怪異が死ぬまでの物語

第21話 母という暖かさ

 俺の家には昔から母さんしかいなかった。父親にあたる奴はとんだDV野郎だったらしく、俺が二つの時に離婚したんだと。顔や名前等なに一つとして覚えていないが。母さんの祖父母も病気で早死にしたと聞いている。


 だからというわけではないが、お世辞にも裕福の生活とは程遠かった。しかし、一日中働く母さんのおかげでこれといった不自由はしていないと思う。家族仲だって良好だった。母さんは半年に数回程しかない休日を、俺と一緒に過ごしてくれる。そんな母さんの手助けをしたくて家事は全て請け負った。すると母さんは、頭を撫でながら優しく誉めてくれる。


 俺はそんな母さんが大好きであった。もちろん恋愛的にではなく家族としてだ。なんなら大好きというより、大切という言葉の方がよく似合うのかもしれない。綺麗な黒髪をなびかせる母さん。いつも俺に優しく話しかける母さん。仕事のせいでささくれだらけの手をしている母さん。身体が弱く無理ができない母さん。そして、どこかで虚空を見つめるような瞳をする母さん……。


 そんな母さんを守りたい、役に立ちたいと思ったのは必然的といっても過言ではないのかもしれない。生きる理由も、母さんがいるからと言いきれる。


 そんな母さんとの思い出で一番印象に残っていることと言えば、三つの時の出来事である。まだ母さんのありがたみを理解できていないクソ餓鬼だった俺は、母さんと大喧嘩したのだ。喧嘩の内容は覚えていない。だが、無性に腹が立ち、家から飛び出して遠くへと行こうとした。母さんから離れようとしたのだ。


「母さんなんて大嫌いだッ!!」


 そう叫んだことは今でも覚えている。そして、その時に見た母の顔もよく覚えている。とても辛そうで、苦しそうだった。同時に、母さんらしいとも思ってしまった気がする。


 自分なりに遠くへと向かうも、幼児の体力なんて底が知れている。俺は直ぐにダウンして、近くにあった物陰に身を潜めた。あんなことを言ってしまったのだ。母さんは俺のことを嫌いになったに違いない。勝手にそう思い目に涙を浮かべる。


 次第に雨まで降ってきた。びしょ濡れになっていく身体を丸め、俺はひたすら泣くことしかできなかった。そんな時である。遠くから母さんの声が聞こえてきたのだ。俺の名前を呼ぶ声が。


 俺はもう嬉しさと、母さんに会いたいという衝動のまま、声のする方向へと走り出した。低い視点から見える光景はまるで迷路のようであり、途中声が離れたりもした。だが、諦めずに、途中転んで泣きじゃくりながら母さんを探した。


 雨が少し弱まった頃、やっと母さんの姿をとらえた。しかし距離が遠いため、母さんは俺に気がついていないようであった。どうすればいい。このままだと母さんがもっと遠くへと言ってしまう。そう考えた俺は、自分で出せる最大限の力を使って叫んだ。


「おかあさんッ! おかーさーんッ!!」


 気付いて欲しいという一心で、周りの目なんて気にせずに叫んだ。その思いが届いたかのように、母さんは俺の方を振り向いた。


「勇治ッ!!」


 俺の名前を、俺の前で、俺の目をみて叫ぶ。傘をささずに探してくれたのか、服は俺と同じでびしょ濡れである。互いに息を切らしながら近づき、体温を感じ合う。母さんは、"良かった。良かった"と言い続けている。


 そんな母さんの姿は、俺にとってとても印象強いものであったと思っている。俺のために、俺だけに見せるその一つ一つの表情は、脳裏に深く刻み込まれ、最終的には俺の行動心理の一つとなった気がした。


 そんな出来事があってか否か、何度も言うように俺は母さんのことが大好きになり、同時に大切に思うようになった。そんな俺と母さんであるが、母さんはいつも俺に言う言葉があった。


「お願いだから、貴方はあの人みたいにならないで」


 あの人とはあのDV野郎のことだろう。そんな人になど、言われなくてもなりたくない。一億貰ったとしてもなりたくない。なんなら、DV野郎を自らの手でぶん殴りたいと思うくらいだ。だが、母には暴力的だと思われたくない俺は、ただただ静かに話を聞いていた。今思えば、母は俺の感情を薄々察してはいただろうと思う。


 こんな幼少期を送った俺であるが、現在は警察官として安定した給料と、固い信頼を得ている。人前では親しみやすく一人称を僕に変え、口調もなるべく穏やかに心がけた。服装や礼儀にだって気を遣い、育ちのよさを知らしめる。


「はい! 僕に任せてください!!」


 そうやって明るく声を出すだけでも周りの態度なんてものは全くと言って良いほど変わる。まあ、俺の場合は人といつでも優しく見えるように接するようにもしているからだろうが。


 母さんに言われたように、あのDV野郎のようにならないように、みえないように必死に取り繕った。勿論妬まれたりすることだってある。人間誰しもが抱く感情であるのでなんとも思わないが。だが、中には鬱陶しい相手や邪魔でしかない相手もいる。


 そんな相手には不祥事なんかを起こすよう誘導してやると、綺麗に引っ掛かる。おそらく、妬み等の感情しかなく、周りが見えていないからだろう。そして、ピンチで藁にも縋る思いの時に手を差しのべてやれば、周りは俺を正義のヒーロー扱いする。相手の印象も俺を信用する人物に早変わり。なんとも薄っぺらい。


 だが、勿論そんな人間ばかりではない。


「なあ勇治……それお前の素じゃないだろ」


 そう言って、俺の取り繕った言動を見破ったと勘違いする奴も時々現れる。


「……バレたか。俺って言うより、僕とかの方が親しみやすいだろ?」


 だが、そんな相手はこうやって一人称を戻し、口調を少し崩してやるだけで信用する。きっと俺の裏の顔を見破ったと、素の俺を知れたと思っているのだろう。実際には手のひらで踊らされてるのと変わりないというのに。滑稽に思えてくる。


 何はともあれ、これで母さんを楽にしてやれる。そう思ったが現実は甘くない。就職と同時に母さんが倒れてしまったのだ。元々弱い身体に、長年の無理が祟ったせいだろう。母さんは目に見えて弱っていった。どれだけ明るく振る舞っても、母さんは心から笑わなくなった。いつも愛想笑いで誤魔化してくる。


 そんな風になってしまっても、俺は母さんを大切に思っていた。母さんのために働き、母さんのために家事をし、母さんのために生き続けた。しかし母さんの容態は悪化していくばかりであった。なんと脆いんだろうかと思ったことを、何年後でも鮮明に思い出せる自信がある。


 そんな生活を続けて早二年。すっかり母さんの対応に慣れた俺は、いつものように母さんを家において仕事へと向かった。だが、それがいけなかったのだ。


 その日、母さんは心臓発作で死んだ。家に帰り、母さんに触れると酷く冷たくなっていたのを明確に覚えている。喪失感と絶望にうちひしがれた俺とは対比的に、母さんはまるで人形が寝ているように静かな死体となっていた。


 そこからの記憶は非常に曖昧であり、断片的にしか覚えていない。ただ、葬式には誰も招待せずひっそりとを終え、時間をかけずに納骨した。時間をかければかけるほど、負の感情にさいなまれると考えたからである。しかし、喪失感は一向に消える気配を見せなかった。母さんという俺の生きる意味を失ったのだ。簡単に立ち直る方がおかしいだろう。


 しかしこのままでいたくないと思うのが現状である。俺はこの状態から脱却するべく、何時間、何日、何週間と考え続けた俺の脳は、一つの結論を導きだした。


 代わりの存在を見つけ、側におけばいいという結論を。

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