じゅう、いとゆう荘よろず屋の社訓
三浦翔馬がいとゆう荘の食堂で課題を広げていると、脇に置いてあったスマホに電話がかかってきた。
流れはじめた着信音に、隣で音読の宿題をしていた琴子の声が止まる。
「忍さんだ。珍しいな」
「しのぶ? そういえばまだ帰ってきていないな」
見上げた振り子時計は十八時二十分を指している。
いとゆう荘の夕食は基本的に十九時からだから、住民たちはそこを目指して帰宅する。別に遅れたからといって食いっぱぐれるわけではないが、光舟の料理はやはり作り立ての温かいうちに食べたい。
「……もしもし?」
この間、越してきたばかりの『みらい屋さん』。
第一印象は良くもなく悪くもない。翔馬は琴子や苑爾ほど面倒見がいいほうではないので新入りとの関わりはそこまで多くなかったが、取り立てて嫌う要素もない相手だと思っている。
このひとから電話がかかってくるというのが意外だった。
あまり自分から他人に関わっていくタイプには見えない。
「もしもし、翔馬くん。ごめん、今いいかな」
「全然よくなかったけど、いいよ」
「苑爾さんか惠さんが、今どこにいるか解らない?」
唐突な質問に、翔馬は思わず首を傾げた。
食堂にかかっている黒板に視線をやると、二人とも本日の夕食を食堂で食べることになっている。今どこも何も、放っておけばいとゆう荘で会える。
けれど、隣で耳をそばだてていた琴子の目がすうっと色を変えた。
三分間だけ世界を止めるちからを持つ、我らが社長。困っているひとには積極的にお節介を焼いていく、それがいとゆう荘よろず屋の社訓である。
「翔馬」と彼女がシャツを掴んできた。
細かいことはすっ飛ばして、それだけでじゅうぶん手を貸す理由になる。
「範囲が広すぎるよ。大体どの辺りとかわかんないの?」
「夕飯は二人ともマルになってたから、寄り道は多分しない。菖華音大からいとゆう荘に帰るルートのどこかで、地面がアスファルトじゃない場所」
「大事な用件なんだよね?」
くだらない用事で、きっと忍は翔馬に電話なんてかけない。
理解していながらも一応確認したのは、彼に対して、自分の能力の詳細を知らせていなかったことを思い出したからだ。
三浦翔馬は他人の視界を共有できる。
隣でこちらを見上げてくる琴子。台所で夕飯を用意している光舟。いまや町中に設置された防犯カメラ。あるいはほとんど誰もが手にしているスマホ。とにかく『目』のような役割を果たすものを持つあらゆるものの視界を借り、同じものを見ることができる。
琴子社長がつけた名前は『とおみ屋さん』。遠見という単語自体は史龍が教えた。
万能ではない。制約はある。
翔馬は閉じてあったノートパソコンを開き、ネットから地図を呼び出した。
「よう翔馬」と、忍との通話に割り込んできたのは赤金だった。
「直接チャリで向かうからルート指示してくれ」
「赤金さんもいるとかロクな事態じゃなさそう……」
「どういう意味だコラ」
「言葉の綾じゃん。事実だけど」
掛け値なしの本音をぼやきつつ、琴子と手をつなぐ。
「社長、三分貸して」
「うむ。苑爾と惠を捜すのだな。──おさんぽに行こう」
宗像琴子は三分間だけ世界を止めることができる。
その間、あらゆる世界が呼吸を止める。しかし琴子自身と、彼女に触れている者はその限りではない。手をつないでいれば、琴子と一緒に三分間の『おさんぽ』ができるのだ。
音が消えた。
時計の針が止まる。
揺れていた振り子が呼吸を失う。
台所で料理をしていた光舟がフライパンを振った状態で、テレビの画面がVTRの途中で、スマホの通話時間が一分七秒で止まる。
琴子と翔馬だけが、いま、息をしている。
制限時間は三分だ。琴子を抱き上げ、翔馬はいとゆう荘を出た。
門を出てすぐのところに、バイクに跨った美沙緒がいた。毎週水曜日は授業が早く終わり、部活動もないので、比較的早く帰ってくることが多いのだ。
彼女の横を通り抜けて、菖華音大方面の府道に出る。交通量が多い道路なので、片側一車線の車道は上下線ともそれなりに混雑していた。
「このへんでいいかな」
「あと二分だ、翔馬」
「わかってる」
手近な車に乗っている運転手の視界をジャックした。
最初の一人の視界で目的の人物を見つけられるわけではない。その視界に入っている車の窓から見える運転手に狙いをつけて、翔馬は瞬きをした。
その視界。まだ目的には程遠い。歩道を歩いている小学生に向けて、瞬きをひとつ。
ちょうどよく空を見上げている。飛んでいる鴉に向けて、瞬きをひとつ。
その視界から、アスファルト以外の道路を捜す。──視界の範囲があまりよくなかった。一旦地上の車に戻って、運転手の視界を辿っていく。
その視界にあった監視カメラ。
カメラに映っていた映像のなかの車の助手席の女。
女が眺めている対向車──そこに、見覚えのある男がいた。
「ん? 陣くん?」
「翔馬。あと一分だ」
「ああ……わかった。急ぐよ」
どこにでもいそうな白い普通車の助手席に座っていたのは、一〇一号室の住人、真田陣だ。
最近は弥土駅前の商店街にある喫茶店でアルバイトしているという話だったが、翔馬はここ一週間、いとゆう荘で陣に会った記憶がなかった。なにが本業だか不明だが、元気そうだったのでほっとした。
視界から視界へと瞬きで巡り続けること、さらに七人と二羽と三匹と一台。
アスファルトではない地面の上を歩く男女二人組の後ろ姿を、捉えた。
「──いた」
「かえろう、翔馬。時間だ」
琴子がシャツを引くと同時に、翔馬の意識はいとゆう荘の食堂に戻ってきていた。
スマホの通話時間が一分八秒を刻む。
テレビのワイドショーがニュースの続きを伝えはじめる。
光舟のフライパンに具材が着地する。
時計の振り子が揺れる。
世界が呼吸を取り戻す。
一瞬だけ、共有している視界と目に見えている景色が混ざってくらりとした。頭を切り替える。一つのディスプレイで別々の動画を別ウィンドウで並べて半分ずつ見ている感覚だ。慣れれば大したことじゃない。
視界を借りている男は、苑爾と惠の後ろをゆっくりと歩いていた。
彼と同じものを見ながら、翔馬はノートパソコンで開いている地図を眺める。鄙びた商店街。あまり通らない道だけど、翔馬の通う高校の近くだ。
「視えたよ。苑爾さんと惠ちゃんが、二人で歩いてる。後方十メートルくらいにいる男の人の視界を借りてる。地図だとみかげ商店街って書いてあるよ」
「後方十メートルて。例の犯人じゃねぇだろうな?」
赤金が何やら物騒なことをつぶやいた。
「犯人ってなに、どういうこと?……あ、いま苑爾さんが振り向いた」
珍しく黒いパーカーを着ている苑爾が、顔半分だけ背後に向けてこちらを見た。
すると、視界を借りている男が怯えたように足を止める。
翔馬は眉を顰めた。
──なんだ、いまの動き。
頭の隅っこで赤色灯が回る。苑爾は後ろを振り返っただけだ。どうしてこの男が立ち止まる必要がある。まるで、前を行く二人にばれないように尾行しているみたいじゃないか。
そういえば昨日、苑爾は「赤金がヘンな尾行ごっこを始めたみたい」と呆れていたけれど。
──尾行ごっこの続きにしては、忍さんが真面目だし。
「しのぶに何か視えたのか?」
琴子の不安そうな声に、はっとなった。
そうだ。松雪忍はみらい屋さん。未来の画を視るという特異なちからの持ち主。
例の犯人じゃねぇだろうな、という先程の赤金の声が脳裡でちかちかと瞬く。なんの犯人?
視界の惠が振り返った。
ぱちり、翔馬と目が合う。いや、翔馬じゃない。二人のあとをつけているこの視界の主と目が合った。まずい。これは、まずい。
惠の『触媒』の発動条件を満たした。
振れる先を探してゆらめく感情が、方角を決めて転がり落ちていく。善きものは善きほうへ。悪しきものは悪しきほうへ。水が高いところから低いところへ流れていくように、世界のごく当たり前の真理のように、男の性質、感情、あるいは衝動が増幅されていく。
一瞬よりも短い時間で。
彼女の白い横顔を見た瞬間、男は視線を落とした。
上着のポケットに突っ込んでいた両手。
静かに取り出した右手には、折り畳みナイフが握られていた。
刃渡り数センチ。柄は黒。
「ちょっと待って、このひとヤバイ」
なんでこんなものを、よりによって持っているんだ。
──『例の犯人』ってどういうこと?
「なんか、ナイフ持ってる、んだけど……!」
「翔馬もういい、切れ!」
赤金の怒声でばつんと共有が切れた。
零感の赤金には異能が通用しない。それどころか明確な拒絶を示されると、こっちが使用中のちからを強制的に抑え込まれてしまう。絶句して呆けている翔馬の横で、椅子から飛び降りた琴子が、食堂の隅にある黒電話の受話器を上げた。
「もしもし、陣か? 大至急、みかげ商店街に行ってほしいのだ」
おさんぽのときにちらっと見えた陣の姿。
彼は、特異なちからを持つ人々が住むいとゆう荘のなかで唯一、なんの異能も持たない『ただの人間』だ。それも、とびきり強い。
謎に包まれてはいるものの、対人の物騒な案件に関して、彼より頼れるひとは他にいない。
「なんだかよくわからないけど、苑爾がピンチみたいなんだ!」
受話器の向こうの声は翔馬には聞こえない。
けれど、薄く微笑んで「了解、ボス」と応える姿が目に浮かんだ。
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