ユラの国の夜は静かだ。以前は本当に虫と夜に鳴く鳥と風が木々を揺らす音しかしなかった。けれど最近はそこに少しだけ金属の擦れる音が混ざるようになった。

 理由は明白で、アテナによる壁がなくなったからだ。


 彼女が壁を張っていた間は本当に静かだった。そこに生命があるのかと疑いたくなる程の無がそこにはあった。あの静寂は異様ではあったけれど、あれがアテナの生きている証だと思う今なら恋しくて仕方がない。


 エリスは海の見える通路の突き当たりで外を見ながらそんなことを考えていた。

 月が水面に反射していて一本の光の道が出来ている。たまに吹く風が表面を揺らしているのかたまに線がぶれているのを見ることが出来るが、さすがに波の音までは聞こえない。


 高台に建てられている神殿からは壁の外がよく見える。

 いつかメラとケーレスがたまにここからエリスたちが戦っている姿を見ていると言っていた。見ているといってもあまりに遠くて人の形なんてわからないとも言っていた。


 確かにここからだと人の姿なんてわからないなとエリスは思った。

 夜も遅く神殿の通路を照らすのは月明かりと松明の炎だけ。今日はどうも寝付けずこうして外に出てみたが、かえって頭が冴えてしまったなと小さく息を吐く。


 眠れない理由には心当たりがあった。今日のタナとの授業だ。

 なぜだとタナに問われたパーシアスの表情、そしてなんの疑問も抱かず真っ直ぐに何故だと突きつけたタナの表情、それらがエリスの頭をずっと悩ませている。

 否、悩ませているのではない。エリスはこの感情を解決させたい訳ではないからだ。


 それに今エリスの胸中に渦巻くこの感情には答えなんてきっと出ない。出たとしてもその答えはきっと夢物語に違いないからだ。


「……はあ」


 ずきりと鈍く痛むこめかみを指で押さえ、エリスはため息を吐いた。


「おい」

「⁉︎」


 驚き過ぎると人は声も出ないというのをエリスはその時初めて知った。

 バクバクと弾けてしまうのではと思うほどなっている心臓を押さえるように胸元に手をやって振り返るとそこにいたのはここ最近ずっと頭を悩ませている張本人であるパーシアスで、エリスは二重に驚いた。


「…何をしているの」

「…散歩だ」

「足音なんてしなかったわよ」

「そういう風に歩く癖がついてるんだよ」

「……そう」


 エリスは息を吐き、胸から手を下ろした。


「…あんたは何をしてるんだ」

「……散歩よ」

「こんな時間にか」

「あなただってそうでしょ」

「俺は男だから構わないが、あんたは女だろ」

「ここにわたしを襲う人なんていないわ」


 視線を海に戻すと少し空が暗くなっている。月に雲がかかっているらしかった。


「……前」


 しばらくの無音の後、パーシアスが小さな声をこぼした。日が出ている頃ならきっと聞き逃してしまいそうな音だが、この静けさの中ならよく聞こえた。

 エリスは顔を向けた。けれどパーシアスの視線は外に向いている。


「あんたは俺に憎くないのかって聞いたな」


 霊廟の前でのやりとりを思い出しエリスの心に少しもやが掛かる。「ええ」と同じように小さな声で返すとパーシアスの顔がこちらを向いた。月の光のようにも見える明るい瞳と視線が重なり、エリスはどきりとした。


「あんたはどうなんだ」

「…どうって?」

「俺たちが憎くないのか」


 心が一つの湖だとするならば、今エリスの湖は荒れている。絶対に荒れてはいけない事柄に対して水面には白波が立ち、暗く濁っている。エリスはその問いに対する神子として言葉なら持ち得ている。だがエリスとしては、その答えを持ち得ない。

 どう、答えろと言うのだろうか。


 その迷いを感じ取ったのか、パーシアスの表情が歪んだ。辛そうな、何かを思い悩む顔だと思った。

 だがその表情からふと力が抜けて、パーシアスが息を吐いた。

 思いも悩みも全てを吐き出すかのような息だった。


「…分からないのか」


 静かに呟かれた言葉にエリスは声を出すことも首を振ることも出来なかった。

 だがその沈黙が肯定とみなされてもしょうがないとも思っていた。


「……俺もだ」

「…え…?」


 視線が外れ、パーシアスは海を見た。水平線の向こうにあるという故郷を見ているのか目を細めている。


「…憎むべきなんだろうな、この国も、あんたも。タナだって。散っていった同胞を思うとそれが当然の筈なのに俺はわからなくなった」


 エリスよりもずっと大きくて厚い手が短い金髪をぐしゃぐしゃと乱す。

 それ以降パーシアスは口を開かなかった。


 月を覆う雲が厚くなり辺りは更に暗くなる。周囲を照らすのは松明の明かりだけとなり、彼の目には水平線も見えなくなっただろう。その薄暗闇は二人の心境を表しているようだった。


 終わりの見えない暗闇、もがきあがいても終わらず繰り返される歴史。

 この松明の明かりは虚構だ。本物の灯りではない、仮初のもの。まるでユラの国のようだと思った。


 大国の脅威を前に、神子という神の力を得た人間によって作られたあまりにも儚い幸せ。風前の灯火とはよく言ったものだと思う。きっとこの男もそれに気付いている筈だとエリスは思っている。

 だからこそ悩んでいるのだ。


「……ゼンオウ国って、どんなところなの?」

「…それを聞いてどうする」

「わからないわ。…でも、聞いておかないといけない気がする」


 パーシアスが体ごとエリスに向け、真意を図るようにじっと見下ろす。

 やがて諦めたのか口を開く頃には視線も外れ、また暗い海の方角を見ていた。


「……都はここと似ている。だが貧しい場所もたくさんある」

「うん」

「大抵のところは似ているが文化は所々違いがある。一番の違いは崇めているのがゼンオウ神じゃないところだな。…この国ではゼンオウ神自体が悪神といわれているのには驚いた」


 意外にもパーシアスは様々なことを教えてくれた。中には信じられないような話もあってエリスは驚きに目を見開く場面もあった。

 そうして話してみてわかったことは、互いに互いの国を誇りに思っているということ。互いの文化やそこに住む人々を愛し、守りたいと思っているということ。


 パーシアスに至ってはエリスのように選ばれた訳ではなく自ら志願して騎士になったのだからその意思も強いものだった。騎士のことを語るパーシアスの表情は心なしか明るく楽しそうで、エリスはそんな横顔を見てまた胸がつきりと痛んだ。


「…それなのにタナを助けてくれたの?」


 その言葉にそれまでの表情が一転して暗くなり、それに合わせて空気も重たくなる。


「……子供を殺すために騎士になったんじゃない。…もうゼンオウの騎士じゃないが、代わりにタナの騎士になった。それで充分だ」


 自らに言い聞かせるように紡がれた言葉はしっかりとエリスの耳にも届き、やがて余韻は夜風に攫われる。二人はそれからも取り留めもない話を続け、眠れない夜の時間を共有した。


 お互いに視線を交わすことも笑い合うこともないが不思議とその空間が辛いものだとは思わなかった。むしろパーシアスと話すことは楽しかった。

 知らない知識を得られること、自分と似た年齢の男性が思うこと、男女の違いなどが知れてエリスは楽しかった。

 そんな時間が終わりを告げたのはエリスが欠伸を噛み殺した時だ。


「……そろそろ戻れ。明日もタナに教えるんだろ」

「…そうね。…話が聞けて良かったわ」


 いつの間にか晴れていた夜空には月が浮かんでいる。はじめに見た位置から変わっていることにそれなりの時間が経過していることに気がついてエリスも頷き、パーシアスの方を見た。


「…おやすみ」


 そんな普通の挨拶もパーシアスからされるとなんだか不思議でエリスは口元を少し緩めた。


「おやすみなさい、パーシアス」


 そうして二人は別れ、深夜の雑談は終わりを告げた。

 自室に戻り寝台に横になったエリスは緩やかにやって来る睡魔を感じながらパーシアスのことを思い浮かべていた。

 想像よりもずっと優しい人なのかもしれない。そう思いながらエリスは目を閉じ、睡魔に身を任せて眠りの世界へと落ちていった。

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