この感情も、臭いも、全部受け止めて、その上でまた罪を重ねる。
1
「少しね、意外なの」
ユラの国が常に穏やかな気候だ。偶に荒れる時もあるが、その時は大抵ケーレスが雨を呼んだ日だ。豊穣の歌姫であるケーレスがいる限りこの国では自然災害は起こらないといっても過言ではないだろう。
柔らかな光が降り注ぎ、豊かな緑の香りを含んだ風が頬を撫でて行く。エリスは顔に掛かる髪を片側だけ耳に掛け、向かいの席に座るケーレスを見た。
「なにが?」
「パーシアスくんのこと」
常に優しげな弧を描いている唇から告げられた言葉にエリスの表情はケーレスとは対照的に顰められる。
だがそう言われても仕方がないと思う部分はある為一度息を吐いてから椅子に座り直し、背凭れに体を預けた。その様子にケーレスがぱち、と瞬きをする。
エリスはだらけることが嫌いだ。常に歴代の戦勝の歌姫のように、女神ユラのように凛とした女性でいたいと思い続けているしそうである努力をしている。だから人前で体から力を抜くなんてことをこの数年はしていなかった。
常に背筋を伸ばし、胸を張って前を見る。迷わず、只ひたすらに神子としての責務を果たす。それがエリスの信条だが、ここ最近それに綻びが生じていることを誰よりもエリスが一番よくわかっていた。
「…ケーレスは」
「うん」
エリスはぼんやりとテーブルの上に置いてあるカップを、その下に敷かれているケーレスが編んだテーブルクロスを見た。
「…どうしてわたしたちが争っているんだと思う?」
「……あちらが攻めてくるからそれを迎え撃っている、…そういう認識ね」
その認識はエリスも持っているものだ。
ユラの国とゼンオウ国はずっと争い続けている。少なくともエリスが幼い頃から争いが途絶えたことはない。時折長い休戦期間があるが、それも数ヶ月だ。一度始まるとまたしばらく戦いの日々が続く。
それらは全てゼンオウ国が攻めてくるから、全て彼の国のせいなのだと、エリスは思っていた。否、今もそう思っている。なぜならユラの国から争いを仕掛けることはないからだ。歴史上今まで全ての戦いはゼンオウ国から仕掛けられている。だから彼の国さえ攻めて来なければこの国は平和なのだ。
だからゼンオウ国が憎くてしょうがなかった。
理由もなく攻めてくる野蛮な連中が大嫌いだ。あいつらさえいなければアテナは死なずにすんだ。
そこで思うのだ。「理由」とはなんだと。
「…ゼンオウ国の連中は野蛮で、どうしようもない連中で、神の裁きが与えられて然るべきだと思ってる。タナを拐って、アテナを殺したゼンオウ国なんて大嫌い。本当に、本当に嫌い。…だけど」
生まれて初めて出会ったゼンオウ国の男、パーシアスの存在がエリスの心にしこりを生んだ。
言葉を交わせた、息をしている、そこに人として存在している。
同じ人間なのだとわかった時からエリスはおかしくなってしまった。
「……前みたいに、もうできないかもしれない」
エリスにとってその存在は羽虫と同じだった。
声が大きく手数の多い羽虫。顔なんて見たこともなければ話したことなんてあるはずもなく、野蛮な武器を持ち雄叫びを上げながら突進してくる木偶の棒。
神の力を前に愚かだと見下し、無感情に葬り去って来た。それを人間だなんて認識していなかった。そう思っていたから一切の躊躇なく力を行使することが出来た。
けれど今までそうやって消し去ってきた全てが、その一人一人が自分と同じ人間なのだと、少しでもそう思うと足元からざあっと血の気が引いていく心地がした。
自分は何かとんでもない罪を犯しているのではないかと、不安で胸が押し潰されそうになる。だけどそんな思考に嵌る度に思い出すのは仲間の顔だ。エリスはその人たちを守らなければならない。なぜなら自分の力はその為にあるのだから。
そうわかっているのに、納得しているのに、苦しくてしょうがない。
エリスは両手で顔を覆って深く息を吸い、ゆっくりと吐き出す。吐き切った息の最後は震えていた。
「……ごめんなさい、こんな話をして。…でもちゃんと守るわ。絶対に、何があっても守ってみせる」
気持ちを落ち着ける為に飲み物に手を伸ばし、一口だけ口に含む。エリスの為に甘く淹れてあるそれに喉がキュ、と閉まって飲み込むのが少し難しかった。
「ねえエリスちゃん、突拍子もないこと言ってもいい?」
「…?」
視線だけで続きを促したエリスにケーレスはいつも通りに微笑んで、顔の横で人差し指を立てた。場にそぐわない明るい雰囲気に眉を寄せたがケーレスはその表情のまま唇を開いた。
「もし生まれ変われるならどうしたい?」
「……え?」
理解が追いつかず気の抜けた声を上げたエリスにケーレスは笑みを深めた。
「あ、ちゃんとお話は聞いていたのよ? その上での質問ね」
「……どうしてそんなことを聞くの?」
エリスの前に座る彼女はそっと目を伏せた。長い睫毛が頬に影を落とし、その表情が泣いているように見えてどきりとした。
「わたしたちは神子という名前でしか生きられないから。神子として選ばれたその日からわたしたちはこの国に尽くすことを強いられる。その代わりこんなに綺麗な場所に住めて、たっぷりのお湯を使ったお風呂に入れて、美味しいご飯が食べられる。…そして数え切れないくらいの人に感謝される。…すごいことよね」
でもね、と目が合った。
「こういう人生を生きたかったわけじゃないと思うの、わたし」
ケーレスの白くて細い指が自分で編んだテーブルクロスを大切そうに撫でた。
「編み物をしたり、服を作ったり、そういうことをしている方がわたし好きなの。それに素敵な男性と結婚もしたかったし、身を焦がすような恋だってしてみたかった。素敵な人と結ばれて、そして子供を産んで、おばあちゃんになるまで生きていたかった」
普通であったなら当たり前に存在した筈の未来は神子たちの前には一筋だって現れない。神子となった時点でそんな選択肢は消え去る。
「だけどもうどうしようもないでしょう? 一度決められたことは覆らない。神子になった以上、わたしたちがやることは決まってる。それはエリスちゃんも一緒」
ケーレスの綺麗な目がエリスを射抜く。
「見捨てることなんて出来ないんだからやるしかないの。わたしも、エリスちゃんも。最期まで」
そう言ってケーレスはいっそ清々しい程明るく笑って見せた。
「だから次の人生に期待をしてるのよわたし。こんなに頑張ってるんだもの、次はきっととっても素敵な日々が送れる筈だわ! あ、でも今も気に入ってはいるのよ? エリスちゃんやみんなに会えたし。だけどやっぱり自分の好きなことをしたいじゃない? そうなると今生じゃあ難しいから来世ってなっちゃって。ちなみにわたしはね、素敵なお母さんになるのが夢なの。あ、そうなるともちろん大恋愛は欠かせないわね。ねえエリスちゃんはわたしが結婚するならどんな人だと思う? わたしはね、やっぱり優しい人がいいなって思うの。あ! もちろん逞しい人じゃなきゃ嫌よ? わたし一度でいいからお姫様抱っこして貰いたいの」
小鳥のように話し始めたケーレスに目を瞬かせるがあまりの情報量にエリスは途中で真剣に聞くのをやめた。夢見る乙女のように瞳を輝かせながら語るケーレスがおかしくて少し笑うと心外そうに唇を尖らせる。
「あらわたしみたいなお姉さんがこんな話をするなんて変かしら?」
「……少し。だけどケーレスらしいわ」
息を吐いて目を伏せた。そして少し考えてみる、来世というものを。
「……わたしは、もし来世があるなら…またみんなと会いたい」
声に出すとなんともちっぽけな願いだが、エリスにはそれが何よりも得難いものだと思えた。
「それだけ?」
「……ええ」
「ふふ、もっと欲張ってもいいと思うけどそれがエリスちゃんだものね」
可笑しそうにケーレスは笑って飲み物に口を付けた。ことりとカップを置いて、髪と似た色をした瞳でエリスをじっと見つめる。
「エリスちゃん」
「なに」
「あんまり無茶しないでね」
眉尻を下げて物悲しげな表情で微笑むケーレスに「大丈夫よ」としかエリスは返せなかった。
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