最終章

 ひら、と舞う赤い花弁がエリスの足元に落ちて、吸い込まれるように消えていく。視線を上げると鏡越しの自分と目が合い、また目の前に花弁が降る。


 エリスと侍女の二人は鏡の間にいた。

 慣れた様子でエリスの服を脱がせ、そして光沢のある真紅の服が着せられていく。一枚の布で出来たその服は肌触りも良く、その洗練されたデザインがエリスは実は気に入っていた。

 金の腕輪や首飾りの装飾が終わると準備は整う。


 鏡に映る自分の姿をしっかりと見て、エリスは長く息を吐いて気合いを入れるように息を吸った。「よし」小さく呟いて手伝ってくれた侍女に顔を向ける。相変わらず顔を隠していて表情どころか顔すらもわかりはしないが、彼女が存外エリスのことを気にかけてくれているということはずっと前からわかっていた。


「ありがとう。いつも助かってるわ」


 侍女は何も答えず、今までエリスが着ていた服を持ってすっと後ろに控えた。

 いつもと変わらないその行動にエリスは笑みすら浮かべた。きっと、最後の日の朝、アテナも同じことを感じたのだろうと思いを馳せる。


「…じゃあ行ってくるわね」


 特別な言葉はかけなかった。そうする必要もないだろうと思い、エリスは鏡の間から出て歩きだした。神殿の中の空気はいつでも清廉としていて、等間隔に配置された柱の間から見える外の景色もいつもと変わらず今が平和であることを示しているようだった。


 歩く度に装飾品がしゃらりと軽やかな音を立てる。いつも通りの景色の中で唯一変わったものがあるとするならばそれだった。

 馬車の待つ場所へと進む中、エリスはふと足を止めた。そこにケーレスがいたからだ。


「…見送りはいいって言ったのに」

「もうそんな寂しいこと言わないのっ」


 まるで小さな子供を叱るような口振りに苦笑してエリスはケーレスを見た。

 いつも手入れが行き届いていて艶のある肌なのに今日は少し疲労が見えるし、何より目の下には隈があった。


「…寝てないの?」


 問いかけにケーレスは苦く笑う。


「エリスちゃんも顔色が悪いわよ」

「…これじゃあメラのこと言えないわね」


 二人は小さく笑い合って、どちらともなく腕を伸ばして抱き締め合った。


「…いってらっしゃい」


 湿り気のある声で紡がれた言葉にエリスはそっと目を閉じた。

 出来うる限りの力で抱き締め返して、唇を開く。


「いってきます」


 エリスの腕が背中から離れても、ケーレスの腕は中々離れなかった。それを咎めるようなことができる筈もなく、エリスは腕が離れるまで待った。

 そうして、きっと時間にすれば十数秒。その時間でゆっくりとケーレスの腕が離れて、二人はまた顔を見合わせた。今にも泣き出してしまいそうなのを必死に堪えているのが見てわかるのに、それでもケーレスは笑ってくれた。

 二人の間に言葉が交わされることはなかった。きっと一言でも話すと泣いてしまうだろうから。エリスはまるで水に浸かっているかのように重たい足を一歩踏み出した。

 ケーレスを追い越して、外へと向かう。


「神子様、こちらへどうぞ」


 兵士の言葉に頷いてエリスは馬車へと乗り込んだ。

 パタリと木製の扉が閉まると、まるで世界に一人きりにされたかのような孤独感が襲ってきて不安で胸が押し潰されそうになる。


 ──アテナもこうだったのだろうか。あの日、いつもと全く変わらない様子で馬車に乗り込んでエリスと談笑していたアテナも、その笑顔の裏でこんな孤独に襲われていたのだろうか。着実に近づいてくる死の足音を前に、不安でしょうがなかったのに、それでもエリスにだけは気取られまいと気丈に振る舞っていたのだろうか。


「……強いな、アテナは…」


 エリスは自分の体を抱き締めた。漠然とした不安が襲ってきて意味もなく呼吸が乱れる。今一体自分が何に不安を抱えているのか、考え得ること全てにそう感じているのかすらわからなくて、叫び出したい衝動を必死に堪えた。


 神子はいずれ力を使い果たして絶命すると聞いたその日から、いつかはこうなることを理解していた。アテナの最後を見て漠然と次は自分なのかもしれないと危機感も覚えた。だが実際に今この時が自分の最後なのだと思うと、どうしても苦しい。

 そして、どうしようもなく怖い。

 死ぬとわかっていて戦場に向かうというのはこんなにも恐ろしいことだったのかと、エリスはその時初めて実感した。


「……彼らも、こんな気持ちだったのかしら…」


 顔もわからない、エリスが無感情で屠ってきた人たち。彼らもエリスに戦いを挑む時今エリスが感じている恐怖を覚えていたのだろうか。震えが止まらず、息が乱れ、それでも死地に行かねばならない恐怖を。


 その恐怖を押し隠し一縷の望みを賭けて武器を携え走ってきた人たちを、きっとエリスを含めた歴代の赤の神子たちは涼しい顔で叩き潰してきたのだろう。

 それを思うとパーシアスの言う「悪魔」という言葉に納得が出来た。


 エリスは深く長く息を吐いた。自分の中の不安を少しでも吐き出せるように願って、肺の中が空になるまで息を吐き出した。そしてゆっくりと息を吸って、自分を抱き締める腕の力を弱める。


 エリスは前を向いた。怖くて仕方がなくて逃げ出したい気持ちも勿論あるけれど、それが出来ない性格だなんてことは誰よりも自分が一番わかっているから。

 もう何も変えられないのであれば、それならばせめて最期まで自分が信じてきた神子の姿で在り続けよう。


 それから少しして馬車が止まり、兵士が扉を開けた。

 光が差し込みエリスはそれに導かれるように外へと出て、一度立ち止まってもう一度深く呼吸をした。


「…ありがとう。兵士長はいるかしら」


 兵士の一人が返事をしてエリスに「こちらです」と声を掛けて歩き出す。

 その背中を見て、ほんの一瞬進むことを躊躇した。鉛のように重たい足を前に踏み出し、エリスは歩き出す。

 これが最期の戦場なのだと、そう覚悟しながら。

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歌姫たちに花束を 白(しろ) @shiroshirokero

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