タナの教育係は専らケーレスだが、たまに変わる時もある。

 歌い方のコツを教えるのはケーレスが適任だし、国の歴史や神子についての座学を教えるのはメラに軍配が上がる。ならエリスはなにを教えるのかと問われると戦勝の歌姫という名の通り、戦いについてだ。

 このままいくとタナは慣例通りエリスと共に戦場に立つことになる。その為の時間なのだが、どうやらタナはあまりやる気がないらしい。


「タナ、聞いているの?」


 ため息と一緒に吐き出した言葉にタナはやる気のない返事をした。


「聞いてるけど楽しくないー…」

「戦い方の話だもの、楽しい筈ないでしょう」

「ええ〜。でもでも、ケーレスのお話は楽しいよ?」

「メラは」

「……眠くなっちゃう」


 両手で頬を押さえ唇を突き出しながらムニムニと話すタナにエリスはこめかみを指先で解した。


「…楽しくないでしょうけどこれはタナには絶対に必要な話なの。頑張って理解して」

「タナ頑張ってるもん!」

「……そう。…うん、そうね。頑張ってるわね…」


 エリスは喉から飛び出しそうになる言葉の群れをグッと飲み込んでタナの言葉に頷いた。

 エリスは教えることが苦手だ。でもどうにか伝えようとは努力はしている。だがタナは難しい話を嫌う。本能的に避けては通れないとわかっているからかこうしてエリスの前にいてくれはするが、どう見たってやる気があるようには思えない。

 吐き出しそうになるため息をグッと堪えてエリスはケーレスの言葉を思い出していた。


(「タナちゃんのことを絶対に頭ごなしに怒らないこと。きちんと褒めてあげること。無理矢理知識を詰め込まないこと。きちんと待ってあげること。いいわね?」)


 もう何度も、それこそ耳にタコが出来そうな程聞かされた言葉を再度思い出してエリスは沸き立ちそうになる苛立ちを押さえ込んだ。そもそもこんな小さな子供に苛立つこと自体、己がまだ未熟である証拠だ。エリスは自分を落ち着かせるために息を吐き、すっかりやる気を失くして床に座り込んでしまったタナの下に歩み寄り、そっと膝を着いた。


 エリスがタナを教えることは少ないが授業の場所は神殿の中にある図書館だと決まっていた。理由は今までの神子たちの記録がここに残されているからだ。

 その資料を見せながら力の使い方や地形の説明などを説明するのだがタナには退屈でしょうがないらしかった。


 床に膝を着いたことで目線が近くなり、タナは恐る恐るエリスを見上げる。その瞳に少し怯えの色があることに心臓をぎゅっと鷲深みにされたような衝撃が走った。

 怖がらせている、直感的にそう思った。


「……わたしのこと怖い…?」


 だがしかしエリスには残念なことにケーレスやアテナのようなコミュニケーション能力はない。言葉を操るのが苦手で、ついストレートに物を言ってしまう。

 今回も思ったことをそのまま問いかけたことでタナがぎょっと目を丸くし、口をへの字に曲げて俯いてしまった。その様子を見てエリスの胸に重たいものが降り積もっていく。


 嫌われてしまっている。…こんなときどうしたらいいのだろうか。

 困り果ててしまったエリスに助け舟を出したのは意外な人物だった。


「タナ、神子サマが困ってるぞ」


 神殿ではあまり聞く機会のない男性の声だ。だがエリスはその声の主が誰なのか知っている。顔を向けた先にいたのは壁に背を預け腕組みをして立っているパーシアスだ。

「…だって」

「だってもなにもない。ちゃんと素直に言え」


 壁から離れたパーシアスが二人に近付き問答無用でタナを抱き上げる。

 今日はこのまま授業も終わりかもななんて思考が過り、不甲斐なさに眉を下げながらエリスも立ち上がるがちょうど見上げるくらいの高さになったタナの表情に違和感を覚えて目を瞬かせた。


「タナ」


 パーシアスが促すように優しい声音で名前を呼ぶと観念したのかタナがおずおずとエリスの顔を見る。怯えていたはずのタナの顔はどこか緊張していて、頬も赤い。

 まさか体調が悪いのだろうかと狼狽かけたエリスの耳に届いたのは想像とは全く違う言葉だった。


「…恥ずかしいの」

「……え?」

「…赤の神子さまにへたっぴって思われるのやなの」

「へたっぴ…?」


 なにを言われているのかさっぱり理解出来なくて首を傾げたエリスを見てパーシアスはこれみよがしにため息を吐いた。やれやれなんて言いそうな程大袈裟に首を振り、哀れみさえ感じさせる目でエリスを見るものだから少しむっとしてしまう。


「あんたを尊敬してるんだと、タナは」

「は?」

「ば、ばかばかパーシアスなんで言っちゃうの⁉︎ ちが、ちがわないけど、でもっ」

「いいかータナ、この神子サマはなちゃんと言葉にしないとわからないタイプだ。俺が助け舟出さなかったら今頃授業終わってるぞ」

「え」


 エリスと同じような顔で固まったタナを見てパーシアスは再度ため息を吐いた。


「…わたしのこと怖くないの?」


 タナはもにょもにょと口をむず痒そうに動かし、やがて意を決したようにエリスを見た。


「こわいなんて思ってないよ。で、でも赤の神子さまはかっこいいから…」

「かっこいい…?」

「ママがね、言ってたの。どんなことがあっても赤の神子さまがいてくれたら大丈夫だって。みんなを守ってくれるんだって。だからね、かっこいいなって思ったの」


 エリスは目をゆっくりと見開いた。胸が苦しかった。


「だから一緒にお話できるのすごくうれしいの! ……だけどこのお話楽しくない…」

「それは神子サマの教え方が下手だからだな」

「なっ」

「教え方上手いとか思ってるのか?」

「そ、れは…」


 あまりの物言いにエリスはパーシアスを睨んだが教え下手と言うのは自覚しているため口を噤むしかなかった。不甲斐なさに頭痛までしだした。

 だがそこで完全に閉口するような性格ではなくきっときつく男を睨む。


「確かに教えることは不慣れよ、そこは認めるわ。でもどうしてあなたがここにいるのよ! 他の神子の授業の時にはあなたいないんでしょ?」

「あんたが一番危険だからだ」


 空気が一瞬にして固まった。

 冷たい目がエリスを見下ろしていた。


「タナやこの国の奴らがどう思っていようが俺からすればあんたは危険だ。俺にはタナを守る責任がある。だから何かあった時すぐに助けられるようにここにいるんだよ」

「わたしがタナに何かするとでも思ってるの…っ?」


 あまりにも心外な言葉だった。そんなことは有り得ないと思わず声が大きくなる。


「神の加護とやらが暴発しないとも限らないだろ」


 嘲るような声と態度で発せられた言葉に怒りで唇が戦慄いた。

 手のひらに爪が食い込むほど強く握り、一層男を強く睨んだ。

 やはりゼンオウ国は野蛮な民だと思った。こんな発言をするから女神ユラの加護を得られないのだと怒りで握り込んだ拳が震え、その感情のまま口を開く。


「馬鹿にしないで」

「ダメー!」


 ばちん、と何かを打つ音がした。


「いってぇ!」


 続いてパーシアスの声が。

 タナの両手がパーシアスの顔を挟むように触れている。両手で叩いたのだろうか。


「意地悪ダメでしょパーシアス! なんでそんなこと言うの!」


 タナの大きく真っ直ぐな目がパーシアスを見ている。全く濁っていない目で見られたパーシアスはバツが悪そうに眉を寄せ、言葉を探しているのか視線を彷徨わせた。

 怒りで頭に血が昇っていたエリスだが、その数秒の間に幾分か冷静さは取り戻していた。そして冷静になったからこそ、パーシアスがタナには何も言えないことの理由がわかってしまった。


「パーシアスぅ?」


 タナは何も言わないパーシアスが不満なのか眉をぎゅっと寄せて頬を両手で抓る。そのまま縦に横にと引っ張りきっと整っていると部類される男の顔が面白おかしく歪むのを見て思わずエリスは笑ってしまった。

 非難の目が向けられるがエリスは構わずタナだけを見た。


「タナ、手を離してあげて」

「ええ、でもパーシアスきっと嫌なこと言ったんでしょ? さっき神子さますごく悲しそうだったもん」

「…そうね、でももう大丈夫。ところでどうしてわたしのことは神子様なの? ケーレスもメラも名前で呼ぶのに」

「だ、だって赤の神子さまはトクベツだから」

「そう。…でもわたしも名前で呼んで欲しいわ。わたしの名前はね、エリスっていうの。呼んでみて?」


 視線を左右に揺らし、困惑した様子でエリスを見る。だがその瞳が不安で揺れたわけではないというのが今度はわかった。


「……え、エリス」


 おずおずと自信なさげに紡がれた小さな声にエリスの表情が柔らかく綻ぶ。


「─うん、そっちの方が嬉しいわ」

「本当…?」

「ええ、本当」


 エリスの表情につられてタナも笑顔になった。花を思わせる明るい笑顔に目を細めていればエリスのことをなんともいえない顔で見ている人物がいることを思い出した。


「あら、そういえばいたわねあなた」


 パーシアスは不満そうにエリスを見る。なぜ喋らないのかといえば未だにタナの両手が頬の肉をつねっているからである。


「タナ、手を離して。授業を始めるわよ」

「ええっ⁉︎」


 パッと両手が離れてかわりにタナ自身の頬を包み、大袈裟に驚きの様子を見せる。


「あら、授業をやめるなんて誰も言ってないわよ。でもそうね、場所は変えましょうか」

「場所を?」

「ええ、外にいきましょう」

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