その日の内にエリスは自らケーレスの部屋を訪ねた。

 エリスを見たケーレスは驚きに目を丸くして慌てて部屋の中へと促し、椅子へと座らせる。「そんなに大袈裟にしなくても」と苦笑混じりに呟くとケーレスが目を吊り上げた。


「なに言ってるのエリスちゃん! こんな時くらいしかエリスちゃん弱ってるところ見せてくれないんだからお世話させてちょうだいっ」


 少し腰を屈めたケーレスの柔らかくて温かな両手がエリスの頬を包んだ。


「少し体が冷えてるんじゃない? あったかいもの用意しましょ! 冷えは女の子の大敵だものね」


 言うが早いか部屋から出て行こうとするケーレスの相変わらずの行動力に息を吐き、名前を呼ぶことで動きを止めさせる。振り返ったケーレスは分かりやすく「拗ねています」という表情をしていて思わず笑ってしまった。

 それにケーレスがぱち、と瞬きをした。きっと違和感を覚えたのだろう。


「…エリスちゃん、何かあった?」


 ケーレスはおっとりとしているようで、その実誰よりも神子のことを観察している。エリスがパーシアスと出会ったことで己の在り方がわからなくなっていた時に手を差し伸べてくれたり、もっと時を遡ればエリスがうまく歌えなくて泣いていた時に励ましてくれたりしたのもケーレスだった。

 泣いているのを見られるのが嫌で、誰も来ないだろうと踏んで隠れていた場所にケーレスが来た時は驚いたものだ。

 そして今も、誰も気が付かないだろう小さな違和感をきちんと拾ってくれる。


「あのねケーレス」


 小さく頷いてケーレスがアテナの前に膝を着いて座った。温かな手が今度はエリスの足の上に置かれた両手を包み、温度を伝えてくれる。ケーレスの表情はいつも通りに見えるけれど、少し違うことにエリスは気が付いていた。深いけれど鮮やかな緑の瞳に悲しげな光が走ったのを見逃さなかった。


「もうすぐわたし死ぬの」


 はっきりとした動揺と衝撃がケーレスの表情を歪めた。包むようだった手が食い込むくらい強くエリスの手を握り、そこから彼女が震えているのが伝わる。ケーレスによく似合う色で彩られた唇が歪に曲がり、眉間に深く皺が刻まれていてもケーレスは美しいままだ。


 彼女の頬に一枚花びらが落ちる。溶けるように消えていくそれを見ているエリスの視線に気が付いたのか「見えているのね」と悲しみに暮れた声で囁いた。


「…本当に見えるのね、これ」


 はらはらと落ちてくる真紅の花弁はエリスにしか見えていない。

 これは死期が迫っている神子に現れる現象だ。

 そんな白昼夢のようなことがあるものかと、エリスもアテナの言葉を聞くまでは思っていた。けれどあの日、エリスの腕の中でアテナは確かに言ったのだ。


 花びらが邪魔で見えない、と。


 そして今、エリスの目にもきっと同じものが見えている。今はまだ視界の端に映る程度だが、アテナの言葉を顧みるに死が近づく度にこの花も量を増すのだろう。

 そうして神子は花吹雪の中で死んでいくのだ。


 最後くらいは美しい景色の中で死なせてやろうという女神なりのはなむけなのだろうか。もしそうなのであれば余計なお世話だと思う気持ちもあれば、ありがたいと思う気持ちもある。


 きっとエリスが最後に見る景色はとても辛くて酷いものになるだろう。目を背けたくなるような現実を前に死ぬくらいならば、咲き乱れる花の中で眠りたい。だがアテナの言葉を思うと、少し悲しくなる。


「…メラちゃんはなんて…?」

「次の戦いが最後になるって」

「…そんな…」


 ケーレスの瞳に幕が張り、涙が溢れてきた。瞬きと一緒にキラキラと輝く雫が頬を伝って、エリスの指に落ちる。


「……そんな」


 静かに涙を流すケーレスの口から言葉にならない声がいくつも漏れる。その姿を見て胸が痛くなるのに、少し嬉しいと思ってしまう自分もいる。それがどうしようもなく浅ましいことだと思うのに、エリスは自分の口角が少し上がるのを止められなかった。


「…泣かせているのに、少し嬉しいの。変かしら」


 右手だけをそっとケーレスの手の中から離して、涙に濡れる頬を拭う。


「わたしが死ねばこの国はかつてないほどの脅威に晒される、みんなが危ない目に遭うってわかっているのに、…それでもわたしを思って悲しんでくれているのを見ると少し嬉しいの」


 溢れて止まらない涙がエリスの手を濡らしていく。

 くしゃくしゃに顔を歪めたケーレスが手を解いてエリスを抱き締めた。温かな温度と優しい香りに目を細め、背中に腕を回して抱き返す。

 こんなにも自分を思っていてくれて嬉しいけれど、申し訳なさも勿論ある。


「…ごめんなさい。…大変なものを遺してしまうわ」


 自分が死ねば、待ち受けるのはユラの国の危機だ。それを戦う力を持たないメラとケーレスに背負わせてしまう。


「…そんなの、気にしなくて良いのよ。本当に、こんな時でも真面目なんだから」


 呆れたように、けれどどこまでも悲しい声でケーレスがいうからエリスも泣きたくなってしまった。だけどエリスは泣かないと決めたのだ。

 どんな状況になってもエリスは泣かない。きっとアテナはそんなつもりで言ったのではないとわかっているが、それでも涙を流せば弱くなってしまいそうだから。

 深く呼吸をして目を閉じる。


「…タナには内緒にしておいて欲しいの」


 今ならアテナの気持ちが良くわかる。自分の命の終わりを見た時、なぜメラにあんなことを言ったのか、その時はわからなかった。

 けれど今なら手に取るようにわかる。


「あんな無茶をする子だもの。このことを知ったらきっと早く歌えるようにならないとって頑張ってしまう」


 エリスを憧れだといってくれた少女は、あの時のぼろぼろのエリスを見て頑張るから、と言っていた。きっと情けない姿を見て助けなくてはと、宝物のように優しい気持ちで言ってくれたに違いない。


 だがその頑張りは確実に少女の命を削り、覚醒が近づいたとしてもエリスの最期には間に合わない。間に合わなくていいと、エリスは考えていた。


「…そうね。…頑張るって、役に立ちたいって、言っていたわ」

「やっぱり」


 微かに笑うと少しだけ体を離してケーレスをじっと見た。

 抱き締められている間は少し止まっていたように思えていた涙だったがエリスの顔を見るとどうやら決壊してしまうらしく再び滂沱した。

 神子の中で誰よりも年上なのにケーレスは感情表現が豊かだ。今だって全身で悲しいと訴えるように涙を流し、エリスの痩せてしまった頬を撫でる。


「…もし」


 ケーレスの手に自分の手を重ね、エリスは小さく口を開いた。


「もし本当に生まれ変われるなら、またみんなに会いたいな」


 以前も口にした言葉にケーレスの表情がまた歪み、あんまり泣くなからエリスは笑ってしまった。


「泣きすぎよケーレス」

「エリスちゃんが、泣かせるようなこと言うからでしょぉ…!」


 そのまま声を上げて泣き出してしまうのではと思うほどだったがさすがにそこまでではなかったが、泣き過ぎて赤く染まった目で見られた時は思わずどきりとした。


「絶対、絶対にまた会えるわ。会えるようにずっと女神に祈るわ。だからもし本当に会えたら、その時は」


 話しながらケーレスの声がどんどん震えていく。普段は柔らかな声が上擦り、喉がつかえて言葉が途切れる。それでもケーレスはじっとエリスを見つめていてくれた。

 そして沢山の涙を流したまま、ひだまりのような笑顔で。


「また、お友達になりましょう。今度は普通の女の子として沢山楽しい思い出を作りましょうね」


 ケーレスらしい、けれどエリスの願いも込められた言葉にしっかりと頷いた。

 そして今度こそケーレスは声を上げて泣きながらエリスを抱き締めた。

 年上の頼れる姉のようなケーレスの豪快ともいえる泣きっぷりにやはりエリスは笑ってしまうけれど、その背中に腕を回してしっかりと抱き返す。

 こんな風に話せるのも、触れ合えるのもきっともうこれが最期だ。


「…みんなに出会えてよかった」


 そうこぼすと、抱き締める力が少し強くなった。

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