第14話 嫌悪を他者へ
手で顔を撫でると、現れたのは真顔の男性の顔だった。全体も含めこれといった特徴的な見た目をしているわけでもない。芸能人等でもないはずだ。唯一何か特徴をあげるとすれば、首もとに大きな傷痕があるくらいだろうか。私はこの人に会ったことがある気がする。だが、知れば私は後悔する。私は直感で、本能でそう感じた。知ることを拒否し始めた私に、目の前のその人は自身の正体を耳打ちした。
その言葉を聞いた私は、自分でも分かるほど顔が歪んだ。そして、気付けばその人を突き飛ばした。その人は、まるでマネキンのようにされるがままに倒れる。顔は真顔のままだ。聞くんじゃなかった。知りたくなかった。ずっと忘れていたかった。
いや、今ここは夢の中なんだ。これは全部、夢の中で私が造り上げた勝手な虚像だ。何度も頭でそう唱えると、突然目が覚めた。外は曇りであったため、明るい光なんてものはない。今の私は起き上がるのも億劫で、天井を見上げることしか出来なかった。
「これは全部、悪夢だから」
気付けばそんな言葉を呟いていた。しかし、言葉や身体と対称的に、心臓だけが忙しなく動く。ふと目を閉じれば、目蓋に夢の中の光景が明確に写し出される。黒いソレだった人は、ハッキリと、私に向かって耳打ちした。
「お前が殺した人間だ」
私は人を殺したことなんてない、筈であるのだ。だがあの人は、男性は、どこかで見たことがある。それだけは直感ではあるものの、確信に近い何かがあった。何故あの男性は私が殺した人間といったのだろうか。もしかしたら、社会的に殺したということか? いや、夢に出るまで恨まれることなんてしていない。それにSNSなんてLINE以外はほぼやらない。ネット上への書き込みなんてやったことがないに等しいくらいだ。
考えれば考えるほど、この疑問を解消したくなっていく。しかし、夢の中と同じように本能が知ることを拒否している。知らないほうが幸せであると叫んでいる。このまま考え続けても疲労が溜まるだけだ。一旦止めにしよう。余裕のある時に考え直せばいい。
今の私は眠気なんてないし、あのような悪夢を見た後にまた眠りたいとは思えない。この後はどうしようか。スマホは私に、今日が十一月十四日の火曜日で、今は七時半であると教えてくれる。今から支度しても電車がないので、朝のホームルームには間に合わないだろう。なんなら一時限目に間に合うかすらも怪しい。
いっそ開き直って遅刻してしまおうか。今まで中高と一度も遅刻したことがないのだ。今回ぐらいはいいだろう。幸い、母は既に仕事へ行っている。今、この場で私を咎める人なんていない。そう分かると心なしか身体が軽くなった。
この後は何をしようか。久しぶりに冷凍食品ではない手作りの朝食でも作ろうか。そうだそれがいい。別に学校に行かないわけじゃない。行くが遅くなるというだけだ。理由を聞かれたら、体調不良であったと言えばいい。簡単なことではないか。それに、誰も私を望んでいないと昨日分かったのだから、もう吹っ切れてしまおう。そうと決まれば、せっかくできたこの時間を有意義に使わなくては。
食感を忘れぬようにして朝食を噛み砕く。そうやって喉を通ったものは、いつもより味を感じた。今の光景は、他人からしたら今までで一番といっても過言ではないほどの悪夢を見た後だなんて到底思えないだろう。自分でも少し驚いているくらいだ。こんなにも落ち着けるなんて。あの悪夢を見なければこのような時間も生まれなかったと思うと、不本意であるが悪夢を見てよかったと思える。いや、それはないか。
いっそのことこのまま休んでしまおうか? そうすればこの時間がずっと続くのでは? そう頭に思い浮かんでも、身体は学校の支度を始める。何年も同じ行動を続けているせいで、変に習慣化してしまったようだ。一つ一つが身体に染み込んでいる。一種の呪いのようなもののようだ。
そろそろ学校へ行こうと荷物を持ったその時、家の鍵が開く音がした。一瞬にして冷や汗が流れる。音を出したのは母であった。リビングに入ってきた母は私の姿を見るなり、厳しい表情をして話しかけてきた。
「瀬里、学校は?」
いつもの怒鳴る前にする声だ。
「何でこの時間にここに、家にいるの!」
言われても仕方がない。寝坊したのは私であるのだから。だが、体調が悪い等という考えは無かったのだろうか。
「書類を取りに来てみれば……貴女は医者になるんでしょう?! こんなことじゃ医学部なんてもっての他よ!!」
きっと無いだろうな。母は内科医であるし、何人も患者を診ているため分かるのだろう。
「いい加減にしなさいよ?! 最近酷すぎるわ!!」
あぁ、それに私のことなんてどうでもいいのだろう。怒鳴っているのも、きっと私をサンドバック代わりにしたいだけだ。既に見切りをつけてからこそ、私がどうなろうと知ったこっちゃない……きっとあるのはそんな考えだ。
「瀬里! 真剣に聞きなさい!!」
次の瞬間、母は私の頬を叩いた。リビングに、乾いた音がこだましている。痛みが一秒ほど遅れて私の頬にやってきた時、私の中で何かがうごめいた。話を聞こうとしていない母が、醜い何かに見える。コイツは敵だ。私に害を与えてくる敵だ。
「黙れよババァッ!!」
気付けばそんなことを叫んでいた。きっと、コイツは逆上するだろう。なら、全力で殴り飛ばしてやる。もうどうでもいい、どうなってもいい。ここから逃げ出すきっかけを作りたい。
私の予想とは反対に、リビングは静かなままである。何故逆上しない。もしかしたら、怒りから黙り込んでいるのかもしれない。目を合わせようと顔をあげると、コイツはとても驚いた顔をしていた。そして、悲しみを含んだような顔をしていた。そんな顔を目に入れたくなかった。目に入れるのが辛くなったというほうが正しいか。私は走って玄関から逃げ出した。
時間をかけて学校につく。その間に、私の中にうごめいていたものが忽然と姿を消し、冷静な思考を取り戻していっていた。またいつもの自己嫌悪の時間だ。朝の穏やかな一時から、こんなに暗くなるだなんて。一体誰が予想したというのだろう。
昇降口までたどり着くと、突然雷が鳴り始めた。つく前に鳴り始めなくてよかったと思ったが、同時に傘を忘れたことに気付く。雨が降らないことを願うばかりだ。
教室へ向かおうとすると、偶然にも末兼と出くわした。何故急に運が悪くなったのだろう。
「おはよう神出、なんだ? 遅刻か?」
そう気軽に話しかけてくる。正直鬱陶しいことこの上ない。そういえば、昨日の柚との出来事は知られているのだろうか。もしそうならとても分が悪い。あれは、端から見たら話を聞かなかった私が悪者であるからだ。そう考える私とは違い、末兼は柚について触れることなくこの場を去ろうとした。助かったと思っていると、何処かへ行こうとした末兼が振り返ってこういった。
「そうだ神出。何回も同じ言葉になってしまって申し訳ないが……何かあったら相談しろよ?」
その言葉に、また私の中の何かがうごめいた。相談して何が変わるというのだ。相談したから悪夢を見なくなるのか? 怪異に憑かれなくなるのか? 何も知らないくせに。気付けば目を伏せていた。
「神出? ……大丈夫か?」
末兼が心配からかこちらにやってきた。そしてそのまま肩に触れ、私の表情を覗き込もうとする。私は反射的に手を振りほどいて三歩後退した。
「相談して……なんになるんですか?」
精一杯口から絞り出した言葉は、紛れもない本心であった。私は、もうこの場にすらいたくなくなってしまった。心なしか、昨日の出来事がフラッシュバックしてくる。私を必要としていないこの場所に、何故足を踏み入れようと思ったのだろうか。迂闊である。馬鹿である。気付けば、私は鞄をこの場に投げ出し、走って逃げ出していた。
大学なんて入れなくていい。どうなってもいい。だから私は逃げ出したい。その一心からの行動である。皮肉にも、次第に降った大雨が、私を正気に戻そうとする。雷も鳴り止まない。これはまるで、怪異を殴った時のような、憑かれた時のような、あの日と同じであった。
気付いた時に、私は河川敷で寝転んでいた。空から降った水と、草や土にあった水が次々私のもとへと集まるのを感じた。私はこれからどうすればいいのだろうか。そんな不安が頭をよぎったが、次第に考えることを止めた。
その時、私は突然声をかけられた。
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