「敵の数は?」


 街を守るように建てられた頑健な壁の上にエリスはいた。

 風が吹きエリスの赤い髪と服を揺らし、それはさながら炎のようでもあった。


「や、約三千かと!」

「…そう、今回は多いのね」


 壁の上から見下ろす先にいるのは自軍の兵士たち。今日は以前とは違いしっかりと武装をして隊列も組み、武器を構えていた。

 その理由は単純で、もう守ってくれる盾がいないからだ。

 アテナ白の神子がいれば隊列も武装も必要がない、何故なら全ての攻撃を防ぐことが出来るから。けれどその存在がいないとなるとそうもいかないのか、やけに鬼気迫った様子で隊長格の男が声を張り上げるのをエリスは無表情で聞いていた。


「…こんな風になるのね」

「え、神子様、今何かおっしゃられましたか?」

「なんでもないわ」


 エリスは自軍の兵士たちが戦おうとしている姿を初めて見た。

 敵軍を嘲る以外で声を張り上げている様子を初めて見た。

 嗚呼なんだ、こいつらも戦うことが出来るのかと、エリスはその時初めて知った。


「! 神子様! ゼンオウ軍見えました!」


 その声にエリスは下げていた視線を上げる。太陽の光を反射して輝く海に大きな船が浮かんでいるのが見える。それが既に何隻も海岸に到着しているのも、僅かだが肉眼で確認することが出来た。


 海岸のすぐ側には鬱蒼とした森がある。その森から武器を持った人間が大挙して押し寄せて来るのをエリスは見ていた。

 いつも見ていたのはアテナの防御壁越しの景色だったが、その壁が一枚無いだけで敵軍の声や音が近くに感じる。あれほど遠くに感じていた人間というものを、エリスはこの時初めてきちんと認識した気がした。


 けれどエリスの感情は一切揺らがなかった。

 やることはいつもと変わらない。ただ少し、範囲が広くなるだけ。

 今まではアテナのおかげでギリギリまで敵を引き付けることが出来ていたが今となってはそんな悠長なことはしていられない。土地への被害を最小限に止めようと待っていれば自軍の兵士が死に、そして遠距離攻撃によってこの壁に砲弾が叩き込まれるだろう。

 そうして壁が崩れてしまえば目も当てられないような被害が出る。それだけは食い止めなくてはいけない。


 だがそんなものは今のエリスにとってはただの大義名分でしかない。


 すぅ、と息を吸い、声を出す。

 途端に周囲に赤い粒子が舞いどこからともなく音が鳴り、エリスの背後に複雑な紋様が描かれた円系の陣が無数に現れた。その一つ一つが淡く発光し、エリスの声が消えた頃にその光も消え失せる。


 そしてもう一度深く息を吸い歌声を発した瞬間、陣は禍々しいまでの光を放ち重低音が空気を揺らした。

 戦勝の歌姫、赤の神子と呼ばれるエリスの歌は戦いに特化している。むしろそれしか出来ないと言ってもいい。だが荒々しい印象を持たれやすいエリスの音はそのあざなとは違い意外にも繊細だ。


 その音楽の中をエリスの歌声が走り、エリスの細い指先が遠くに迫るゼンオウ軍を横に払った瞬間爆風が吹き荒れる。端から地面が抉れ爆音と豪炎が立ち昇った。先程まで殺気立っていたゼンオウ国の怒号が恐怖のそれへと変わるがエリスの歌は止まらない。


 そのまま目線を海に向け遠くに見える船も同じように塵へと変え、そうだいっそのこと隠れる場所も消してしまえと森を焼き尽くそうとしたところで味方から制止の声が掛かったがエリスは歌うことをやめなかった。ゼンオウ国の全ての戦艦を燃やし尽くすまで、兵士の最後の一人が絶命するまでエリスは歌い続けた。


 森は炎に包まれ、地面は天変地異でも起きたのかと疑うほど抉れ、海には船の残骸が浮いている。地獄のような光景を作り出したエリスは漸く歌うことをやめ、それと同時に浮かんでいた陣も消えて辺りは不気味なほどの静寂に包まれた。

 エリスは能面のような顔で自らが作り出した光景を見た。

 その日の歌に余韻は無かった。



 そしてその日から再び思い出したようにゼンオウ国からの攻撃が始まった。

 どれだけ船を沈めようと数千の兵を滅ぼそうと間隔を開けず敵軍が攻めて来てエリスはその度に応戦し、その度に勝利を納める。


 戦勝の歌姫の勝利を信じて疑わない住民達は歌声が聞こえる度に歓声を上げ、エリスの姿が見える度に祈りを捧げた。幾度目かわからない戦いが終わり壁の上で海を睨んでいたエリスの下に一人の兵士がやって来る。その兵士が告げたのは黒の神子からの予言だった。


「お伝えします! これより七日はゼンオウ国が攻めてくることはないそうです! お戻りください、神子様!」

「……そう。ありがとう」


 メラの予言は何よりも正しい指針となることを全員がよく知っていた。

 エリスはその言葉に静かに頷いて今も尚太陽の光を反射して黄金に煌めく海に背を向けて戦場から離れた。予言は既に街中に広まっているらしくエリスが乗った馬車の外からは賑やかな声が聞こえてくる。

 その中には勿論エリスへの感謝の言葉が多かったが、中にはこんな言葉もあった。


「いくら掛かって来ようが女神ユラの加護がある限りゼンオウ国になんて負けねえさ」

「神に戦いを挑むなんざ阿呆のすることだね」

「そいつは違いねえ!」


 戦場でも似たような言葉をよく聞くなとエリスはぼんやり思っていた。

 木で出来た車輪が回転して道を進み、舗装されているといっても振動はそれなりにあって尻が痛む。時折小さな小石を踏んで馬車が浮いた時なんてそれはもう。舌を出していたらきっと千切れてたよ、そう言ったのは誰だったか。


 そんなのは一人しかいないのにとエリスは自嘲気味に笑った。

 悲しくなるくらい静かな馬車の中でそっと俯いて膝の上に置いた手でグッと拳を握る。


「…こんなに、静かになるんだ」


 エリスがいなくなってからゼンオウ国との戦いは全てエリスの圧勝という形で終わった。やってきた軍勢は完膚なきまでに叩き潰した筈なのに、エリスの胸中は晴れるどころか余計に重たく澱んでいた。息をするのも苦しいと、揺れる馬車の中で奥歯を噛み締めた。

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