嘘つきの魔法使い(藤元杏はご機嫌ななめ⑤)

吉野茉莉

プロローグ「彼女のいない世界で」

プロローグ「彼女のいない世界で」

 僕は独りだ。

 何度かそう独りごちて、そうしてトランクケースを引きずる。

 フロアは人でごった返していて喧噪に満ちて、時折アナウンスが日本語、英語と流れていくのが聞こえる。その中で僕が理解できるのが日本語で、これから理解しなくてはいけないのが英語だ。

 新千歳空港の国際線のフロアに僕は居る。欧米系と思われる人たちがたくさんみえる。彼らは日本から母国へと帰っていくのだろうか。早朝のバスに乗ってやってきたので、時刻はまだ昼前だ。出発まであと一時間以上はある。今この大変な時期にわざわざ日本へやってこようとする人も珍しいだろう。

 ソファに腰を下ろして、一呼吸する。空港内の気温に順応して少し痺れている両手に息を吹きかけた。

 やれやれ、最初の海外がこんなことになるなんて、と僕はまた独りごちる。

 何かお土産を買って行った方が良いのかな、と今更ながらに思っていた。わざわざあの両親に会うためにお土産も必要ないとは思うけれど、手ぶらで行くよりは良いだろう。どうせなら失せ物がいいだろう。クッキーの詰め合わせでも買っていこうか。

 これから何時間飛行機に乗るのだろう。それすらも調べていない。きっと自動運転で僕の知らないうちに知らない土地に連れていってくれるのだろう。それはとても有り難いことだ。文明の利器というやつだろう。

 トランクケースに余裕はない。とりあえず移動するにも邪魔なので、僕はカウンターで手続きをして、トランクケースを預けることにした。

 つつがなく作業が終わると、手荷物のバッグだけになる。

 さて、お土産フロアでも観に行こうか。

「よう、久しぶりだな」

 どのルートに向かうか思案しているところ、背後から声をかけられた。

「久しぶり、生きてたんだね、馬鹿兄貴」

「いきなり失礼なやつだな、これからエスコートしてやろうってのに」

 振り返らず返した僕の頭を彼は軽く叩く。小気味の良い音が脳内に響いた。僕の脳みそはだいぶ軽いらしい。

「別に頼んでないけど」

 背後の人間が大仰なため息をする。

「あのさ、前から言おうと思ってたんだけど、どうしてそんな邪険に扱うわけ? 二人きりの兄弟じゃないか」

「二人きりの兄弟だからじゃないかな」

「ま、言えてる」

「まあ、でもありがとう。通訳頼んだよ」

「大体な」

 彼が僕の前に回り込んできた。身長含め背格好がほぼ自分と同じなのが気になる、歳の離れた兄である。あと十年弱もすれば、僕も彼のような顔つきになってしまいそうな、ちょっとした近未来錯覚を起こしてしまう。もちろん、それが避けている理由ではない。

「半年振りか?」

 兄が聞いてくる。

「夏帰ったとき会わなかったから、それを除けば一年振りじゃない?」

 確か、直接会ったのは去年のお正月のはずだ。その程度のことも覚えていないのか、いつものことだけど。

「ま、どっちでもいいや」

「うん、どっちでもいい。そういえばまだ音楽はやっているの?」

「適当にな、というか春のライブに来ていたんだってな、あとでナルに聞いたぞ」

「ああ、あれね」

 確かに、僕は去年のゴールデンウィークに札幌まで行き、彼のライブを観た。特に音楽についての感想はない。

 そういえば、あのときスープカレーを食べたな、と思い出していた。そのときのカレーの辛さに顔をしかめる彼女の表情と、その後のライブで遠慮がちに飛び跳ねている彼女の動きも思い出していた。

「それで、いきなりだけど、良かったのか本当に」

「どっちでも、きっと変わらないよ」

「お前がどう思うかは関係ないよ」

「そうかな」

「そうだ」

「挨拶はしてきたよ、家のことも任せないといけないし」

「泣かれただろう?」

「いいや、別に」

 僕は出発の前日、つまり昨日、幼馴染みでありクラスメイトである芹菜と彼女の両親に挨拶をしてきた。当面の間無人となる家の管理も頼んだ。出発日だけはそれまで知らせていなかったから、彼らはとても驚いていたけれど、快く引き受けてくれた。

 ドアを閉める前に、芹菜と少し話をした。今後もメールアドレスは変わらないということと、向こうの住所を教えた。終始歯切れの悪い、居心地の少し悪い感じはあったけれど、それでも芹菜は淡々としているように見えた。最後に、芹菜は『彼女』のことについて聞いてきた。僕が出発することについては伝えていないと言うと、芹菜は複雑な表情をしていた。それについて、僕は深く追求するのはやめておいた。きっと、それが一番良い選択だと、僕は信じている。

「ふうん、大きくなっただろうな、芹菜ちゃん」

「だから去年の正月に会ったって」

「そうだったかなあ、でも一年あれば女の子は変わるぞ」

「そうかな」

「そういうものだ」

 僕にとってはどうでもいい会話をする。

「手続きは?」

「もう済ませてきた」

 兄の質問に答える。

「そうか、じゃあ自分も行ってくる」

「ここに居るよ」

「おう」

 兄は自分のトランクケースをカウンターに持って行った。

 僕が今日出発することを知っているのは、向こうで待つ僕の両親と、一緒にアメリカまで行ってくれる兄と、家の管理を頼んだ芹菜とその両親だけだ。その芹菜にしても、見送りはしないでくれと頼んだ。

 つまり、僕はクラスメイトにも、執行部にも、そして『彼女』にも、今日という日付を知らせていない。

 それが、僕のできることの最後のような気がしていたからだ。どこに行くにも、ひっそりと、みんなの前から消え去ってしまった方がいっそ清々しいとさえ考えていた。なるべく湿っぽい事態になることは避けていた。

 出発することは伝えてあるので、執行部では簡単な送別会のようなものも開いてくれた。それで十分だろう。

 いつだって、僕は独りきりだった。

 これからも、それは変わらないだろう。

 誰に会っても、どんな会話をしても、それは、きっと、覆せない。

 それを僕は絶望だとは思わなかった。

 ずっと、思わなかったんだ。

 もちろん、希望だとも思っていない。

 何もなく、ただ事実として、僕は受け止めていた。

 受け止められていた。

 ぼんやりと、僕は記憶を辿る。

『彼女』と出会ったこと、二人でいくつかの、とてもささやかな出来事を体験したこと。言い争いもしたし、仲良くパフェも食べたし、カレーラーメンも食べた。ライブに行き、花火大会に行き、文化祭を体験し、プラネタリウムを観て、そうだ、水族館にも行った。とても意地っ張りで、意地が悪く、素直で、強くて、脆くて、弱い女の子だった。どれもいずれは時間という消しゴムのおかげで薄くなっていくだろうけど、きっと完全に忘れることはないだろう。

 とりあえず国際通話ができるようにしたケータイを見て、出発一時間前であることを確認する。搭乗ゲートの中でお土産を見繕っておこう。ゲートを通るために足を向ける。

 そのとき、僕は遠くで聞いた。

 懐かしい声を。

 もうしばらくは直接聞かないと思っていた声を。

 そうして僕は声の方向にゆっくりと振り向く。

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