第四話 神さまのピアノ
いち、インターホンという存在を知らない
いとゆう荘の食堂にあるソファは柔らかくて寝心地がいい。
みんなが使うソファだから、独占して寝そべるなんてことは普段であれば畏れ多くてとてもできないのだが、言い訳するとその日はとても天気が良くてぽかぽかしていて、お昼ご飯がおいしくてお腹いっぱいだった。
しかも隣の遊戯室からは惠さんの演奏する優しいピアノ曲が響いており、極めつけに、自立した女性を目指す八歳児の琴子社長が「しのぶ、風邪をひくぞ」とタオルケットを貸してくれたのだ。これで寝るなと言う方が無理である。
体を横に倒して、いくつものクッションを枕にうとうとしていると、色んなことがどうでもよくなってくる。
例えば、実家にひとり残してきた母親がちゃんとご飯を食べているかとか。
例えばアルバイトをしたいと思いつつ自分の職業適性がわからないとか。
未だに社長から「忍、友だちできたか」って心配されていることとか。
このあいだの苅安さんのお手伝いで、自分が壊したものの大きさを思い知ったり。
意識が優しい泥濘に浮沈を繰り返す。こういううたた寝の最中の、寝てると起きてるの間の状態が、一番未来視が起きやすい。それが解っていたから、バチンと音を立てて神示が叩きつけられたとき、案外冷静に画を見つめることができた。
───『抱き合う男女』
『黒いワンピース』 『薄茶色の長い髪』
『いとゆう荘の桜の木』
いち、に、さん。秒数を数えきると同時に意識が浮上する。気持ちいい微睡みのなかにいた僕を無理やり起こしたのは、お腹の上に跨る琴子社長の重みだった。
「しゃちょう……重いよ……」
「女性にたいしておもいとはなんだ」
「自立した女性はお昼寝をしている人のお腹に乗り上げないと思います……」
「むむ」
白い眉間に皺を寄せた社長がいそいそと下りていく。彼女の体重なんてたかが知れているんだけど、例えば不意打ちをくらうのが僕じゃなくて史龍先生だったとしたら、年齢的にどこか痛める可能性もあるかもしれないので注意するに越したことはない。
僕はぼんやりする頭のなかで先程の画を吟味した。
「……社長」
「うん?」
「惠さんって……」
彼氏いるの?
と訊いたところで八歳児が知っているとは思えないから、質問をそこで飲み込んだ。
暴力を揮われているような不穏な画を視たわけでもなし、余計なことは言わないほうがいいだろう。
遊戯室からは昼寝前と変わらず、透明に張り詰めたピアノが響いている。
✿
僕が大学で親しい友人を作ろうと思えない原因が、これだった。
もちろん自分の対人スキルが低いのも原因のひとつだけど──それより何より、気まずい未来を視てしまったときが気まずすぎるのだ。
僕の未来視は、これから一週間以内に僕がその場に居合わせる場面を『画』として視る。
つまりこれから一週間以内に、いとゆう荘の庭に生えている桜の木の下で、惠さんが彼氏っぽい男の人と抱き合うところに居合わせるということだ。
「何をどうしたらそういうシチュエーションになるんだよ……」
ハァ、と溜め息をついて洗面台の蛇口を捻る。顔を洗ってタオルで拭きながら鏡を見ると、相変わらずそこはかとなく幸薄そうな母親似の自分と目が合った。
洗面台に置いてあった透明ピアスを指先で拾う。
一般的には『夥しい』に分類される個数を、一つひとつ数えながら、耳朶の孔に差し込んでいく。普段は髪の毛で隠しているから誰かに指摘されたことはない。知っているのは従兄くらいのものだった。
左耳が済んだら、次は右耳。
ピアスもしないのにホールだけはあるなんて、本当、バカっぽい。
顔にも似合わないし面倒だし、放置して塞いでしまえばいいんだけど、まだそういう気分にはなれなかった。
朝っぱらから自分の拗らせ具合にうんざりしたところで、ごんごんごんごん、とドアがノックされた。いとゆう荘の住人はインターホンというものの存在を知らないのである。慣れた。
「はーい」
「忍くん忍くん、ちょっと入れて!」
ドアを開けると、するりと苑爾さんが体を入れてきた。
「おはようございます」と言いつつ迎え入れて、朝っぱらから顔も髪も服装も立ち居振る舞いもバッチリ決まった爽やかイケメンと向かい合う。眩しい……。
「社長から聞いたんだけど、めぐちゃんに恋してるんですって?」
「……、……はい?」
なんでそうなった。
思わず絶句した僕に、苑爾さんはアラと首を傾げる。いやアラじゃないんだよ。
幸い、基本的に理性的な二〇五号室の住民の暴走はそこで止まった。僕は先日のうたた寝で視た未来のことをちょっと曖昧に、そして惠さんはとてもいい人だけど今のところそういう気持ちはないことをはっきりと説明した。
「フゥンなるほど、惠ちゃんが男と仲良さそうにしている未来ねぇ」
「僕のほうこそ、訊きに行こうと思っていたんです。惠さんって彼氏はいるんですか?」
「それがねぇ、いないのよ」
……それはそれで話が変わってくるな?
世の中には色んな距離感の人がいるから、彼氏じゃない男性と抱き合ったって平気な人も、そりゃいるだろう。惠さんがそういうタイプなら問題はないのかもしれない。
ただ、そうじゃなかったら。
無理に強いられたのだとしたら、それは途端に『よくない未来』だ。
「惠ちゃんのご両親は日本内外を飛び回ってる人だし、一人っ子って話だし、誰彼構わずハグする子でもないし……。相手の男、どんなだったか憶えてる?」
どうだろう。僕は目を細めて記憶を引っくり返した。
未来視の啓示は三秒しかないし、どちらかというと惠さんだということに気を取られていたから、相手のことまではよくわからない。
「背は……多分高かったです。惠さんより頭一つ分くらい」
「惠ちゃん一六〇センチはあるから、赤金よりでかそうね」
「服がスーツだったかも。あとは顔も見えなかったので、よく……」
苑爾さんは細い顎に手をやって目を伏せた。長い睫毛が頬に影を落とす。
本当に顔が整っているなこの人は。真面目に考えている苑爾さんには悪いけど僕は感心した。これでどうして女性言葉なんだろう。
もうしっくりきちゃったし、なんなら似合っているからいいんだけど、謎は謎だ。
「……惠ちゃん、このあいだ同じ大学の男に告白されたらしいの。ただ赤金よりでかいってことはないはずだし、そいつじゃなさそうね」
「苑爾さんって」
そこで口を挟んでしまったのは、純粋に気になったからだ。
「……苑爾さんこそ、惠さんと仲がいいですけど、どうなんですか」
目を丸くした彼は、そんなこと思いもよらなかったというふうにパチパチ瞬きをする。
やがて微笑みを消して、そうね、と首を傾けた。
「惠ちゃんねぇ、あたしが一番守ってあげたかった子に似てるの」
ほんと屋さんの苑爾さんじゃなくても、ああこれは真実なんだなぁと解る。
だって苑爾さんは、治りきらないまま膿む傷の痛みに耐えるような表情をしていた。
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