「エリスちゃん!」


 馬車が神殿に到着し、一番にエリスを迎えてくれたのはケーレスだった。

 緩やかにうねる緑の髪を揺らしながら駆け寄る姿をきちんと認識するよりも早く抱き締められるとケーレスの豊かな胸がそのまま顔にぶつかる。


「うぐっ」

「おかえりエリスちゃん! よおくお顔を見せて? ああこんなにやつれて、ちゃんとご飯食べてたの? 眠れてた? 兵士の皆さんとちゃんと仲良くできてた?」

「ケ、ケーレス…っ、今わたし汚いから…っ」

「ええ、そうかしら?」


 エリスより背も高く女性らしい丸みを帯びたケーレスが離れようともがくエリスを難なく抱き締めて髪に鼻を寄せ、そのことにギョッとしたエリスがわなわなと唇を震わせていたところに呆れ気味の声が割って入る。


「ケーレス、デリカシー」

「あらメラちゃん」


 声の通りの表情をしたメラが侍女を引き連れてケーレスを見ている。

 少し力が緩んだ隙になんとか腕の中から逃げ出したエリスはほっと息を吐き出して二歩程距離を取って二人を見た。少し離れたことであからさまにケーレスは寂しそうに眉を下げ、メラは相変わらずの無表情だ。

 けれど二人とも心なしか痩せた気がする。


「……ただいま」


 エリスが小さな声で呟くとケーレスは泣きそうな顔で微笑んだ。


「おかえりさなさい、エリスちゃん」

「…おかえり、お疲れ様」


 いつの間にかエリスを乗せていた馬車はいなくなっていてその場にいるのは三人と数名の侍女だけだった。

 「お風呂にしましょっか」とケーレスが提案し、エリスはすぐに頷いた。戦いのあった数日間エリスはまともに入浴ができていないからだ。その言葉にいち早く行動を起こしたのはメラの後ろに控えていた侍女たちで「神子様、こちらへ」と促される。


「ねえエリスちゃん」


 歩き出したエリスを呼び止めたケーレスは何故かメラの肩を持っている。


「一緒に入っていいかしら?」

「え」

「は?」


 エリスとメラの声はほとんど同じタイミングで出ていたが返事をしたことで了承とみなしたらしいケーレスがとても綺麗に微笑んで「ありがとう」とお礼を伝え、未だ困惑しているメラの方を握ったまま歩き出す。あっという間にエリスを追い越して浴場の方向へと足を進める背中を呆然と見ていたエリスだったがはっとして後を追い掛ける。


「わ、私は入るなんて言ってない…っ」

「寂しいこと言わないでメラちゃん、たまには姉妹水入らずしましょ」

「うわ、うわあああ」


 神子の中で一番背が高く嫋やかで女性らしい曲線を描いている柔らかな体つきをしているケーレスだがその実一番の怪力の持ち主でもある。渋って前に進もうとしないメラを軽くひょいと抱き上げて風のような軽やかさで歩みを進める姿は勇ましくもある。


 メラの情けない声が尾を引くように曲がり角に消えていき、エリスは呆れたように息を吐くと自分も浴場へと向かう。

 目的地に到着し、既にケーレスによって服を剥かれていたメラは我先にと中に入ってしまったようでその場にはおらずケーレスがいるのみだった。二人と違って戦装束のままのエリスは脱ぐのに手間が掛かるため侍女が手伝うことになっている。「先にはいってるわね」ケーレスも湯煙の中に消え、装飾が全て外されたエリスのドレスに手が掛かる。


 一枚布から形成されているそれは要の部分を解けばさらりと重力によって真下に落ち、エリスの白い肌が露になる。侍女たちは三人が着ていた服を拾い、音もなくその場を後にした。

 すると奥から聞こえる湯の落ちる音だけがやけに鮮明に聞こえてきて急に静かになる。

 その静寂に少し物悲しさを感じ始めたとき、奥から悲鳴が聞こえた。


「いやだああああああっ」

「もうメラちゃんワガママ言わないのーっ!」

「一人で出来る! 子供じゃないんだよ私は!」


 滅多に聞くことの出来ないメラの荒れた声に何事かと湯気の立ち込める浴室内へと足を踏み入れるとそこには背後からメラを抱き締めているケーレスと、顔を必死の形相に歪めてもがいているメラの姿がありエリスは目を点にした。


「エリスちゃんもあとで髪の毛洗ってあげるねー?」

「え、いや、それくらい自分で」

「ダメダメエリスちゃんも疲れてるんだからお姉さんに任せなさい」

「なら私はいいよね。 離してケーレス」

「それとこれとはべーつ。はいはいメラちゃんもキレイキレイしましょうね」

「だから! 私は子供じゃない…!」


 ケーレスは神子の中で一番年齢が上で身長も一番高い。メラと比べると頭一つ分以上は違うため遠目から見たら親子に見えなくもないがメラはああ見えても二十歳を超えている。エリスより三つ上のメラがケーレスによって髪どころか全身を隈なく洗われているのを見てエリスは慌てて自分の体を擦り始めた。


 早くしなければメラと同じ辱めを受けてしまう。

 それだけは回避しなければならない。絶対にだ。

 そう強く思いながら体を擦っていたエリスの方に柔らかな手がそっと乗った。

 ギギギ、とぎこちなくそちらに顔を向けたエリスは次の瞬間には「ひっ」と短い悲鳴をあげて硬直してしまった。


「エリスちゃん…」


 とても柔らかく、美しい笑顔のケーレスを前にエリスはただ頷くしか出来ない。

 視界の隅の方では散々な目にあったメラがお湯に沈んでいるのが見える。


「そんなに強く擦ったらダメでしょう? お姉さんが優しくしてあげるね?」

「い、いや、わたしも一人でできるから…っ」

「はーい、キレイキレイしましょうねー?」

「ゃ、きゃあああっ!」


 浴室にはエリスの高い悲鳴が響き、その中をケーレスの楽しそうな笑い声が泳ぐ。嫌だ嫌だと首を振るエリスの全てを無視してケーレスの手は優しく、だが容赦無くエリスの肌という肌を磨き上げ髪すら清めていく。そうしてどれ程の時間が経っただろうか、エリスは疲労困憊といった様子でお湯に全身を投げ出した。


「……お疲れさま」

「…メラも…お疲れさま…」


 隣にいるメラはそんなエリスの様子を見て労いの言葉をかけるが、メラの表情もエリスと同じくらいに疲れ果てている。

 そんな二人とは対照的にケーレスの機嫌良さそうな鼻歌が響き、その音に二人して息を吐き出す。

 戦場にいるよりも疲れたかもしれないなとエリスは遠い目をした。


「……アテナがいたらもっと疲れてただろうね」


 意外だった。エリスはゆっくりとメラを見たが、その横顔からは何を考えているかわからない。けれどエリスにとってメラからその話題が出ることはとても意外だったのだ。


「…そう、ね」


 意外すぎて変な場所で言葉が途切れ、妙な沈黙が落ちる。その間もケーレスの鼻歌と湯の落ちる音は流れ続けた。


「……次の白が見つかった」


 エリスは息を呑んだ。


「一昨日かな、わかったの。今は兵士たちが迎えに行っている筈だよ」


 どう返したらいいかエリスにはわからなかった。

 メラの言葉の意味はわかっているつもりだ。頭では理解できていても、心が納得してくれない。無意識に止めていた息を吐き出してエリスは深く呼吸した。


「…白だけど、別人だから」

「そんなの、わかってるわ」


 思わず突き放すような言い方になってしまい、エリスの中に嫌な感情が一つ落ちて来る。黒い埃のようなそれが腹の奥に一つ落ちて、失くすためには「ごめん」と一言謝ればいいのにエリスにはそれがうまく出来ない。一度口から出た言葉を訂正することがエリスには難しくて、毎度それをカバーしてくれていたのはアテナだった。


 けれどそのアテナはもういないのだ。その証拠には見つかってしまった。もう完全にアテナという存在はいなくなってしまったのだと、エリスは打ちひしがれるような思いだった。


「エリスちゃん」


 いつの間にか鼻歌は止んで、エリスの隣にケーレスが体を沈めた。穏やかな声で名前を呼ばれ、エリスはそっと視線を隣に向けた。


「覚えている限り、その人は死なないわ」


 暖かくて柔らかな手がエリスの今にも泣きそうに歪んだ顔の輪郭をなぞって、優しく頬を包んだ。


「ずっと覚えていたらいい。彼女たちは死んでなんてないの、だってわたしたちの中にはきちんと思い出があるんだもの」


 もう実際にアテナはいないのに、目の前で命を散らした瞬間を見届けていたのに、そこを探したっていないのに。ケーレスの言葉を「そんなの綺麗事だ」と一蹴することがエリスには出来なかった。だって、

 ケーレスはもう、何度も経験しているのだ。


「…受け入れるのには時間が掛かるわ、でもそれは悪いことじゃないの。それだけエリスちゃんの中でアテナちゃんが特別だったってことだから。心の整理をつけることを怒る人なんていないわ。エリスちゃんはエリスちゃんのペースで受け入れていけばいいの」

「…二人は」


 少しの沈黙の後、絞り出した声は掠れていた。

 ケーレスは首を傾げ、メラの視線がエリスに向く。


「…二人は、すぐに受け入れられた…?」


 エリスの頬を包んでいた手がそっと離れて、懐かしむように目を細めた。


「すぐなんて無理だったわ。私が受け入れられたのは次の子が来てからね。何が起きているのかわからない、そんな顔をしている子を見たらいつまでも悲しんでいられないって思ったの。ね、メラちゃん」

「…私に同意を求めないで」

「でもあの時のメラちゃん子猫みたいだったわよ?」


 楽しげに笑うケーレスにうんざりしたようにメラが息を吐いた。


「……私もケーレスと同じ。私の場合は黒の神子になった次の年にアテナが来たからいまいち実感が湧かなかったけど、エリスが来た時はしっかりしなきゃって思ったよ」


 その言葉にエリスは自分が神殿に来た日を思い出した。

 そう広くはないユラの国の中でも辺境の地にあるエリスの家に夥しい数の兵士がやって来てただ一言「赤の神子様、お迎えに上がりました」とだけ告げられて理解も何も出来ないまま連れて来られたあの日。


 自分が神子である実感なんてある筈もなく、これは何かの間違いじゃないのかと何度も思ったし何度も兵士に聞いた。けれど答えは返ってこず、無言のまま馬車は進んで両親から何度も聞いたことのある女神の神殿の前でようやく止まって降ろされた。相変わらず兵士は口を聞いてくれなかったし、言うことを聞かなければ怒られるかもしれないという恐怖でどうにかなりそうだったのを覚えている。


 そんなエリスを迎えてくれたのがメラたちだった。その中でも一番に声を掛けてくれたのがアテナだった。


 ようこそ末っ子ちゃん、そんな言葉で歓迎してくれたのを覚えている。


 最初こそ戸惑っていたが、今思えばあの時の三人の空気のおかげで当時の自分は随分と救われていたように思う。

 今度はそれをエリス自身がしなくてはいけないのだ。


「…しっかり、できるかな…」


 ぽつ、とこぼした声にケーレスは柔らかく微笑んでメラは何も言わなかったけれどそれが答えなのだと思った。

 ケーレスがそっとエリスを抱き締め、メラがエリスの背中に寄り掛かる。

 エリスってば泣き虫じゃんウケる。その声が聞こえないのがどうしようもなく寂しい。


 だけど今日だけは泣くのを許して欲しかった。

 アテナの死を受け入れる為に、次の白の神子が、きっとかつての自分と同じように不安の只中いる筈の子供がその不安に押し潰されないように、笑顔で迎え入れることが出来るように。


 どうか今だけは泣かせて欲しかった。

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