に、誰だ貴様なんて単語教えたの
惠さんについて知っていることはそう多くない。
いとゆう荘から歩いて十五分くらいのところにある菖華音大に通っていること、ピアノ専攻であること。二〇四号室の住民で、遊戯室でピアノを録音してはユーチューブに投稿していること。端麗な佇まいで、仕草が上品で、言葉からしてどうやら関西の生まれではない。森のなかにひっそりと建つお屋敷に仕舞い込まれた、硝子細工みたいな人。
休日はよく琴子社長に乞われて楽しげな曲を弾いている。
今日はジブリメドレーである。
昼食後、社長に手を引かれて遊戯室へ引っ張り込まれた僕は、チェスターフィールドのソファで膝を抱えて翔馬くんに借りたマンガを読んでいた。惠さんは黒い鯨みたいなグランドピアノに寄り添い、歴代ジブリ映画の主題歌を連続で弾いている。
社長は楽しそうに歌っていた。ことさらテンポのいい『となりのトトロ』の曲でテンションが上がっている。惠さんもそういうアップテンポの曲を選んでいるようだった。
「しのぶはジブリだと何が好きだ?」
「えぇ……なんだろ。『猫の恩返し』かな」
「ふむ。よい趣味だな」
ジブリはけっこう胸を抉る作品が多いからなあ……。僕はスカッとするようなアクション系の映画が好きで、あんまり辛いシーンのある作品はメンタルにくるから避けがちだ。
「いいね。バロン、格好いいよね」
惠さんの指が「風になる」を奏ではじめた。
しかもそのまま女子二人で、ジブリの格好いい男性キャラについて語りだす。両手の指を鍵盤に滑らせ、右足でペダルを踏みながら、社長と女子トークを繰り広げる惠さんはもはや人間以上の領域であるように僕には思えた。手と足と口が同時に動いている、すごい。
休日の昼下がり、グランドピアノの音色と子どもの歌声に包まれながら、鋲打ちのソファでマンガを読む──うっかり日常と化していたが優雅すぎる。
ぱたりとマンガを閉じて、現在『魔女の宅急便』の「やさしさに包まれたなら」を熱唱中の琴子社長をつついた。
「よろず屋はさ、苑爾さんが『ES』に入ったって聞いて社長が作ったって聞いたんだけど」
「うむ、その通りだ」
「今のところ大家さんのおつかいしかしてなくない?」
社長がカッと両目を見開いた。思わずびくりと体が揺れる。
「そこに気付くとは……しのぶ……さては貴様、なかなかやる気だな」
「誰だ貴様なんて単語教えたの」
「しのぶ、まだまだだな。『貴様』という単語は、もともとは相手にたいしてけいいをあらわす二人称だったのだぞ」
「へえ~……?」
こういう雑学が付随しているということは小説家の史龍先生仕込みかな。
「別にいいのだ。けいさつとしょうぼうとじえいたいとよろず屋は暇でいい。世界が平和ということだ」
スケールでっかいな。
まあ社長の言うことにも一理あるので、なるほどねとうなずいておいた。
するとその瞬間、台所にいた大家さんが遊戯室に顔を出したのである。
「しゃちょーう! 大変大変! 明日の朝のパンが切れてるわ!」
惠さんのピアノが途絶え、僕らは三人で視線を交わし合う。
社長が腰に手を当てて胸を反らした。
「よろず屋、出動!」
明日の朝のパンがないというわりに、大家さんから渡されたおつかいリストには「サラダ油」だの「みりん」「おしょうゆ」だの容赦ない品名が書かれている。僕や惠さんもはなから数に入っていたことは明らかだ。別にかまわないけど。
僕と社長と惠さんは三人で連れだって弥土駅前の商店街を訪れ、スーパーやドラッグストアでおつかいをこなしたあと、平穏無事に帰路についていた。事件が起きたのはその終盤、いとゆう荘まで残り五十メートルといったところである。
まず徐行する車が、僕たちの前方からやってきた。
社長を建物側にして手をつないでいた惠さんが、車を見て端に寄り、通り過ぎるのを待ったのは歩行者として当然の対応だった。両手に買い物袋を持っていた僕も倣って足を止める。
しかし車は僕らの目の前に停車したのだ。
助手席から一人の男性が降りてくる。外国人だ。白い額にブラウンの髪をなびかせ、映画俳優さながらの迫力で僕たちの言葉を奪った。背が高くて脚が長い。
道にでも迷ったのかなと、呑気な僕はそう考えた。どうしよう、英語で話しかけられたら答えられないぞ……。
惠さんがこくりと喉を鳴らしたのはそのときだ。
「……、……Willium」
やたら流暢な「ウィリアム」が聞こえたと思ったら、男性は英語で何事かを捲し立てると惠さんの手首を掴んだ。
理解が遅れて唖然とした僕よりも早く反応したのは社長だった。男性の脚にしがみつく。
「こらっ、なにものだ! らんぼうなまねはよせ」
彼は柳眉を顰めて社長の襟首を掴むと、子犬や子猫にやるようにぽいっとそこらへ放り投げた。「社長っ」幸い身軽な社長は買い物袋の中身を地面にばら撒きつつ着地したが、そのすきに惠さんは車中へ押し込められていた。
「惠さん!」
「忍くん、大丈夫だから──」
彼女の言葉半ばに後部座席のドアが閉められる。
ほとんど拉致の手際だ。男性はこちらを一瞥して、また何事かを英語で喋ったが、ごく一般的な高校レベルの英語しか修めていない僕には聞き取れない。
猛烈に腹が立った。──僕にしては珍しいことに。
一方的に英語で捲し立て、美しい旋律を奏でる惠さんの手に無遠慮に触れ、まだ小さな社長を乱暴に扱い、そしてまた英語で何かを言っているこの男に沸沸と怒りが込み上げてくる。
結果僕は、社長を抱き寄せながら、人生で一番大きな怒声を上げていた。
「日本語で喋れっ! なに言ってんのかわかんねぇよ!!」
男は片目を細める。しかし言い返すこともなく助手席に戻り、運転手に合図して車を発進させた。
惠さんは男性を指して「ウィリアム」と呼び、彼も最初から惠さんを目当てでやってきたようだった。仕草は荒っぽかったが「大丈夫だから」と惠さんが言うだけの根拠はあるはずだ。二人は知り合い同士なのだろう。
だとしても、あんな有無を言わせぬ連行の仕方は許せない。
「社長、『おさんぽ』行けるかな」
「いけるが、めぐみちゃんをおろすのはムリだぞ。おさんぽに同行しているいがいの人に触れてはいけないと、史龍たちと約束したんだ」
「わかった。ナンバーだけ憶えたいから三分ちょうだい!」
言い終えるや否や世界から音が消えた。
僕らの眼前から去ろうとしていた車が走行中のまま止まり、ちょうど電線から羽ばたいたところだった鳥が中空に留まる。僕と社長だけが呼吸する世界。三分間だけ神さまから与えられた、おさんぽの時間だ。
社長と手をつないだ僕は、車のナンバープレートを注視した。
「社長、上のところ憶えてて。『大阪580』」
「おおさかごーはちぜろ!」
「わナンバーだからレンタカーだ。とりあえずいとゆう荘に戻って大家さんに相談しよう」
「おおさかごーはちぜろ、ごーはちぜろ、おおさかはちごーぜろ」
「社長、850になってる」
車のナンバーと車種とを携え、僕と社長はいとゆう荘に戻った。
大家さんに事情を話すと「ウィリアムなー、聞いたことある名前やな」と苦い顔でうなずいている。
「確か、惠ちゃんが留学してた先で知り合うたピアニストちゃうかな」
「え、音楽留学してたんですか。いつ?」
「日本でいう小学校から中学校までほぼ丸ごとオーストリアって聞いてるな。でもそのときに色々あってピアニスト目指すんはやめた、て……」
僕はウィリアムと邂逅した瞬間の惠さんの横顔を思い出していた。
彼を呼んだ声はほんの僅かに強張って、白い頬は蒼褪めていた。……留学中に起きた『色々』は決して善事ではなかったのだ。
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