれを羽織ってエリスは部屋から出た。
夜明け前の今が一番気温が低く、少しだけ寒い。けれどその冷たさが今のエリスにはちょうどいい。薄暗く滲んだような明るさの中をエリスは一歩ずつ進み、やがて海の見える通路の突き当たりにやってくる。
そこからは海が見える。もう少ししたら太陽が水平線から上り、目を焼くような光が差し込んでくる。そうしたら、見える筈だ。
エリスが焼き払った大地が。
そこに立って、エリスはただ時間が経つのを待った。
やがて水平線から眩いばかりの光が姿を現し、行く筋もの強烈な光りの道が網膜を焼いていく。直視出来ないほどの眩さにエリスは目を細めるが顔を背けることはしなかった。
そうして見えてきた光景を静かに見据えた。
「……わたしがやったの」
後ろで息を呑む気配がした。
「そうしないと、きっとあの人たちはユラの国を壊してしまうだろうから」
あまりに遠くてはっきりと確認することは不可能だが、門の外の海に近い地面が不自然に黒く焦げているのがわかる。あれはエリスが焼き尽くした場所だ。
もうあそこに緑が芽生えることはないだろう。エリスがそうした場所は数えきれない程にある。
中には死肉で肥えた大地もあっただろうか、そこもエリスが刈り取ってしまっているに違いない。
エリスの力は滅ぼすことしか出来ない。その力を持って守ると言ってはいるが、そんなものは傲慢だ。エリスのしていることは──
「わたしのしていることは虐殺よ」
エリスは手を伸ばし、戦場を指差した。
「あそこに沢山の人がいたわ。わたしたちと同じ姿形をした人間がいた。女神の力に敵わないなんてわかってるくせに、それでも襲ってくるから、やるしかなかった」
プツッと糸が切れたようにだらりと腕を垂らしぼんやりとした表情のままエリスは戦場を見た。太陽は少しずつ上昇して、やがて大きな壁に阻まれた街にも陽光が降り注ぐ。
また今日も朝がやって来た。
「…わたしは」
自分の声なのにどこか遠くに聞こえた。
「わたしはゼンオウ国がどうして攻めてくるのか知らないの。…知ろうと思ったことすらなかったわ。でも今から知ろうとしたって、もう遅いわね」
メラの予言は今日も争いが起きると示した。
だから今日もエリスは守ると称して大量の人間を手に掛ける。そうして数え切れない程の命を今まで刈り取ってきた。
「知るには、歩み寄るには。わたしは人を殺し過ぎてる」
少しでも気を抜けば崩れ落ちてしまいそうな程体が疲弊しているのがわかる。力の使い過ぎで頭痛も止まらず時折視界が霞み、少し体がふらついた。
咄嗟に壁に手をついてバランスを保ち、ゆっくりと息を吐き出した。
「…それでも、やらないといけないの。わたしは神子だから。みんなを守る責任があるから。わたしが、守らないと」
自分に言い聞かせるように呟いて壁から手を離し、エリスは後ろを振り返った。
そこにいたパーシアスは驚きに目を見開き、エリスを見ている。ケーレスと同じような表情にエリスは今度は笑ってしまった。
だがその顔もすぐに色を失くす。
「…わたしは今日もあなたの国の人を殺すわ。それしか守る術を知らないから。あなたが国を守りたいと思って騎士になったように、わたしもこの国を守りたいから。だから」
立ち尽くしているパーシアスに一歩、また一歩と近づく。エリスはその横を通り過ぎる間際にぽつりとこぼした。
「──ごめんなさい」
エリスの目に、もう迷いはなかった。
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