エリスが目を覚ましたのは戦いが終わって三日目のことだった。


「体調はどう?」


 その日の夕方に訪ねて来たのはメラだった。正確にはエリスが部屋に呼んだのだ。


「あまり良いとは言えないわね。体に重しがつけられているみたいよ。一歩歩く度に地面に足が嵌まり込みそうだと思うくらいに」


 柔らかなオレンジ色の光が室内に差し込み、それが眩しくて双眸を眇めているとエリスの向かいに腰を下ろしたメラが部屋の中を見渡した。


「相変わらず物がないね、この部屋は」

「何を持てば良いのかわからなかったから。それに趣味といえるものもなかったし」


 エリスの部屋は良くも悪くも質素だ。一般的な家庭からしたら贅沢な作りにはなっているが物はほとんど置かれていない。娯楽と呼べるものをエリスはほとんど嗜んでこなかった。来る日も来る日も歌のことばかり考えていたような気さえする。


「メラは本が好きだものね」

「そうだね。私にも趣味はそれくらいしかないから」


 二人の間に沈黙が落ちた。けれどその沈黙を苦しいと思ったことは出会ってから今まで一度もない。エリスはメラの作り出す清廉とした空気が好きだった。メラの全てを見通すような目には何度も肝が冷えたし、残酷な程的確な予言に腹が立ったこともあったけれど今はそれら全てに感謝している。


「…痩せたね、エリス」

「食べられなかったの。疲れがずっと抜けないのもあるけど、自分のしていることが本当はとても罪深いものだったんじゃないかと思ってとても食事をする気分にはなれなかった」

「……戦うこと?」


 メラの真っ暗な目がエリスを見る。黒一色なのに光の当たり方で宝石のように輝くそれが言葉の本質を見透かすように眇められた。

 指通りの良さそうな目と同じ黒い髪がそよいだ風に撫でられてさらりと揺れる。その黒に、深い赤の花びらがひらりと落ちた。


「…メラ、聞きたいことがあるの」


 自分でも不思議なほど心が凪いでいる。

 花弁ははらはらと舞うけれどどこにも積もることはなく、いつの間にか消えてまた新たに生まれる。幻想的とも取れる光景を目の当たりにしながら表情を固くしたメラを見た。


「わたしはあと何回歌える?」


 メラの目が見開かれて、ぎゅっと表情が歪んだ。唇を歪に曲げて目に力を入れたその表情を見るのは二回目だ。

 ああ、今度は自分がその顔をさせてしまった。

 申し訳なさに眉尻が下がるけれどエリスは目を逸らさなかった。ただ真っ直ぐにメラを見て、言葉を待つ。


「…っ、…はやすぎるでしょ…」


 やがて落とされた言葉は短くて、声は千切れそうなほど掠れていた。


「…無理をしたから」


 エリスは意識を失う前のことを思い出していた。

 あんな広範囲で、尚且つ高威力の歌を使ったのは初めてだ。あの時のエリスの頭の中には自分自身でも知らなかった曲が流れていた。それをなぞるように歌い、衝動に導かれるままに全てを消し去った。


 今まで自分が行使していた物が紛い物に思える程、あの時の歌には力があった。

 まるで本物の女神のような力、それを行使した代償にエリスはきっと大きく命を削ったのだろう。エリスの体は、きっともう限界なのだ。


「でも後悔はしていないわ。無理をしたから守れたんだもの」

「……、…ああ」


 吐息のような、ため息のような、もしくは泣いているような。そんな息混じりの声を絞るように漏らしたメラはやり場のない感情を堪えるように何度もかぶりを振った。


「…ねえメラ、許されないことを言ってもいい?」


 薄く水の膜が張った目でメラがエリスを見る。それを肯定だと捉えて口を開いた。


「タナに歌えるようになって欲しくないの」


 瞳がゆっくりと開かれ、丸い黒目が見える。そして何かを言おうとして口を開き、けれど言葉が見当たらなくて閉じる。そんなメラの様子を見てエリスは瞼を伏せた。

 足の上に揃えて置いた指は生気が感じられないほどに白い。自分の体にはあまり興味がなかったが、それでも自分でも細くなったとわかるほど体に異変が起きていた。


 エリスは神子に選ばれたことを光栄に思っているし、誇りに思っている。力を使い守って来たことも、敵を屠ってきたことにも後悔はない。

 けれどこの思いを幼い子供にさせたいかと問われたら、答えは否だ。


「…アテナの気持ちがよく分かるわ。一日でもいいから長く生きて欲しいもの。…できれば戦いとは無縁の場所で、同じ歳くらいの友達や家族と一緒に過ごしていて欲しい。……幸せでいて欲しい」


 エリスはもう自分の親の顔さえ思い出せない。多少の記憶はあるけれど靄がかかっているかのように曖昧だ。楽しかった思い出も数える程しか無いような気さえする。

 エリスとタナはもちろん別人だ。性格も考え方もまるで違う。天真爛漫で行動力のあるタナであれば神子として生きていても沢山の友人が作れるかもしれない。楽しい思い出が沢山できるかもしれない。その可能性だって十分ある。

 けれど歌い続ければ二十歳まで生きられないのだ。


「……タナが、次の赤の神子が歌わなくてもいい環境になればいいと思ったの。歌さえなければきっとみんな長生きできるわ。きっと恋もして、結婚もして、家族だって持てる。そのままおばあさんになって、眠るように死ねるかもしれない」


 エリスは口元に笑みを携えた。心は穏やかなのに、なぜだか泣きたくなるほど胸が苦しい。


「…夢物語みたいでしょう?」


 息を吐き、片手で花びらを受け止めるように皿を作る。けれどそれはすり抜けて跡形もなく消えてしまった。その脆さにまるで自分のようだと酷薄な笑みが浮かぶが、手をぎゅっと握り締めるのと一緒に表情も歪む。

 心にあるのはきっと悔恨だ。未練だとでもいうのだろうか。


「…メラ」


 その声に返事は無い。けれど黒い目は真っ直ぐにエリスを見ていた。


「遺してごめんなさい」


 アテナが死に、エリスが死ぬとなるとユラの国は一気に無防備になる。きっとゼンオウ国はその隙を逃さないだろう。かつて無い程の被害が出るなんてことは考えなくてもわかる。


 そんな最悪な状況を自分が作り出すのだと考えるとエリスは堪らなくなる。

 守りたいと強く思う。だが守るためには歌わないといけない。

 でも歌えばエリスの命は削られる。

 守ろうとすればする程、ユラの国の危機は着実に近付いてくるのだ。


「…どうして謝るの」


 空の色が徐々に暗くなり、柔らかなオレンジだった光も弱まっていく。

 メラの言葉に、エリスは先日のことを思い出していた。

 戦いに行く前夜、エリスはパーシアスにも「ごめんなさい」と謝った。それは彼のかつての仲間たちを葬ることへの謝罪だったが、メラの問いかけで嗚呼違ったのだと気がついた。


「…謝ることで、赦されたいのかもしれないわ」

「…ゆるす…?」

「自分を正当化したいのよ。戦うことも、死んでしまうことも、全ては神の思し召しだからって人のせいにして、あの人は悪くないんだって思われたいの。…わたしのせいじゃないって、そう思いたいのよ」


「…誰もエリスのせいだなんて思わないよ」

「…そうかしら」


 エリスはそうは思わなかった。


「…わたしが守ってきた人も、わたしが殺してきた人も、等しくわたしのせいだって思うんじゃないかしら。…だって全て、わたしは自分の意思でやってきたんだもの」


 俯いた拍子にさらりと落ちてきた髪は混じり気のない赤。生まれた時はどこにでもいる茶髪だったはずなのに、神子の力が覚醒したと同時にまだらだった髪色は赤一色になった。目の色もその時変わったのだろう。

 その色を纏った時からもうエリスはエリスではなくなった。


「──こんなこと話したってしょうがないわね」


 諦めたように息を吐いてエリスは力無く笑った。


「…わたし死ぬのかな」


 二人の間で言葉は交わされない。視線も合わず、沈黙がその場に落とされる。

 エリスの前に落ちてくる花弁だけがその答えを伝えているようだった。


 それから少しして、メラはエリスの未来を視てくれた。

 暗くなった部屋の中で静かに揺蕩うように流れるメラの歌と、夜空に瞬く星のように輝く力の粒子が綺麗で言葉を失った。メラの力はいつ見ても幻想的だと思う。

 歌が終わり、メラはしばらく口を開かなかった。否、開けなかったのだと思う。


「…ごめんね、メラ」


 その謝罪は辛い未来を視せたことへのもの。メラはそれに僅かに首を振るだけでなにも言わなかった。

 アテナの時もきっとこんな風に悲しんだのだろうなと、容易に想像が出来た。


 ──なんてむごい力なんだろう。


 エリスはただただそう思った。

 黒の神子は未来を視る力を有し、歴史の中でも数々の窮地を救ってきたとされる最も女神に近いとされる力を持つ人だ。だが、とても残酷な力だとようやく思い知る。

 メラは今エリスの死を視たのだ。アテナの時も、そして先代の時も。仲間の、家族の死を目の前で視るのは、一体どれほどの苦痛だろうか。想像しただけで、エリスの胸は張り裂けそうだ。


 メラは命が散るその瞬間を視た上でその未来に従って神子を送り出す。

 これからその人が死ぬとわかっていて「いってらっしゃい」と背中を押すのだ。

 エリスには絶対に出来ない。どんな手を使ってでも止めてしまう。今でもアテナの代わりになりたかったと思っている程、後悔が全身を覆っているのに。


 やがてメラの口から、本当に小さな声で未来が告げられた。

 あんまりにも余裕が無いことに喉が張り付くように狭くなった。表情が凍りついたことにメラも気が付いたのだろう、上げられたその顔には涙が滲んでいた。


「…そんな顔、初めて見たわ」


 普段からほとんど表情を変えないその人が、自分の結末を視て泣いてくれている。

 そこまで思ってくれていたのだとわかって、少しだけ救われた気がした。


「…エリスは、アテナと同じこと言う」

「…似たんでしょ、家族だから」

「エリスでも、そういうこと言うんだね」


 ふ、と息を漏らすように二人で笑い合った。


「…ありがとう、メラ」

「……お礼を言われるようなことなんてしてないよ」

「それでも」


 ありがとう、と伝えるとメラの表情が歪んだ気がした。

 完全に陽が落ちてしまったせいで部屋は真っ暗だ。暗くなった分音が鮮明に聞こえる。その暗闇の中で短く呼吸する音がした。


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