8
それから数日後、ユラの国では豊穣祭が行われた。
新たな白の神子のお披露目や昨年は参加しなかった黒の神子の登場、そして緑と赤の神子の舞が披露され会場はとんでもない盛況ぶりだった。
最後にケーレスが今年一年の国の安寧を願って歌えば神子の仕事は終わり、あとは各々が自由にする時間になる。そうなればいち早く神殿に戻るのがメラで、民と酒を飲み交わすのがケーレスだ。タナはまだ子供ということもありメラと一緒に神殿に戻った。エリスも昨年まではアテナと共に店を回ったり談笑したりとしていたのだが、今年はそうではない。
神子のために作られた祭壇のような場所でエリスは一人用意された椅子に腰掛け、賑やかな住人たちを眺めていた。どこからかケーレスの朗らかな笑い声が聞こえるし、祭りということもあって誰も彼も皆楽しそうだ。
この景色を自分たちが守っているのだなと思える瞬間がエリスは好きだった。
アテナと一緒に「あたしら頑張ったじゃん」なんて言って一緒に飲む果実水が最高に美味しくて、その時間が何よりも大切だった。
大切だったのだと、こういう時に思い知る。
思えばアテナはいつだってエリスを気にかけてくれていた。エリスは人と関わることが下手だ。どう話しかけたらいいかわからないし、街の人もわざわざ祭り上げるようにして建てられている神子の席へと足を伸ばそうとは思わない。
アテナはいつだってエリスが孤立しないように気を遣ってくれていたのだなとようやく気付くことが出来てエリスは笑った。本当に妹思いの姉だったなと、エリスはゆっくり立ち上がる。
後ろを見ると控えていた侍女に「ねえ」と声を掛けた。
「…わたしがアテナと一緒に飲んでいた果実水、覚えてる? もし覚えていたら一つ譲って欲しいのだけど」
「…少々お待ちください」
「え、…ええ、お願い」
エリスは驚いて目を丸くした。
侍女は必要最低限のことしか話さない。こういう風に神子が話しかけても基本は無反応か首肯のみだ。こんな風に言葉が返ってくることなんて今までなくてどうしたのかと思わず凝視したが、侍女はそのままどこかへと姿を消してしまった。
それから数分後、侍女は片手で抱えられるサイズの陶器でできた持ち手が二つある容器を持って来た。そっと差し出されたそれを受け取ると「ありがとう」とお礼を言ってそれを抱える。
中で液体の揺れる音がして、鼻を近づけると嗅ぎ慣れた香りがして双眸を細めた。
「…これだわ。覚えていてくれてありがとう。わたしは今から神殿に戻るけど、あなたはお祭りを楽しんで来て」
そういうと侍女は少し間を空けたあと頷いて後ろへと下がった。それを見届けてエリスは歩き出す。たまには神殿まで歩いても帰りたいと思い、こそこそと人のいない場所を選んで歩いていく。どうしても声を掛けられはするが一言二言交わせば大抵の人はそのまま祭りの賑やかさを選び戻って行く。
それにいちいちほっとしながら神殿へと続く道にまでやって来たところで背後から声を掛けられエリスは肩を跳ねさせた。だがその声には覚えがあったし、何より自分を「おい」なんて気安い言葉で呼び止める人物なんて一人しかいない。
「…どうしたのパーシアス」
「どうしたはこっちのセリフだ。神子サマがこんなとこで一人で何をやってるんだ」
「何をやってるって、神殿に帰ろうとしているだけよ」
「護衛も付けずにか」
「わたしを襲う人なんていないわ。ところでどうしてここにいるの? タナと一緒に戻ったと思っていたけど」
街の至る所で松明が焚かれているおかげかそこから少し離れた場所でも明るく、パーシアスの表情がよく見えた。呆れているような、そしてどこか不機嫌な顔にエリスは首を傾げその様子にパーシアスはこれ見よがしにため息を吐いた。
「…あの我儘なお姫様に頼まれたんだよ、土産を買って来いって。あんただって見ただろ、黒の神子サマに連れられて帰るあいつの不機嫌な顔」
そう言われエリスは思わず苦笑した。そんな顔をさせるほどあの時のタナの悔しがりっぷりは凄まじかった。癇癪を起こすことはなかったが何度もケーレスに「残っちゃダメ?」と聞いてその度にケーレスはとても良い笑顔で「だめ」と伝えていた。
そうして見事な膨れっ面になったタナは従者を連れて神殿に戻った筈だが、どうやら鬱憤晴らしの白羽の矢がパーシアスに立ったらしい。
「それじゃあ早く行かないと。売り切れちゃうわよ?」
「…そうだが」
どこか煮え切らない様子のパーシアスにエリスは首を傾げた。だがエリスとしてもあまりここで立ち止まっていたくない気持ちがあった。喧騒から離れたとはいえ、この場所はまだ住人たちの目に付く。酒に酔った人の相手は特に苦手なエリスとしては一刻も早く離れたい気持ちがあった。
「…お使い大変だろうけど頑張って。それじゃあ」
街で何か盛り上がることがあったのだろうかわっと声が上がったのをきっかけにエリスは背を向けて歩き出した。
戻ったらまずは器を取りに行かないといけない。この容器と器を持って歩けるだろうか、それとも最初から注いで行ってしまった方が効率的だろうか。そんなことを考えながら歩いたがエリスの動きは止まった。
否、止められたのだ。
「…悪い、けどさすがに一人はだめだ。少しだけ待ってくれ」
エリスの剥き出しの二の腕をパーシアスが掴んでいた。掴むというよりは握るというニュアンスの方が近いかもしれない。それくらいの僅かな力で腕を取られ、エリスは足を止めた。驚きに目を丸くしたエリスはその場に固まり、待てと言ったくせに背を向けて足速に街に向かったパーシアスを見て唇をぎゅうっと引き結んだ。
触れられた腕がとても熱かった。
「戻った。帰るぞ」
それから数分とせずパーシアスが小走りに戻ってきた。軽く息を乱し、片手にタナの気に入りそうな果物が入った袋を持ってやってきた姿にエリスは何も言わなかった。
ただ今度は帰るぞと言ったくせにその場から動こうとしないパーシアスを見て眉をぐっと深く寄せた。その様子に首を傾げたのはパーシアスだ。
「なんだ、早く行け」
「あなたの先を歩くの?」
「その方が何かあった時対処出来るだろ」
「後ろをついて歩かれるの嫌。あなたが先を歩いて」
「断る。背後は反応が遅れる」
二人はしばし睨み合った。けれどどちらともなくため息を吐き、パーシアスが歩み出しエリスの隣で足を止めた。
「…ここが妥協点だ。隣ならそこまで気にならないだろ」
「…まあ」
渋々頷いて二人は歩き出す。エリスの歩く速度に合わせているからかパーシアスの歩調はひどく緩やかだ。並んで歩いていても二人の間には会話らしい会話はなく、ただ地面を踏む音と暗闇によく響く虫や動物の声が耳に届いた。
街から神殿まではそれ程距離は無い。だが街の松明の明かりが届くような距離ではなく、進んで行くたびに暗闇は深さを増して代わりに形を潜めていた月光が道を照らした。
「…神殿でも何か儀式があるのか」
不意に掛けられた言葉にエリスの視線が隣に向く。するとパーシアスの視線がエリスが両手で抱える陶器に向けられていることに気がついて首を横に振った。
「いいえ、何も無いわ。…これは友人と飲もうと思って持ってきたの」
「…黒の神子か?」
「メラも友人だけど、用があるのは違う人。それにきっとメラは疲れ果てて寝てるわ。本当にこういう行事が嫌いだから気疲れがすごいはず」
神子による催しが全て終わり自由の身となった瞬間彼女は誰よりも早く立ち上がり誰よりも早く帰りの馬車に乗り込んだのだ。その姿にはさすがにケーレスも苦笑していた。
だからメラはもう随分前に自室にこもっている筈だし誘っても絶対に出てこないという自信がエリスにはあった。
「…それ以外にあんたに友人がいるのか…?」
「……失礼ね。…でもその通りだわ。わたしに友人といえる人は神子しかいないもの」
エリスは空を見た。青白く輝く月の横を白い雲が揺蕩っている。その柔らかさは今から会いに行く友人を思い出させて口元を緩めた。
「かつての友人よ、今はもういないわ。死んでしまったの」
もういなくなって随分と経つのに未だに死という言葉を使う度に言いようのない寂しさが心を重たくする。
「…このお祭りの時、約束なんてしてないのにその子と一緒にこれを飲みながら互いを労うなんてことをしていたの。…その時間が好きだったなって今になって気が付いたから、それを伝えに行こうと思って」
エリスは宝物のように抱えた容器に視線を移した。きっとエリスがこんな行動を取っているのをアテナが見ていたら「めちゃくちゃ寂しがりじゃんウケる」とでも言いそうだが、本当にそうなのだから仕方がない。
「…そうか」
「ええ。…きっとこんな姿見られたら笑われるわ」
あの深夜の談話を経て二人は少し会話をするようになっていた。
相変わらず二人とも口数は少なく気を抜けば言い争うような間柄だが互いを憎しみの目で見るようなことはなくなった。少なくともエリスはそうだった。
だから以前よりも気軽いに言葉を重ねるようになったし、神子でもユラの国の人間でもないパーシアスだからこそ言えることもあった。
ゆっくりと歩きながらぽつぽつと独り言のようなアテナとの思い出を語り、パーシアスは律儀に相槌を打つ。それがおかしくて時折笑い、それに複雑そうな顔をしたパーシアスが「おい」と低い声で唸ってエリスが「ごめんなさい」と軽く謝る。
そんな風に歩いていれば神殿に到着し、エリスはほっと息を吐いた。
「これから霊廟か?」
その問いにエリスは首を横に振った。
「タナに授業を教えている場所に行くわ」
意外な返答だったのかパーシアスは片眉を上げた。
「思い出の場所なの、あそこも」
とりあえずエリスは果実水を注ぐ器を探すべく一度神殿の中に入り厨の方に足を向けたがふと後ろを見た。
これからパーシアスは手に持った袋をタナに届けるのだろう。その後は知らないがもう休む時間かもしれない。そう想像しながらエリスは口を開いた。
「一緒に来る?」
気付けばそんな言葉を掛けていた。何故そんな誘いをしたのかエリスにもわからない。けれどなんとなく、そうしたいと思った。
まさか誘われると思っていなかったのだろう。パーシアスも見るからに驚きに目を丸くしてエリスを見返し、数秒の沈黙の後口を開いた。
「…いや、遠慮する。友人同士の語らいに俺がいたら邪魔になるだろ」
「ふふ、それもそうね。おやすみなさいパーシアス、送ってくれてありがとう」
断られることは目に見えてわかっていたためエリスはおかしそうに肩を竦めて笑い歩き出す。酒なんて一滴も飲んでいないし、空気に酔うような性格でもないのに何故だか気分が良くて足取りが軽くなる。
力を纏わない歌を小さく口ずさみながらエリスは用意を終わらせてアテナとの思い出の場所へと足を進めた。
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