8
あれはアテナがメラの部屋を訪ねてきた時だった。
いつもと変わらない笑顔で、なんでもないことのようにアテナは言って退けたのだ。
「ねえメラっちー、あたしの寿命教えてくんない?」
一緒に食事をしよう、そんな気軽さで言われた言葉をメラは理解できずただ訝しげに眉根を寄せていた。そして数秒してその意味をゆっくりと咀嚼して理解し、更に眉間の皺を深く刻む。
「その冗談、笑えない」
「どんな冗談でも笑ったことないじゃん」
勝手に部屋に入り込んでメラの向かいの席に腰を下ろしたアテナの顔はやはり笑っている。喋らなければ美少女だとケーレスに言わしめる程の可憐な顔で口角を楽しげに上げている様子は神子というよりお転婆娘に見えるとメラは思っていた。
「冗談をいうためだけに来たの?」
アテナは神子の中でも特別明るくて人懐っこい。そして物怖じしない性格だからか常に仏頂面のメラにも懲りずに話し掛けて来ている。そんな生活も十数年続けば当然慣れるのだが、この質問ばかりは頂けなかった。
「あは、冗談だって思うんだ?」
そしてアテナは時折こんな言い回しをする。わざと人を苛つかせるような言い回しだ。目に力を入れて睨んでもアテナの表情は変わらない。数秒経っても沈黙が続いたことにメラは違和感を覚えた。いつもであればアテナはこの辺りで茶化して来る「やだやだ怖い顔しないでー」なんて調子で。
けれどそれがないことにメラの中で嫌な予感がした。
そんなメラの僅かな心境の変化に気が付いたのかアテナの右手が顔から手のひら一つ分離れた場所に動き、細い指で何かを摘むような仕草をした。
メラには何も見えないけれど、アテナには見えているのだろう。確信を持ったその動きを見て喉が引き攣り短く吸った息がヒュッと音を立てた。
「白い花びらがね、見えてんの。ちょー綺麗だよ」
部屋に訪れた時と同じ、なんでもないことのようにアテナは言って退けた。
カッと頭に血が昇るのがわかってメラは勢い良く立ち上がる。木製の椅子が後ろに倒れて大きな音がした。
「…いつから…っ?」
急激に上がった心拍を整えようと息を荒げ、怒鳴りたいのを堪えて静かに問いかけると流石に驚いたのか目を丸くしていたアテナが思い出すように目を閉じて首を傾げた。
「うーんいつだったかなぁ、一ヶ月前くらい?」
ガツンと頭を鈍器で殴られたような衝撃がメラを襲った。
「どうして…!」
黙っていたのと続けようとした言葉はアテナの静かな微笑みの前に掻き消された。
「どの道助からないでしょ?」
おはよう、今日もいい天気だね。そんな日常会話のように紡がれた言葉にメラは愕然とした。
アテナは立ち上がってメラの後ろに倒れている椅子を直し、再び自分の席に戻る。テーブルの上に両手を置いてじっとメラを見つめてくる瞳に、メラはもう自分が何を言っても無駄なのだと悟った。
そして自分は何も出来ないということも思い出した。
「……どうして、もっと早くに教えてくれなかったの」
深く、重たく、長く息を吐いてメラは一度奥歯を噛み締め、ゆっくりと椅子に座った。次に出した声はいつも通り抑揚のない平坦な声だった。
「言っちゃったら認めることになっちゃうからっていうのがまず一つ。あとは下手に騒がれるのも嫌だなって思ったのと、あとはね」
そこで一旦言葉を区切り、アテナは目線を少し下げた。何かを思い出しているのか唇に柔らかな微笑みを湛えてメラに視線を戻す。
「末っ子ちゃんに少しでも長生きして欲しいから。これが一番の理由かな」
「…エリスに…?」
「そう! だって白と赤の神子はさ、二十歳まで生きられないらしいじゃん? で、今十九歳のあたしがもうちょっとで死ぬってことはエリスに残されてる時間もそう長くはないと思うんだよね。あの子あたしの二つ下ってだけだしさー」
「あ」とアテナが体を前に乗り出してメラに顔を近づけた。
「だから内緒にしてて欲しいんだよね、あたしのこと。ほら、エリスってば心配性だし無理しがちだし一生懸命で真っ直ぐじゃん? だからあたしがそろそろ死ぬかもって知ったら無茶しそうじゃない? 私が代わりになるーって」
エリスは四人の神子の中で最後に連れて来られた人物でアテナもケーレスもよく彼女を末っ子といって可愛がっていたし、態度には出さないがそれはメラも同じだった。だからこそアテナの言い分は理解出来るが、と眉を寄せる。
「けどそしたらエリスの気持ちは」
「あの子を早死にさせるよりマシ、そうじゃない?」
メラの言葉を遮って伝えられた言葉に迷いはなく、その瞳にも揺るがない光が宿っていた。
ぐ、と岩のように固い言葉を飲み込んでメラはアテナを見た。
「──泣くよ、あの子。多分すごく」
「あは、あたし愛されてるってことー?」
「きっと責められるよ私は、すごく」
「うーん、そこはごめん」
「一生後悔するよ、絶対」
笑顔が固まった。上がっていた口角が下がって真一文字に引き結ばれ、奈落を覗き込むように目線を下げた。
僅かに開かれた唇から短く吐かれた呼吸は、少し震えていた。
「──それでも、一日でも長く生きて欲しい」
例えそれがたった数日のことであったとしても。
「…お姉ちゃんは妹を守るもんでしょ?」
再び明るく笑ってみせたアテナのその言葉は表情と同じように明るかった。メラはその言葉にどう返したらいいかわからなかった。
だってメラはこれから妹であるアテナの寿命を視るのだ。守るべき妹を戦場へと向かわせる数を数えるのだ。あんまりだ、あんまりにもひどい仕打ちではないか。
けれどメラはそんなことをいうつもりは無かった。
その言葉はアテナの意思を踏み躙ることになるから。
すぅ、と息をゆっくりと吸った。口を開き、小さな声で旋律を紡ぐ。いつ誰に教えられたかもわからないのに歌える歌を口遊んで、そして視えたものを数えて行く。
崩れ落ちる白と砕け散り天へと昇る光の粒子が映し出された瞬間、メラは歌うのをやめた。空気の動きすら無いと感じる程重たく静謐な室内にぽつ、と小さな声が響く。アテナはテーブルの上に置いていた両手を自分の足へと戻し「そっか」と呟いた。
「ありがとう、メラっち」
窓から入り込む光に差されて微笑むアテナは女神のようだった。
嫌な予感がした。大事なものがなくなってしまう、そんな予感だった。
あり得ないと思いながら、そうであれと願いながら走って、そして見つけた時。予感は確信に変わった。
いなくなってしまう、彼女が。妹だと言ってくれた人が。いつだって守ってくれた人が、終わりを迎えてしまう。
止めなくてはと思った。止められるはずだった。だけど、無理だった。
だって
「ぅ、…っ、ぁ…あぁあ…っ」
唸るような泣き声が室内に響く。
泣くという行為もアテナにとっては嫌なことかもしれない。彼女はエリスに泣かないでといっていた。だけどどうしたってこの涙を止められる気がしなかった。
悲しくて、胸が張り裂けそうな程苦しくて辛くてしょうがない。
メラはアテナを送り出した。アテナはそれに満足して、そしてエリスを守る選択をした。
そしてエリスは守られ、今ここにいる。アテナの願いは叶えられた。
けれど、それでも──自分の命を使ってでももっと生きて欲しかったと、そう願うのは間違っているのだろうか。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます