三月「嘘つきの魔法使い」⑤
三月四日、吹雪。
午前中はいつものように学校へ行っていた。当然のようにシロはいなかった。それから紫桐さんもだ。
昼休みに私は『体調不良』ということで早退することにした。職員室に北条先生はいないようだった。
そのまま私はバスに乗り、病院へと向かう。真っ白い病棟をうろうろして、私は紫桐さんの姿を認めた。紫桐さんに気がつかれないように後ろについていく、行き先はシロの部屋に違いない。
とはいえ、その後、私がどうするかまで考えていなかった。何がどうなっているのだろう、というモヤモヤをどうにかしたい気持ちはあったものの、シロに会ったとして何と言っていいのかわからなかった。少なくともシロは最近の欠席については大丈夫だと繰り返すばかりだったし、紫桐さんの雰囲気からしてそれ以前から予兆はあったのだろうと推察できるけどそれをシロが伝えてくれたことはなかったし、今さら私が知る意味があるのだろうかとも思う。
それにシロはもうすぐいなくなってしまうのだ。
胸がまたゆっくりと万力で締め付けられる。
一般病棟の個室の前で紫桐さんが止まり、中に入っていく。ドアが閉まるのを確認してから、私はゆっくりと近づいた。病室のネームプレートにはシロの名前が書かれてあった。
素知らぬ顔で中に入れるだろうか。それともいつかのように盗み聞きをしてしまおうか。病室の前でそう悩んでいるとき、ドアが引かれて開いた。
「ひゃっ」
「杏か」
「え、お兄ちゃん?」
そこに居たのは黒縁のメガネをした、東京にいるはずの私のお兄ちゃんだった。
「どうして、お兄ちゃんが」
「まいったな」
お兄ちゃんとシロは一度七月に会っている。シロの兄とクラスメイトだったらしく、お兄ちゃんは名前を覚えていると言っていて、シロは家に遊びに来たお兄ちゃんの顔を知っていると言っていた。それ以上の関係はないはずだ。それなのに、どうしてお兄ちゃんが病室にいるのだろうか。
「藤元、サボりか」
後ろにいたのは北条先生、今はお兄ちゃんの奥さんでもある。
「あ、え、すみませんお姉、あ、先生」
反射的に謝ってしまう。
「もういい、タケト。お前は彼女に説明する義務があるだろう」
「そうだな、そうかもしれない、若菜の言うとおりだ。杏、中に入って」
言われるまま、私は病室に入る。ベッドの上でシロが眠っていた。個室なので彼以外はいない。ベッドの横の丸イスには紫桐さんが制服を着て座っていた。こちらを一瞥して、またシロの前に向き直す。昨日から眠っていないのではないかと思うほど、思い詰めた表情がはっきりと読み取れた。
「先生」
「ああ、藤元さんか。何だ繋がっているのか」
ベッドの向こう側に立っていたのは、私の主治医の白岩先生だった。お兄ちゃんとも知り合いのようだった。
お兄ちゃんが口を開く。
「杏、まず、彼の症状の方を説明しよう。彼は今眠っている。いつ起きるかわからないけど、たぶん数日は眠り続けるだろう。その代わり、それ以外に問題はない。それは保証できるから、安心していい」
「保証するのは医者の仕事なんだけどな」
白岩先生が苦笑する。
「彼は、夢の世界に生きている」
お兄ちゃんがはっきりとした口調で言う。
夢の、世界。
「医者としては馬鹿馬鹿しい、と言いたいところだが、こいつがいるとそうとも言い切れないんだよな」
普段は優しい口調の先生が、ややぶっきらぼうにお兄ちゃんに言葉を向ける。診察以外ではそういう話し方なのかもしれない。親しみが込められているようでもあった。
「お兄ちゃん、どういうこと?」
「これは、どう言えばいいのかな。さっきのはちょっと言いすぎかな。彼は、夢と現実の区別が上手くついていない。きっかけは二年前の出来事だ。ちょうど杏が眠っているときかな」
「神様、事件?」
「杏、彼から聞いているの?」
私の言葉に驚いた顔でお兄ちゃんが聞き返す。
「ううん、全部じゃなくて、だいたいの話だけ」
実際に聞いたのはシロではなく一ノ瀬先輩にだけど、ここで言っても通じないだろう。
「そうか、それなら少しは話しやすい。そのときたまたま出張で僕はここに来ていて、彼と知り合ったんだ」
「ちょっと待って、じゃあ、夏のは?」
「悪いけど、それは嘘だったんだ。僕は彼に協力をして、彼が追っている事件の解決の手助けをした。ただ全てが丸く収まったわけじゃない、彼はその引き替えに今の状態をしばらく引き受けることになった。具体的に言うと、常時睡魔に襲われる、かといって、眠っているときでも熟睡できるわけでもない。どちらにしても不安定な状態を行き来している。彼はよく眠そうな顔をしただろう? それは本当に眠たかったんだ」
お兄ちゃんの説明に私がうなずく。確かにシロはいつも眠そうにしていた。これはそういう性格なのだと今まで思っていたけれど、違っていたようだ。
「もしくは、現実には存在しないものを、あるかのように言っていたことはないかな」
再び、私はうなずく。
春に視聴覚室で幽霊を見ていたとシロが言っていたことがある。
「医学的には睡眠障害の一種のナルコレプシー、あるいは夢遊病に近い症状なんだが、こいつに言わせると病気ではないらしい。ただ薬は効くから、定期的に通わせて対症療法として薬は処方して毎日飲ませていた」
白岩先生が補足説明をする。
それまで黙っていた紫桐さんが、シロの顔を見ながら口を開いた。
「私が、私のためにユウトは、代わりに、私さえいなければ」
「芹菜ちゃん、自分を責めちゃいけない。最善の策を全員が取っただけだ。責任を感じるのは自由だけど、そう思われることを彼は望んでいないだろう。それに、時が過ぎれば解決する問題だった。あと二年くらい我慢すれば、彼の症状も治まるはずだ」
お兄ちゃんはなだめるように優しく声をかける。
「それから、僕は彼を助けた代わりに、取引をした」
「とり、ひき」
ここまで言えば、私にも薄々わかる。
「僕の大事な家族を、僕の代わりに守るという約束だ」
家族、それは私のことだ。
「杏が入院しているときにお父さんとやり取りをして二人はコタローとこっちに引っ越すことに決まった。僕が東京に残るから、誰かが杏のサポートをする必要があったんだ。それを僕は彼に託した」
「そう、じゃあ」
入学前に交差点で私を助けてくれたのも、一緒に生徒会に入ってくれたのも、彼自身の意思ではなく、お兄ちゃんから依頼されていたからだったのだ。そして、それを紫桐さんも知っていたのだ。
「僕は具体的な指示を出したことは一度もない。どうするか、それ自体は彼に任せていた。取引ではあったけれど、どこまで、という強制はしていない。杏、間違わないで欲しい。彼は、僕の依頼で動いていたけれど、彼として、彼が思うように、彼は杏に接してくれていたはずだ」
「……うん」
もちろん、私は動揺していた。失望、絶望していたと言ってもいいくらいだ。シロが今まで見せてくれていた私に対する気遣いや優しさは、作り物の、偽物の土台の上に成り立っていたのだ。
一年もの間、彼は私に黙って、何も言わず、私を騙し続けた。
だからといって、私の彼への感情が崩れ去ったかといえば、それもまた難しい問題だった。心のどこかで引っかかっていた、一番の謎だったものが、今やすっきりと解決したのだ。納得すらしていた。清々しい気持ちでもある。飴のような甘ったるいコーティングは剥がれ、あとは中心にある果実をどうするか。
私を巻き込んだ私に仕掛けられたトリックはこれで全て解けたのである。
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