第26話 笑顔を見せない彼女

 教師生活を初めてはや数年。僕は担任を持った時にある目標をたてている。それは"一度だけでも生徒の心からの笑顔を見る"というものだ。生徒とは担任のクラスの生徒だけだが。今まで生徒の相談にのったり、芸人のボケなんかを会話に取り入れたり、生徒の話をよく聞いたり……。そんなことを続けているお陰で、今まで笑わなかった生徒はいなかった。ただ一人を除いて。


「おっ神出! 元気か?」

「末兼先生……はい。元気です」


 この一年の神出は笑わなかった。正確にいえば、僕の前では笑わなかった。他の生徒が笑っている時では愛想笑のようで、目の奥は笑っていない。その事を指摘している生徒も見かけたが、本人に自覚が無いのか、はたまた気にしていないのか変わる気配がない。


 今まで二年、三年の担任が多く、一年の担任をすることは片手に数える程度しかない。そのせいも相まってか、神出という存在は僕にとって印象強い人物であった。そんな彼女に、俺はとある不安の感情を抱いていた。彼女の両親によるプレッシャーである。


 彼女の両親は、共に医療の界隈で有名な医師であるのだ。彼女の父親である神出 昌也まさやは世界をまたにかける内科医である。医療雑誌には定期的に論文が載るくらいには有名だ。そして、しょっちゅう海外で講演をしたり、学会に出席したりして忙しくしていると神出から聞いたことがある。そして、幼い頃からそうであったため、顔さえうろ覚えだとも言っていた。


 彼女の母親である神出 心咲みさきは、先程の父親とは違い、世界をまたにかけるわけではないものの、とても優秀な外科医であると聞いた。助かる見込みの無い患者を助けたりだとか、少々あり得ない話まである。


 こんな二人の娘である彼女が、周りから期待されるのは不思議なことではなかった。誰もが両親の後釜的存在になると考え、医者になることを信じて疑わなかったのだ。それは彼女自身も例外ではない。


 唯一の救いというべきことは、彼女以外の生徒が、彼女の両親について知らなかったことだ。彼女の両親はテレビになんて出ていなかったし、医療の界隈以外ではさほど有名でなかったせいだろう。だが、生物や僕のような化学の教師は両親について知っていたし、希に推薦等の関係で来る医学部の大学教授も彼女の両親を知っていた。そして、期待されていた。


 この重圧を、彼女は幼い頃から耐えてきたのだ。重圧に負けるまでさほど遠くなくてもおかしくない。僕はそのせいで不安で仕方がなかった。何年間も積み重なった重圧に負けたら、彼女はどうなってしまうのだろうか。最悪、自ら命をたってしまう可能性だってある。


 そして僕は、彼女の母親の勉強に対しての向き合い方についても不安を覚えた。それは、二学期最後の三者面談での出来事である。その三者面談は、進路に大きく関係するものであった。一年からとも思われるかもしれないが、この高校は正真正銘の進学校なのだ。そんじょそこらの自称進学校とも訳が違う。


 話はそれだが、普段の行事では一切見かけない彼女の母親と話す、数少ない機会でもある。毎度忘れないものになる気がするのは、僕の気のせいだろうか。


「では神出さんの成績についてですが──」


 その言葉から始まった時間は、教師である僕にとっても酷く長く感じた。目の前でなんのリアクションも取らずに話を聞く彼女の母親、ただただ話を聞いて、差し出された成績表を見ることしか出来ない彼女。どちらも息苦しく感じた。


「以上が、神出さんの成績と生活態度です。ここまでで何か質問はありますか?」


 成績は全て五、生活態度も申し分ない。そのせいもあり、特に問題が起こることなく話は進んだ。だが、ここからが問題であった。


「では次に推薦に関してですが」


 そこまで話すと、彼女の母親の顔が少し曇ったように感じた。しかし、僕は気にせず話を進める。


「神出さんの成績、授業態度なら難関の国公立の推薦条件を優に越えています。なので──」

「先生、少しよろしいですか?」


 そこまでが限界であった。彼女の母親が遮ったのだ。一体何がいけなかったのだろうか。推薦がそんなに不満だったのだろうか。僕としては、日頃努力してきたのだから、こういう時に少しでも楽にさせてやりたいと思ったのに……。


 入試で入らないと実力が釣り合わないなんてことも、彼女なら無いだろう。なんてったって、彼女は全国模試で上位百位に入る学力を持ち合わせているのだから。そんな思考を巡らせているとは知らず、彼女の母親は続けた。


「何故推薦を進めるんですか?」


 僕はありのまま……というわけではないが、学力を持ち合わせている所等を強調して伝えようとしたが、その前に彼女の母親がまた話し出した。


「そんなに入試で落ちるほど実力が無いと言いたいんですか?」


 その言葉に、思わず口を閉じる。彼女の母親はまたつづける。


「先生は瀬里が落ちると思うんですか?」


 この言葉だけ聞いたら、この親はモンスターペアレントだと思われるかもしれない。だが、彼女の母親はヒステリックになるわけでもなく、ただ淡々と僕に質問をしているだけだ。僕が彼女の実力を疑っているように感じているのだ。


 だが、決してそんなことはない。彼女の実力は模試の結果や、今までの生活態度等で沢山感じてきたつもりだ。彼女の母親に、このことが伝わるかと聞かれれば、その答えは否であるだろうが。


「いえ、決してそうは思いません。神出の実力なら、入試でも十分に戦えると思います」


 そうは言ったものの、僕は納得できなかった。大事なのは彼女の意思だと考え、彼女の方に視線をやっても、目が合うことはなく、どこか諦めた表情をしているように見えた。母親の言うことが正しいと、そう言わんばかりの態度だ。しかし僕は諦め悪く彼女に話しかける。


「神出はどっちにしたいとか希望はあるか?」


 彼女は少し間をおいて、自身の母親に目線をやったかと思うと、落ちついて僕に答を返した。


「私は……一般入試がいいです」


 相変わらず、諦めたような表情は変わらない。母親に決められたように動いている。その姿を見ていると、彼女は本当に一般入試がよかったのか。それどころか本当に医学部に入りたがっているのかというのが怪しく感じられてしまう。しかし、今の僕にはなにもすることが出来ない。彼女自身が一般入試がいいと言ったのだ。なら、教師はそれを尊重することしか出来ないのだ。


 あぁ、彼女はなんて息苦しそうな世界を生きているのだろうか。僕なら耐えられずに家出してしまうだろう。ただ、これらは全て外野である僕の考えなので、本人が本当に僕と同じように考えているとは限らない。もしかしたら、全てお節介になっていたのかもしれないと少し反省する。


 その日は他の生徒の三者面談もしたはずなのに、彼女の三者面談が一番神経を使いながら会話をした気がする。そして、己の実力不足や、これからの彼女に対するサポートの仕方を考えなければならないと思わされた。とても濃い一日だったなと、時がたった今でも思う。


 だからといってはなんだが、僕は彼女のクラスを彼女の居場所にしたかったのだ。せめて一度も心から笑える場所にしたかったのだ。お節介かもしれない。でも、それで少しでも気が楽になって欲しいと願ってしまうのだ。


 だが、そんなことは実現することなど無いまま、彼女は二年となり、僕の担当から外れてしまった。せめて、担任じゃなくてもなんとかしてやりたい。僕は何度もそう思ってしまうのだ。勝手な正義感だと自覚しているのにだ。

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