再びゼンオウ国が攻めて来ていつものように蹴散らして神殿に帰って来たある日のこと、エリスを迎えたのはかつてない程険しい顔をしたメラだった。


「見つからない」


 主語のないその言葉が何を示すのかが分からずエリスは神殿の前で首を傾げた。


「…何が?」

「白の神子が」


 俄には信じ難いその言葉にエリスの目はゆっくりと見開かれ、そして驚愕に言葉を失った。


「……予言が、外れた…?」


 やっと絞り出した声で聞くとメラはいつもの無表情に少しだけ緊張を乗せたような顔でエリスを見る。

 そのことにエリスは僅かに混乱した。メラ、黒の神子の予言に歪みが生じたことが初めてだったからだ。

 女神ユラの加護を受ける一人、吉兆の歌姫は歌うことで未来を知りそれを周囲に伝え導くことでこの国を幾度も救って来た。長い歴史の中数え切れない程戦いを仕掛けてきたゼンオウ国の兵士がユラの国の内部へと攻め入れていないのは、ほとんどの戦いを黒の神子が未来を知り先手を打って来たからだ。


 黒の神子には視えない未来はないという。

 だからこそアテナは自らの死期をメラに聞いていたし、先程も無事に戦いを勝利という形で収めることが出来た。それらは全て黒の神子であるメラの力だ。

 メラの力は四人の神子の中でも特に特殊で絶対だ。少なくともエリスはメラの予言が外れた場面をただの一度として見たことがない。今までずっとそうだった。


 まるでメラが全てを操っているのではないかと思う程正確に、全てが予言通りになっていた。

 だがそれが綻んだことにエリスは驚きが隠せなかった。

 そんな張り詰めた空気の中、メラがそっと口を開く。


「外れてはない」


 その言葉にエリスの混乱は更に深まる。


「…どういうこと?」

「拐われた可能性が高い」

「⁉︎」


 予想だにしなかった発言にエリスの目は再び見開かれた。


「次代の神子の所在が漏れたのかもしれない」

「…まって」

「それ以外考えられないんだよ、エリス」

「神子様方」


 張り詰めた空気を裂く無機質な声にエリスはハッとして声の方に視線を向けた。そこにいるのはエリスの侍女で、相変わらず顔は見えない。


「中へ」


 短く告げられた言葉にどちらともなく息を吐き出して「入ろう」メラが呟きエリスが頷く。それを聞いた侍女たちが二人を先導するように歩き出し、神殿の中へと足を踏み入れた。


 神殿の中は相変わらず静かで人の気配もあまり無い。けれど今日に限っては底しれぬ緊張感が漂っているように思えた。普段ならそのまま浴室に向かうところだが、歩いている最中メラから「こっち」と促されて向かったのは緑の神子であるケーレスの部屋。


 神殿には神子の部屋がそれぞれ用意されている。メラとケーレスの部屋は近いがそれと対極の位置にあるエリスの部屋は遠く、こちら側にまで足を伸ばすことは滅多にない。


 約十年もいる場所だというのに見慣れない場所のような気がしてメラの後ろを歩きながら少しだけ目線が移ろう。だが景色はどこも似たようなものだし、今は景色に集中するような気分にもなれずすぐにメラの背中に視線を戻した。

 歩く度にサラサラと揺れる真っ直ぐな黒髪がある部屋の前でぴたりと止まり、細く白い手が扉を叩いた。


「ケーレス、来たよ」

「はーい、今開けますよー」


 どことなく冷たい印象のあるメラとエリスの声とは正反対の温かみのある柔らかな声が扉の向こうから聞こえた。数秒とせず扉が開き中からケーレスが顔を出すとメラとエリスを順番に見て笑みを浮かべた。


「おかえりなさいエリスちゃん。メラちゃん、ちゃんとおかえりなさいって言ったの?」

「……言った」

「あー、その顔は言ってないわね? だめでしょう、ほらちゃんとおかえりなさいって言って」

「け、ケーレス、わたし気にしてないから…」


 メラの顔は見えないが今とても苦い表情を浮かべているというのは空気でわかる。

 おずおずとフォローに入ったエリスだったが、そうするとケーレスの矛先は当然エリスに変わる。


「ダメよ。絶対に挨拶はするの」


 常に笑顔で緩やかな雰囲気を纏っているケーレスだがこういう時は誰よりも厳しく、そして絶対に折れない。それを知っているからか一度食い下がってダメだった場合二人が取る選択肢は決まっている。


「…おかえり、エリス」

「…ただいま、メラ」


 重たく振り返ったメラの顔は無表情だが口角がいつもより下がっていることに気がついた。その顔から紡がれた言葉は案の定固いが、それはエリスも同じようなものだった。

 二人の微妙な空気を一切気にしないケーレスはきちんと挨拶が交わされたことにご満悦といった表情を浮かべてうんうんと二回ほど深く頷きそして手を叩いた。


「はい、いい子ねー。 エリスちゃん、わたしにはただいまって言ってくれないの?」

「……ただいま、ケーレス」

「良い子ね」


 にこにこと微笑むケーレスに引き攣った笑みを返し、そしてようやく二人はケーレスの部屋へ入ることを許された。侍女は入って来ず、扉の前で待機している。

 神子の部屋の作りはどこも似たようなもので別段珍しい物はない。ただ神子にも趣味があるため多少の違いはある。例えばメラの部屋には本が沢山置いてあるし、ケーレスの部屋には裁縫をする為の道具や布が多く見られる。アテナに至っては部屋に物が溢れていた。


 そしてエリスの部屋にはほとんど物がない。よく来ていたアテナからは「つまんない部屋」だなんて酷いことを言われていたが、つまらない部屋であることは間違いないため何も言い返せなかった。


「さあ座って? エリスちゃんすぐにお風呂に入りたいだろうけど、ちょっとだけ我慢してね?」


 木製のテーブルの上にはケーレスが作ったテーブルクロスが敷かれていて、その存在が白を基調とする室内に彩りをもたらしていた。

 予め用意していたらしい飲み物を容器に注ぐケーレスに、静かに椅子に腰を下すメラ。穏やかな日差しに時折風が木々を揺らす音まで聞こえる室内はなんて穏やかなのだろうかとすら思う。けれどエリスの胸中には一抹の焦燥があった。


「…ねえ」


 三人分の飲み物を容器に注ぎ終わりそれぞれの前に置いたケーレスが席についたタイミングで声を出す。すると二人の視線がエリスに向いたが、その瞳にはエリスと同じように不安の色が滲んでいるのがわかった。


「…困ったことになったわね」


 眉を八の字に下げて言葉通りの表情で呟いたケーレスはその不安を紛らわすように飲み物を一口だけ口に含んだ。


「…メラちゃん、場所はわかった?」

「わからない。外に連れて行かれたかも」

「ゼンオウ国に…⁉︎」


 衝撃的な言葉に思わず立ち上がりかけたエリスをケーレスが視線で制する。エリスはぎゅ、と奥歯を噛んで椅子に座り直した。


「…ゼンオウ国かはわからない。けどユラの国からは完全に出ていると思う、何もわからないから」

「…わからないって…」

「私の力はユラの国の中で起きることしかわからない。一歩でもその外に出たら何も視えないんだよ」

「じゃあどうして拐われることがわからなかったの?」

「エリスちゃん」


 語気を強めたエリスをケーレスの鋭い声が宥める。


「…それは油断としかいえない、ごめん」

「メラちゃんが謝ることじゃないわ。こんなの誰にも予想出来ないもの」


 ふー、と深く息を吐いたケーレスが整えられた指先でこめかみを押さえた。


「…まさかこんなことになるなんて」

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