さん、え、苑爾さんが怖い……。

 さてどうしたものか、警察に通報するのもちょっと尚早か、と大家さんが悩む傍ら、社長から連絡を受けた苑爾さんが慌ただしくショッピングから帰ってきた。


「惠ちゃんが拉致されたって!?」

「苑爾くんおかえり。拉致した犯人は知り合いっぽいんやけど、ちょっと心配やねんな」

「なにを呑気なこと言ってんの。拉致の時点で言語道断でしょうが!」


 珍しく怒った様子の苑爾さんが語気を荒くする。

 惠さんを目の前で拉致された瞬間の怒りは、僕はもうだいぶん落ち着いていた。ひとまずウィリアムなる人物が本当に知り合いらしいと判ってほっとしたのもある。しかし苑爾さんは、背中に修羅を背負った険しい表情で食堂のテーブルに手を突いていた。


「忍くん」

「は、はい」

「まさか忍くんの未来視の男、そのウィリアムとかいう野郎じゃないでしょうね?」


 はた、と目を丸くする。

 確かに──いや、確かに。背の高さでいうと、ウィリアム氏でもおかしくない。しかも今日は未来視のあったうたた寝から六日。僕があの女性を惠さんだと判断した要素である髪型や、ゆったりとした黒いワンピースは、完全に合致していた。

 僕の表情に答えを察したらしい。苑爾さんは痛烈な舌打ちを洩らす。

 ……え、苑爾さんが怖い……。


「なら無事は無事なのかしらね。安心したわ」

「安心したって顔じゃないですよ、苑爾さん」

「それはそれとして腸が煮えくり返りそうよ。ウィーンのピアニストが惠ちゃんに何の用? 事前にアポイントメントを取って喫茶店でゆっくり話すならまだしも、無理やり車に連れ込むなんて紳士の風上にも置けないわ。ピアノより先ず常識を学べ!」


 一から十まで仰る通りである。

 苑爾さんは食堂を出ると、一〇二号室の三浦家のドアをごんごんとノックした。


「ちょっと翔馬、グレーなほうの特技を貸してちょうだい」


 僕と社長はわたわたと苑爾さんのあとを追う。不機嫌を隠さない苑爾さんは応答を待たず、問答無用で翔馬くんの御宅に上がり込んだ。

 短い廊下の先のワンルームは、大部分をゲーミングPCのモニターで埋められていた。

 収納つきの大きなベッドと、広いデスク。モニターが三枚とキーボード。それと立派なゲーミングチェア。本棚にはゲームとマンガがきれいに詰まっている。

 ゲームの実況配信をおこなうユーチューバーである翔馬くんは、今まさに動画の録画中といった様子だった。

 じろりと僕たちを振り返って無言で責めたあと、不服そうな顔で録画を中止する。


「なに」

「惠ちゃんがウィリアムとかいうピアニストに拉致されて車で連れ回されてるのよ」


「なにそれ……」と、言いながらすでに翔馬くんの指はマウスを操っていた。

 検索エンジンを立ち上げていくつかの単語を打ち込むと、各国の音楽家をまとめたページに辿りつく。あっという間に『ウィリアム』という名前の男性ピアニストが写真つきの一覧で表示された。そのうちの一人、アメリカ人のウィリアム・ロングマイヤーという人を見て社長が「こいつだ!」と声を上げる。確かにさっきのウィリアムだった。

 翔馬くんはさらにウィリアム・ロングマイヤーという名前自体で検索し、彼の顔写真を何枚か表示した。それとネット上に出ている簡単な経歴も。その片手間に琴子社長にスマホを渡して、惠さんに電話をかけさせる。


「──惠ちゃんか?」


 社長の顔はぱっと明るくなった。スマホを耳から離してスピーカーモードにする。

 途端に翔馬くんの指が目まぐるしく動き、中央のモニターには色々なウィンドウが表示され、最終的には大阪府内の地図とそのなかを移動する赤い点が現れた。赤い点は大阪中央環状線を北上している。

 ……苑爾さんが先程「グレーなほうの特技」と言った意味がわかってきた気がするぞ。


「社長? 心配かけてごめんね。怪我しなかった?」

「ことこはだいじょうぶだ。惠ちゃんこそ大丈夫なのか」

「うん、へいきだよ。忍くんにもびっくりさせてごめんねって伝えてくれる?」


 案外元気そうだし、危害を加えられたわけでもないみたいだ。僕と社長は顔を見合わせてほっと胸を撫で下ろす。

 一方、彼女の声を聞いて表情を険しくしたのは、苑爾さんだった。


「惠ちゃん」

「……苑爾くん、いたの」

「いるわ。──惠ちゃん、嘘はいけないわよ」


 苑爾さんは断言した。いっそ惠さんを責めるように。


「翔馬この通話、向こうの車につないで」

「……イエッサー」


 翔馬くんはへの字口になりながらもあれこれ操作して言う通りにしたようだった。簡単にイエッサーとか言ったけどここからそんなことできるの? 翔馬くん何者? 内心恐れ戦いたが、さすがの僕も空気を読んだ。今どきの男子高校生が怖い。


「ハァイ、ミスタ・ロングマイヤー。初めまして。あたしの名前は六条苑爾」


 苑爾さんは努めて慇懃に自己紹介をしたあと、


「あなたの故郷のアメリカや在住のオーストリアじゃどうだか知らないけど、日本では営利・猥褻・結婚・生命または身体に対する加害の目的で人を誘拐した者は刑法二二五条の営利目的等略取及び誘拐罪に該当するの」


 淡々と、薄い笑みすら浮かべて捲し立てる。


「或いは人を無理やり車に乗せて降車できなくすることは刑法二二〇条の監禁罪に当たるわ。警察に通報されたくなかったらとっとと惠を帰しなさい。車種もナンバーも控えてあるから安心して。レンタカーのようだけど府内の会社の記録やNシステムを洗えば特定は容易なのよ、情報社会バンザイ」


 ウィリアムは日本語が解らないのでは……というかそれは脅迫では……。僕と社長はたまらず手と手を取り合って震え上がった。普段温厚なぶん、怖さが三割増しである。


「帰さないというのならこちらも手段は選ばないわ。具体的手段を挙げるわね。まずお手持ちのスマートフォン、それとオーストリアにあるあなたの自宅のパソコンとIOT家電をショートさせるわ。電子機器は全て使えなくなると思ってちょうだいね。それから近畿圏に在住するバイカーに声をかけてあなたの乗っているレンタカーを追跡させる。大丈夫よちょっと短気だけどみんな堅気だから。それでもどうしても惠を連れ回したいというのなら別の方法も考えるけれど、いかが?」


「怖いな」翔馬くんが忌憚ない意見を述べた。こくこくこく、と首を縦に振って同意する。というか苑爾さんがあまりにも脅迫し慣れているような……。

 電話の向こうは沈黙した。

 ややあって惠さんが「苑爾くん、やるって言ったらやるよ、けっこう血の気が多いから」と零す。そこでようやく大きなため息が聞こえた。


「……私は惠と話がしたいだけだ」


 日本語喋れるんかいっ。


「あなたが事前に惠ちゃんにきちんと連絡を取って、予定を合わせて、喫茶店なりレストランなりで会って話しましょうってことなら、こっちだってこんなことしないわよ」

「惠。貴女の友人は一体どうなっている」


 あんたが言うな、と僕は内心で思ったが苑爾さんは容赦なかった。「あなたにだけは言われたくないわ」と一刀両断。


「それじゃスマホを一一〇番通報の一手前にして待ってるわね」


 翔馬くんのモニターの一枚に映っていた地図上で、赤い点が大阪中央環状線から逸れ、方角を変えて再び環状線に乗る。いとゆう荘に向けて戻ってきているようだ。

 たかたかとキーボードを操作していた翔馬くんが苑爾さんを呼ぶ。


「電話してる間にウィリアムのプロフィール集めてみたんだけど」


 モニターの一枚に表示されているのは色々なSNSの画面だ。しかもそのなかから個人情報に関する投稿をピックアップされている。翔馬くんがそういうプログラムを独自に組んでいるみたいだ。

 ピアニストとして活躍しているらしいウィリアムだから、SNSも本名でアカウントを持っているのだろうけど……それにしたって片手間にここまでやってのける翔馬くんが凄い。

 翔馬くんが指さした画面は、フェイスブックに投稿された記事だ。今よりも若いウィリアムが、顔立ちのよく似た少年と二人でピアノを弾いている写真つき。……弟?

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