エピローグ「彼女のいる世界で」
エピローグ「彼女のいる世界で」
「ユート!」
ゼイゼイと息を切らして、『彼女』は僕の名前を呼んだ。両手は硬く握りしめられている。
「どうしたの、杏?」
髪は跳ねたままで、僕にも感じられるほど微妙にちぐはぐで、寝起きに飛び出してきたような格好だった。
「どうしたって、どうしたって……」
杏が呼吸を整えている間に、後ろから見知った人が現れて僕の前に立った。北条先生は焦げ茶色の瞳を真っ直ぐに僕に向けて、重力に反して持ち上げた右手を僕の頭に振り下ろした。兄に続いて、頭から軽い音がする。そのうち軽くなって飛んでいきそうだった。
「馬鹿者」
先生はそれだけ言って、カウンターで手続きをしている兄の方へ向かっていった。二人はお互い顔見知りだから、何か話すことでもあるのだろう。うちの兄を捕まえるのはなかなか難しいし、結婚式も欠席したらしいから積もる話がひょっとしたらあるかもしれない。
再び、僕と杏だけがその場に残された。
彼女は何も言わない。
「どうして、今日だって?」
僕は素朴な質問をする。
「紫桐さんが、いや、芹菜ちゃんが、今朝教えてくれて」
肩で息をしながら、彼女が答える。
「芹菜が?」
確かに、芹菜は昨日教えたから出発日を知っているし、僕も誰にも言うなとは言っていない。だから、ルール的には誰も違反していない。昨日の夜に彼女が伝えなかったのは、それなりの考えがあったのだろう。
「芹菜ちゃんが、電話で、『フェアじゃないから』って」
「フェアじゃない、か、芹菜らしいね」
「それで、お父さんいないから、先生に電話して、車を出してもらって、急いでここまで連れてきてもらった」
「急いで? それは怖かっただろうね」
「怖かった、死ぬほど怖かった、この一年で、一番怖かった」
少しだけ頬を緩ませて、彼女が言う。先生の運転が相当に危なっかしいことは、その車のボディについたたくさんの傷から伺い知ることができる。
「この一年で、か」
たくさんの思い出たちが一気にフラッシュバックする。
「でも、ユートがいきなりいなくなる方が、ずっと怖かった」
彼女の言葉が優しく胸に刺さる。ゆっくりとそのトゲを抜いて、僕は返す。
「出発することは言ってあるし、別に今生の別れってわけでもないよ」
「わかってるけど、そういうことじゃなくて、ああ、もう、わけわかんない」
「杏がわからないなら、僕にはもっとわからないよ」
フライトアテンダントの押すカートが横を通っていった。
「どうして、僕を独りきりにしてくれないんだ」
ふいに、そんな言葉が口から漏れ出た。
「……あなたは独りじゃないから」
「僕は、独りなんだ」
大きく、駄々をこねる子どものように、彼女が首を振る。
「私がいるから。芹菜ちゃんも、くるみちゃんも、桂花も、リンゴさんも、一ノ瀬先輩だっているから」
「ずいぶんなメンバー構成だね、まるでオールスターだ」
「バカ、バカバカバカバカ」
彼女は皮肉を言った僕の胸を何度も叩く。肉を伝って、ありもしない心をどんどんと叩いて響かせる。
「否定はしないよ、僕は馬鹿だから」
「だから、そうじゃなくって」
杏は意味の通らないことばかり言う。
しかし、意味が通っていることの方が奇跡的で、言葉は意味を伝えるには弱すぎるのだ。伝える方法は言葉しかないのに、言葉では何も伝わらない。
ちらりとカウンターの方を見る。予想通り兄と先生は談笑しているようだった。兄しか口を動かしていないようにも見えるけれど。
「ユート」
「何?」
僕の問いかけに、彼女は決心したように大きく一度息を吸って、呼吸を整える。心を整える。
「好き」
沈黙。
それに対応する正解を探そうとして、頭の中ががらんどうになってしまう。
「ユートのことが、好きだよ」
「僕は、杏を騙した、嘘をついていたんだ」
念を押すように、彼女に伝える。
「だからそれも知ってる」
彼女の言葉は強い。そして、心強く僕の胸に入り込んでくる。
「僕は、それに従っただけだ」
「そうかもしれない、でも、ユートは夏に言ったよね、『決めたければ、私が決めればいい』って」
「そうかな、忘れたよ」
忘れたというのも嘘だ。
それは花火大会の帰り道の話だ。彼女がお兄ちゃんについて『失恋』したかどうかについて、僕が言ったことだ。
「それでもいい。だから私は決めたの、私はユートが好きなんだって」
「相変わらず強引だね」
「素直と言って」
「ああ、そうだね、いつだって杏は素直だった。だから、僕は、いつも戸惑ってばかりだったよ」
事実、僕は一年間、振り回されっぱなしだった。行動という意味でも、精神という意味でも。
彼女が言う。
「七夕の答え、わかったよ」
「何の話?」
「恋人とずっと一緒にいたいかって」
織姫と彦星の話だっただろうか。
「ああ、そんな話をした気もするね、それで?」
「いたいに決まってるじゃない、バカ」
「また、馬鹿、か」
「ユート、それで言うことは?」
「……ありがとう」
「嬉しいけど、今はそれじゃないよ」
急かすように、彼女が笑いながら言う。
それは僕がずっと保留にしていた言葉だった。それをここで伝えることにどれほどの意味があるのか、もしくはないのか、その資格があるのか、僕に求められた判断の時間はあまりに短く、僕は結局、何も考えず、口から出るままにした。そういうことだって、たまには必要だろう。
「好きだよ、杏」
「ありがとう」
彼女は満足したように、満面の笑みを浮かべていた。
搭乗時刻が迫っていることを知らせるアナウンスが流れた。
カウンターにいた兄に目をやると、うなずいて合図を送っていた。
そろそろいくぞ、という合図である。
「じゃあ、行ってくるよ、杏」
「行ってらっしゃい、一番に連絡してこなかったら絶対に許さないんだから」
「それは、怖いな」
「ねえ、最後にお願いがあるんだけど」
「何?」
「……頭を撫でてくれる?」
「ここで? わかったよ、寝癖も直してあげよう」
僕は笑って応える。
空いている右手で僕は彼女の頭に手を乗せた。
そこで、そのまま彼女は顔を寄せて、唇を重ね合わせた。
数秒の永遠があって、僕らは密着させていた体を離す。
「えへへ」
彼女が照れ隠しか、妙な声で笑った。
「全く強引だなあ」
「女の子ってそういうものなの、わかっておいて」
それは春に月村さんが言った言葉だったか。
「そうだね、そう思っておくよ」
僕も笑って、自分の顔が真っ赤になっていることを悟られないようにする。
「拭わないで」
自然と手で自分の唇を拭こうとした僕を彼女が制止する。
「アメリカまで持っていって」
「わかったよ」
僕が笑う。
「じゃあ、本当に」
最後に、僕は右手を差し出し、握手を求めた。
彼女もそれに応えて、僕らは強く手を握り合った。この熱が次に会うときまで残っているように。
「行ってらっしゃいませ」
彼女が深々とお辞儀をした。
それから僕は彼女に背を向けて搭乗ゲートに向かった。
兄が何か言いたそうな顔でにやにや眺めてきたが、完全に無視をすることにする。
これで、僕の日本での一年間の高校生活が終わった。きっと充実した一年間だっただろう、それを確かなものとして実感するのはもっと遠い未来かもしれないけれど、そう信じられるだけの想いはあった。
これは、彼女の、彼女による、彼女のための物語だった。
普通で、特別な彼女の物語。
それはそうだろう。
怒ったり、泣いたり、笑ったり、驚いたり、めまぐるしい彼女の物語だった。
そして、やっぱり僕の物語でもあった。
二人の物語でもあっただろう。
それを想いながら、僕は歩き始める。
物語は、まだまだ終わらない。
ずっと、ずっと続いていくだろう。
さあ行こう、明日が待っている。
-Love again!
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