今日も今日とて神殿では新しい神子であるタナにケーレスによって授業が開かれている。どんな授業かといえば専ら歌についてのことなのだが最近はケーレスの裁縫技術にタナが興味を持ったらしくそんなことも教えているらしい。


 だが今日は歌の時間らしく耳を澄ませると聞き慣れたケーレスの声が聞こえてくる。それに合わせるかのように一つ雫が垂れてきたかと思えばそれは瞬く間に広がり辺りを濡らしていく。


 太陽と青空の下降り注ぐ雨はまるで光が降ってくるかのようで、その光景はいつ見ても美しい。

 水を弾いて輝く草木を見ながらエリスは嘆息した。


「…しばらく戻れないわね」


 雨の音に歌声は上書きされて聞こえないが、ケーレスの力で発生したこの雨がそう簡単にやまないことをエリスは知っている。これは恵みの雨だ。

 神殿から見える街のみならず、この雨はユラの国全体を潤していく筈だ。そんな大きな力が数分やそこらでやむはずもなく、エリスは霊廟の前で立ち往生せざるを得なくなった。


 だがそれでも特に問題はない。エリスは今休暇期間中なのだ。

 メラ曰くしばらくは争いがないらしくユラの国に平和が訪れていた。


 平和であれば暇になるのが赤の神子であるエリスだ。ケーレスやメラは日常的に力を使うことでユラの国を守っているが、エリスの力はそうではない。

 戦いに特化しているエリスの歌はその場面がやって来ない限り暇を持て余すのだ。だからエリスは今日も霊廟へとやって来ていたのだが、どうやらタイミングが悪かったらしい。神殿まで距離があるわけではないが出来ることならば濡れたくない。


 それに戻っても特にすることが無いというのもあり、エリスは雨がやむまでその場に留まることを決めた。


 霊廟の入口には丁度屋根があり、雨宿りをするには最適だ。

 晴れていた空に少しずつ雲が増えて太陽を隠していく。薄暗くなっていくのに雲の切れ間から光が差す光景もまた美しくて、その光景を見るだけでエリスはどこか満たされるような心地だった。


 まだしばらく降るだろうな、そう思っていた時土を蹴る音が聞こえた。それに混ざって金属の擦れる音も届き、エリスはその方角を見た。徐々に近づいて来る人影が誰か気付くと少し心が重たくなった。

 あちらもエリスに気付いたのだろう。雨の降るなか霊廟の手前で足を止め、軽く息を乱したパーシアスが鋭い目でエリスを見た。


「……雨宿りしに来たんでしょう?」


 無言で互いを見ること数秒、先に折れたのはエリスだった。雨音に負けないようにと少し声を張って伝えるとパーシアスが入り易いようにと少しスペースを開けた。エリスに対しては野生動物のように警戒心の強いパーシアスは暫し無言だったがやがて観念したのかゆっくりとエリスの隣にやって来て、そして徐に上着を脱ぎ出した。


「な、何をしているの⁉︎」


 それに仰天したエリスは目を丸くして咄嗟に背中を向ける。

 それだけで視界に彼は映らなくなるのにエリスは両手で顔を覆っていた。


「絞るんだよ。当たり前だろ」

「知らないわよそんなのっ! 急には、肌を見せるなんて、信じられない…っ!」


 後ろからぼたぼたと大きな水の塊が落ちる音がする。自分の後ろに肌を晒した男性がいると思うだけでエリスはこの男に声を掛けた自分を叱り飛ばしたい気分だった。


 有り得ない、有り得ない! 


 エリスはずっと神殿の中で女性に囲まれて暮らしてきた。戦いの時は男性の兵士たちが周囲を取り囲むがそれだけだ。まともに会話をしたこともなければ近い距離で見る男性は殆ど全てが甲冑を身に付けている。パーシアスのようにシャツとズボンだけの身軽な人なんて街でしか見たことがないし、その街にいる男性とだってエリスはほとんど話したことがない。


 詰まるところエリスは男性というものに全く慣れていなかった。


「ただ脱いだだけで大袈裟だな神子サマは。男の裸なんて珍しくもなんともないだろ。それとも俺がゼンオウの民だからそんな反応なのか」

「はあ⁉︎ そんなの関係な、…は、早く服を着なさいこのっ…、この変態!」


 エリスは少し混乱していた。常になく動揺し、勢いのまま振り返った先にいた半裸の男性に唇を戦慄かせ叫ぶように言い慣れない悪態をつくと再び背を向けて己の迂闊さに深く深く息を吐く。


「誰が変態だ」

「あなたに決まっているでしょう⁉︎ ああもう、こんな変態だってわかっていたら雨宿りになんて誘わなかったのに…!」


 心外そうなパーシアスの言葉を跳ね除けてエリスは言いようのない後悔に唸る。

 こんなの神子らしくない。早くいつもの自分に戻らなくてはと思うのに経験したことのない感情と事態に中々落ち着かず、果てには顔に熱まで集まり始めた。


 ああなんて無様なんだろうか、こんな姿誰にも見せられないとエリスは頭を抱えて蹲りたい気分だったが己の矜持がそれを許さない。それでもなんとか落ち着こうと深く息を吸うと雨に濡れた空気の匂いがして少しだけ安堵する。

 そして心の中でこの場にいないケーレスに悪態をついた。

 そうだ元々ケーレスが突然雨なんて降らすからこんな事態になったのだ。全部ケーレスが悪いのだ。そうに違いない!


 人はそれを八つ当たりと呼ぶのだが現在のエリスにそんな真っ当なことを考える余裕なんて爪の甘皮程もありはしなかった。雨が降るだけで心が満たされていたエリスの心境は今や大混乱だ。

 早く止んでしまえと願うのに雨の音は弱まることはなくさあさあと涼やかなに草木を濡らしている。

 雨を憎らしいと思うなんて初めてだ、エリスはそう思いながら空を睨んだ。

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