二月「チョコレートは裏切らない」⑩

「まんまとしてやられたね」

 バス停へ向かう帰り道で彼が言った。普段は同じ場所から、私はバスで、彼は電車で通っている。今日は彼が私に合わせてくれて、一緒にバスで帰ってくれると言う。

「なに? ボウリングのこと?」

 彼はあまり勝敗にはこだわっていないようだったけれど、割合悔しかったのかもしれない。

「いや、柏木さんのチョコレートの話だよ」

「どういうこと? 何かあるの?」

「出してみて」

「わかった」

 私は鞄から赤いラッピングの袋を取り出して、左手に乗せた。

「モンティーホール問題だ」

「モンティー、ホール?」

「有名な確率論の問題、事後確率という条件付き確率の一種だ」

 事後確率?

 条件付き確率?

 確率は数Aでやったけれど、その名前は初めて聞いた。

「今は数Cでやるらしいからね」

 今は、って彼はいつの時代に生きているのだろう。何度か高校生をやり直しているのだろうか。

「ということは、絹木先輩も一ノ瀬先輩も柏木さんも、勉強の上ではやっていないんだな。柏木さんのは仕込みだとして、絹木先輩がその場で考えて導き出したとしたらそれはそれですごいな。まあ、一ノ瀬先輩はこれくらい知っていてもおかしくはないけれど」

「ねえ、教えてくれる?」

 絹木先輩の選択に感心している彼に少しだけムッとしながら私が尋ねる。

「うん、いいよ、バスが来るまでまだもう少しありそうだからね。たぶん、杏はこう考えたんじゃないかな。残りが二つなら、変えようが変えまいが、成功品を引く確率は1/2になるだろうって」

 まさにその通りだ。

「だって、そうじゃないのユート?」

「それが違うんだよ。まず、一番最初の状態、当たりは三つに一つ、当然確率は1/3になるよね」

「うん、それはわかる」

「赤、青、緑、どれかに当たりがある。三通り存在するということだ。ここで二人は赤を選んだ。赤はまだ成功作か失敗作かはわからない。しかし、青、緑のどちらかは『必ず』失敗作だ。そして、柏木さんは、その後、緑が失敗作であることを明かして、二人のどちらかに青を選んでもらうことをお願いした。場から緑が取り除かれた」

「だから、赤か、青かの二通りになるんでしょ?」

「いいや、それがならないんだよ。依然として、緑にバツがついているだけで、三通りは三通りのままなんだ。柏木さんのヒントを無視すると、緑か青のどちらかに成功作がある確率は?」

「赤が1/3なんだから、2/3?」

 確率は全ての場合を合計すれば1になる。

「そう、2/3なんだよ? だから、緑が失敗作であると判明した以上、青が成功作である確率は2/3ということになる」

「え? うーん、なんか釈然としない」

 確かに、彼の言うことは理屈が通っているような気はする。だけど、どこかで引っかかりがあって、騙されているような気持ちになる。トリックがあるかのような。

「そうだね、こう考えてみたらどうかな。ここに百個のチョコレートがあって、成功作は一個しかない。選んだ一個が成功作である確率は?」

「……1/100、1%」

「そう、ということは、残りに成功作がある確率は、必然的に99/100、99%になる。ここで選ばなかった99個のうち、失敗作を98個取り除く。これだと杏はどうする?」

「それなら、変える、と思う。思うんだけど……」

 頭の中がこんがらがってきた。

 最初の確率と何が変わっているんだっけ。

「気持ちはわかる。本当によくわかるよ、僕も初めて知ったとき何度も検算したくらいだから。そもそもこの名前、ゲーム内容がモンティーホールという司会者の番組の一コーナーだったから取られたものだったんだけど、『選択権が再度与えられたとき、変えるべきか変えないべきか』について『変えた方が当たりを引く確率は高い』と新聞のエッセイで答えたコラムニストに対して、たくさんの反論が届いたんだ。その中には、有名な数学者が何人もいて、彼らは杏と同じく、どちらにしても確率は変わらないと主張したんだ。最終的にはコンピューターでシミュレーションをして、コラムニストが言うとおり、変えた方が確率が高いことがわかって、みんな納得したんだ」

「うーん」

「理論は直感を裏切る、ということだね」

「と、いうことは」

「可能性としては、絹木先輩が持っているものよりは、杏が持っているものの方が失敗作である確率が二倍高い。もちろん、確率論の問題だから、この中がどうなっているかは結局のところ味わってみないことにはわからない。柏木さんのことだから、そう言ってみせたのも冗談で、中は普通のものかもしれないし」

 私の手に乗せられているくるみちゃんからのプレゼントをしげしげと見つめている。彼の言うとおり、三つの味を確かめる手段がない以上、くるみちゃんがどこまで本気で言っていたかはわからない。むしろ、全てが成功作、という可能性だってある。もちろん、全てが失敗作かもしれないけれど。そもそも、この話をくるみちゃんが知っていて、それとなく選択肢を変えるように仕向けたのだとすると、失敗作が成功品、という言い方もできる。くるみちゃんのみぞ知る、である。

「どれちょっと正解かどうか試してみよう」

 彼がリボンをするするとほどき、中から一つ丸いトリュフチョコを取り出す。ココアパウダーがまぶされていた。この見た目では中身までは判別できそうにない。

「食べてみるの?」

「うん、そうだね」

 満面の笑みでチョコを二人の顔の間まで持ち上げる。

「あ」

「あ?」

 大きく口を開けて間抜けな声を出した彼に、私もつい同じ真似をしてしまう。その私の口にめがけて、彼が手に持ったチョコを押し込んだ。

「杏がね」

「んん!」

 思わず口を閉じるが時すでに遅し、しっかりと押し込まれたため彼の指先も咥えてしまう。それをゆっくりと彼が引き抜いた。

「さてどうかな」

 ココアパウダーのついた指先を舐め取っている彼に、それは私の口に入ったものだけど、と言う余裕はなかった。

 口内の温度でチョコがゆっくりと溶け、中身がしみ出してくる。

 中から現れたのは、刺激、と表現するには生ぬるいほどのまさに衝撃だった。スパイスの香りがこれでもかというほど喉の奥を突き刺し、開かない口の代わりに鼻で吸ったのと反対に喉から鼻へスパイスが逆流してくる。間違いで済まされる量ではない。確実にくるみちゃんは意図的にいたずらとしてやったはずだ。

 これは彼女なりのジョークだったのだ。

「からい!」

 ようやく声を出せてゲホゲホとむせる私に、彼は一人で声を上げて楽しげに笑っていた。

 まったくもう。

 私があげたチョコ取り上げてやろうか。

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