よん、なんだかこれはやばそうだぞ

 当然、全文が英文だ。“my brother”、“end his own life”、“rest in peace”……なんとなくニュアンスだけ拾う僕の横で、苑爾さんがざっと目を通して眉間に皺を寄せる。翔馬くんも画面を見つめて、少ししてから口を開いた。


「『報道にあります通り弟が天へ召されました。ご心配をおかけしました。いまはただ弟の魂が安らかに憩うことを願います』みたいな文面で……日付が六年前の六月。調べてみたら確かに、十五歳のアメリカ人がアパートから飛び降りて自殺したって記事があった」

「六年前っていうと……」


 今年二十一歳の苑爾さんや惠さんは六年前、十五歳。自殺したアメリカ人、ウィリアムの弟と同い年で、日本なら中学三年生だ。

 続きを引き取ったのは、八歳と思えないほど真剣な表情のよろず屋社長だった。


「めぐみちゃんがりゅうがくしてた頃じゃないのか」





 いとゆう荘は異様な緊張感に包まれていた。

 惠さんを連れ去ったレンタカーは門の前に横付けされ、日本人の運転手が車中で待っている。

 話がしたいだけだと言っていたウィリアムは惠さんとともにエントランスを通って、遊戯室を一瞥して何事か英語でつぶやいた。それに対して惠さんが、


「みんなが不安に思うから日本語で喋って」


 わりあい冷淡な声音でぴしゃりと叱りつけたので、なんだかこれはやばそうだぞとよろず屋組はハラハラしているのだった。

 惠さんは風に揺れる雪柳のような人だ。少なくとも僕はそういう印象で、同時に、世界から隠れたがっているような人でもあると感じていた……それはどうやら彼女の一側面でしかなかったみたいだけど。

 惠さんは食堂のソファに腰掛け、改めて食堂に通されたウィリアムは、大家さんの形式的な歓迎を固辞してその正面に座る。


「もう知っていると思うけど……この人はウィリアム・ロングマイヤー。わたしがオーストリアでピアノを弾いていた頃の知り合いで、ピアノで生計を立てている人」


 淡々とした紹介を受けてウィリアムが目を伏せる。

 と、僕の隣に立っている社長を見つけて、ゆっくりと瞬きをした。


「先程はどうもすみませんでした。怪我はしませんでしたか」


 長い脚を窮屈そうに折り畳んだ姿でそう謝る彼に、社長は珍しく人見知りしながら「うん」とうなずく。食堂に漂うヒリついた緊張感を、社長も察しているのかもしれなかった。

 惠さんの無事が確認されたことで、苑爾さんはようやく背中に召喚していた修羅を仕舞った。今は翔馬くんと並んでダイニングテーブルに浅く腰掛けている。普段ならお行儀が悪いとか言いそうな苑爾さんだけど多分何かあったときのために立っていたいのだ。


「それで、結局その人は何をしにきたのよ」

「この人はわたしにピアノをさせたいの。……ずっとそう。外国の『ちゃんとした』ところで『ちゃんとした』ピアノを学んで『ちゃんとした』ピアニストになってほしいんだって」


 ウィリアムの眉がぴくりと跳ねた。

 壁の向こうの遊戯室を睨むようにして「惠」と吐き捨てる。


「あんなふざけた部屋のふざけたピアノでいつも練習しているのか」

「……そういうことを言うウィリアムのことは好きじゃない」

「別に私を好きになってほしいわけじゃない。正しい環境でピアノを弾いてほしいだけだ」


 車内で何度も言われたのか、惠さんは白い指先で額を押さえて息を吐いた。


「あなたはいつも、正しい環境で正しいレッスンをと言う。だけどわたしはもう、あなたが思い描くような華々しいピアニストを目指すつもりはないの」

「どうして! それだけの才能があるのに!」


 ウィリアムがソファの背を殴りつけたので、大家さんがどうどうと止めに入った。びっくりした琴子社長が翔馬くんに抱きついたのを見たウィリアムが「すみません」と嘆息する。律義だ。手段が強引だしどうも頑固そうだけど、根っからの悪人ではないみたい。

 惠さんもウィリアムも、互いに倦んだ空気を漂わせていた。

 僕も苑爾さんも下手に介入するわけにいかず、ただ黙って見守るだけの置物と化していた。

 やがてウィリアムが睫毛を伏せる。

 ……永遠に戻らない何かを悼むように。


「コーネリアスのことを気にしているのならそれは惠のせいではない」

「…………」

「何度も惠から話を聞いて、それでも惠のせいではないと、私も私の家族も思っている。むしろ貴女のピアノが喪われたことをコーネリアスも嘆くだろう」


 惠さんは黙したまま身動ぎもしない。

 コーネリアス・ロングマイヤー。ウィリアムの弟だ。

 六年前の六月に、オーストリアのアパートから飛び降りて死んだ少年。当時十五歳。国際的なピアノのコンクールで入賞常連の、将来を嘱望される若き天才ピアニストだったという。


「日本で音楽大学に入学し直したというからてっきり立ち直ったものと思っていたのに、こんな場所でお遊びのピアノを弾いているだなんて。貴女の才能はもっと正しく評価されるべきだ。こんなところで埋もれていい指ではない」

「──あなたにわたしのピアノをあれこれ指図される謂れはない!」


 耐えに耐えた惠さんの感情が爆発した。立ち上がってウィリアムを睨んだ惠さんと、彼女を目で追ったウィリアムの視線が交錯する。隣の苑爾さんが頬でも叩かれたように顔を背けて、両手で耳を塞いだ。惠さんの声色の濁りに耐えかねたのだ、と一拍遅れて気付いた。

 惠さんの色素の薄い双眸に睨み下ろされたウィリアムの白い頬がかっと赤くなる。

 激高した彼が英語で何かを叫んだ。ソファを蹴りながら立ち上がり、右手を振り上げる。


「ちょっ……!」


 慌てて惠さんの前に割り込む。左腕を顔の横に上げてガードするつもりだったけど、悲しい反射神経のせいで間に合わなかった。バチンと頬骨のあたりを叩かれる。

 かつんと何かが落ちる音がした。テーブルの上に透明ピアスが一つ。平手の衝撃で左耳から脱落したらしく、耳朶がひりひりしている。


「──忍くん!!」

「あ、平気、平気ですので二人とも落ち着いて……。ウィリアムさん怪我してないですか」


 これまで、未来視のためほどほどに波乱万丈だったといえども暴力沙汰とは無縁だったわりに冷静にそう言えたのは、ウィリアムのほうが真っ蒼になっていたからだ。

 僕を叩いた右手が、振り抜いた体勢のままかたかたと震えている。

 彼は最初の出会いはどうあれいとゆう荘にやってきてからは紳士的だった。社長にちゃんと謝ったし、日本語も上手だったし、冷静に惠さんと話をしようと努めていたのだ。前触れなく手を振り上げたのが、ちょっと唐突すぎるくらい。


「せやで、二人とも、ちょっと落ち着き。ウィリアムもピアニストなら手は大事にせな。惠ちゃんは目ェ合わせたらあかん」


 大家さんの努めてのほほんとした窘めに、ああ、と僕も納得した。以前に教えてもらった、惠さんの特異な力、あんぷ屋さん。

 善きものをより善きほうへ、悪しきものをより悪しきほうへ……。


 ウィリアムは捨て台詞のように何事かを英語で怒鳴ると、足音高く食堂を出て行った。止める間もなく後ろ姿が遠ざかっていく。

「ねえ」と口を開いたのは、社長が巻き添えにならないよう隅に避難していた翔馬くんだった。


「『コーネリアス』が死んだのに惠ちゃんが関係あるの?」

「しょうま! それは……」

「惠ちゃんから話すまで待つって言ったけど、でも早くしないとウィリアム帰っちゃうじゃん。あの人、『人殺し』じゃなくて『また来るから』って言った。惠ちゃんに煽られてもその言葉が出てくるってことは、惠ちゃんのせいじゃないって思ってるのは本当なんだよ。いいの、このまま帰して」


 惠さんは深く項垂れた。

 緩く波打つ髪の毛が肩から流れ落ち、白いうなじと細い肩を露わにする。


「コーネリアスはわたしのピアノを聴いて死んだの」


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