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空を遮るものが何もない草原には柔らかな月光がたっぷりと注がれてそこだけ青白く浮いているようにも見える。エリスはその草原の真ん中に腰を下ろして浅く広がった陶器の器に果実水を注いだ。
杯の底には絵が書いてある。女神ユラとその加護を受けた四人の神子たちの絵だ。
女神ユラはどんな文献にも美しい女性として描かれている。雰囲気としてはケーレスに似ているけれど、どこまでも深い色をした瞳はメラを思い出させる。豊かな神はアテナのようだ。
そんなことを、幼い頃みんなで話していた。
エリスはどんなところが女神様に似てるのかな、アテナは楽しそうに問いかけていた。
「…結局、見つけられなかったわね」
年齢を重ね戦場に立つようになってからいつしかそんな話はしなくなった。
どうすれば効率良くゼンオウ国を退けられるか、どうすればエリスもアテナも過度な力を使わずに済むのか、そんな話ばかりしていた。それも最善策が見つかれば今度はまた違う話題になるのだが、幼い頃のような絵物語の話なんてしなかった。
思い出すのも難しいくらい取り留めのない会話をしていたように思う。
否、アテナはいつだってエリスに楽しい話題を提供してくれていた。それを跳ね除けたのはいつだってエリスだ。神子として、そんな風に生活してはならないと勝手に自分に枷を付けていた。
神子には相応しくないのだと、そう自分に言い聞かせていた。
それを間違いだなんて思っていない。エリスは女神の加護を受けた歌姫としてこの国に生きる全ての人を守る責任がある。だからエリスは自分の思う理想の神子であり続ける努力を今もしている。
けれど、それでも今どうしようもなく寂しい。
「……もっと、たくさん話せばよかった」
薄い盃を両手で包むように持ち、エリスは俯いた。
鼻の奥がツンと痛くなって目が熱くなる。じわりと視界が滲み始めてエリスは慌てて顔を上げて空を見た。何度も深呼吸をして涙を引かせ、もう大丈夫だろうという頃合いで顔の位置を戻す。
「…泣かないって決めたでしょ、わたし」
小さく呟いて注いだ甘い液体をぐい、と飲み干した。
甘く爽やかな味わいと清涼感にほっと息を吐いて月を見上げる。
「アテナ」
そう呼べば今でも「なあに?」と言ってひょっこり出てきてくれるような気もするけれど、そんなことは有り得ない。わかっていてもエリスは何かを伝えるとき名前を呼ばずにはいられなかった。
「ねえアテナ。この前ケーレスにね、生まれ変われるならどうしたいって聞かれたの。ケーレスは服を作ったり結婚をしたり、そういう普通の人生を生きたいんですって。わたしはまたみんなに会いたいって思ったけれど、あなたはどんなことを思うのかしら」
柔らかな光を発する月の側を流れ星が駆けていく。雲ひとつない夜空には燦然と星々が輝いていて、それだけで一級品の芸術のような美しさがあった。
「…役目が終わったらまたあなたに会えるのかな」
死後の世界なんてわからないが、ユラの国では死後魂は自由となり好きな場所にいくという教えがある。それが本当なのかはわかるはずもないが、もし真実なのだとしたら自分は真っ先にアテナに会いに行くのだろう。
そうしたら思い切り叱ってやるのだ。エリスに死期を黙っていたことを声を大にして叱り飛ばしてやるのだ。
「…そしたらあなたはきっと軽くごめんなんて言うんでしょうね」
茶目っ気たっぷりに片目を瞑り、両手を顔の前で合わせているアテナが容易に浮かんでエリスの口角も緩んだ。どうしようもないほどおちゃらけた人だという認識は今も変わっていないが、今その姿を見たらきっと泣いてしまうんだろうなと思う。
けれどアテナが泣かないでと言ったから、エリスは泣かない。それが最後のお願いだから。
「…会った時は覚悟しておきなさいよ、アテナ」
視線を下げ地面に置いたままの容器から再び果実水を盃に注いで一口含む。
ふわりと香る甘い匂いに懐かしさを感じて目を細め、また口を開く。
さあ、と風が吹いてエリスの切り揃えられた赤い髪を混ぜる。夜の涼やかな風は心地良く、その中に混ざる緑の香りが豊かさを感じさせるが視界に入る赤い髪は火花のように見えてエリスは短く息を吸った。
「……ねえアテナ」
呟いた声は頼りなげに震えていた。
「…ううん、なんでもない。言ったってしょうがないことだったわ」
言葉にしようか悩んで何度も口を開けては閉じを繰り返し、そして言葉にしないことを選んだエリスは一度大きく深呼吸をした。
今日中にある靄を全て吐き出すようなそんな大きな呼吸をして、空を見る。
見上げた夜空には相変わらず満点の星空でずっと見ていられるほど美しい。その中をたまに流れ星が走り、瞬きの間にどこかへと消え去っていく。幻想的でどこか儚いその光景にじっと魅入っていると少し遠くから誰かが歩いてくる音がした。
音のする方へと顔を向けると少しして人影が見えてきた。
闇に紛れると輪郭すら捉えることが難しくなる色合いの髪を持つ人物なんて一人しか心当たりがない。
その人物の登場にエリスは驚きに目を丸くしたがすぐに心が重たくなるのを感じた。
メラがわざわざエリスを探し出す理由なんてたった一つしかないからだ。
「エリス」
風が草木を揺らす音に混ざって艶のない、けれど女性的な柔らかさを持った声が名前を呼ぶ。
「…戦いが始まる。今までで一番大きい戦いになる」
光のように輝く金の髪を思い出した。
想定していた通りの言葉にエリスは何も言えなかった。
返事すら出来なかった。
「エリス」
一歩ずつメラがエリスに近付いて、目線を合わせるように膝を着いた。
柔らかな光に照らされているメラの顔は能面のように無表情で何を考えているかわからない。冷えた指先がエリスの頬を撫で「エリス」もう一度名前を呼んだ。
「……わかった」
ようやく出せた声は細く、酷く掠れていた。
メラはその返事を聞いてゆっくりと立ち上がった。「また明日説明する」それだけ言い残して去っていく背中をエリスは抜け殻のように見続けた。やがてメラの姿が夜の闇の中に消え、再び一人の時間になるとエリスは片手で自分の胸元の服を強く握った。
息が乱れ、思考がぐちゃぐちゃになる。
頭の中ではパーシアスと語り合った時間が思い出されていた。
「……は…っ、は、」
数え切れない程戦って来た。今まで躊躇なんてただの一度だってしたことがなかった。アテナが死んだ時は根絶やしにしてやると思っていたし、実際にその時に来た敵軍はその言葉通りにした。
それなのに今、エリスは葛藤していた。
いつの間にか果実水を注いだ杯は倒れ、液体は地面に吸収される。風に乗ってふわりと香る甘い匂いも先程まではあんなにも良いものだと感じていたのに今はもうそう思う余裕も無くなった。
言葉に出来ないような不快感が胃の内容物を逆流させる。
吐きそうになるのを必死に堪えながらエリスはその場に蹲った。
──わたしは、人間を殺すの…?
そう思った途端、堪え切れなかったものが溢れ出した。何度も咳き込み、苦しさから視界が滲む。酷く頭が痛かった。
エリスはその時初めて歌いたくないと、そう思った。
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