ご、ピアノに神も何もない
重苦しい沈黙が降りた。
「それがわたしのせいじゃなくて何のせいなの」
……その自罰的な言葉には覚えがある。
僕自身の心のなかにも、いつも在る。
──“どうしてもっとちゃんと言ってくれなかったの”
他者のなかに見出せば、こんなにも痛々しく歯痒い。他の誰でもないウィリアムが、コーネリアスの家族が、惠さんのせいではないと断言したのに。おかしい。詳しい事情なんてひとつも知らないけど。絶対にこんなのはおかしい。
だって、僕が視た未来視では、ウィリアムと思しき男性と惠さんは抱き合っていた。
僕や苑爾さんが最初心配したように無理に強いられたことじゃなくて。
例えば、そう、別れを惜しむように……きっと、こんな別れ方をするはずの二人ではないのだ。
ならば。
僕は食堂を飛び出した。背中に社長が「しのぶ」と呼ぶ声がかかったが振り返れない。ウィリアムの背中はちょうど待機していた車の助手席に収まろうとしているところだ。車のエンジンはもうかかっている、ウィリアムがシートベルトを締めたら出発してしまうかもしれない。
だめだ、待って。
だってまだ二人とも生きているのに。
「……待って!」
ほとんど体当たりの勢いで、動きはじめた車の後部座席の窓を叩く。車内の二人がぎょっとして振り返った。ブレーキがかかって、僕はそのまま窓に額をぶつけた。
「待って……。まだ行かないでください」
「忍くんなにやってるの危ないでしょ!」
「だってこんなお別れおかしいです!」
追いかけてきた苑爾さんは、未来視のことを思い出したのかぐっと黙り込み、しかしすぐに顔を顰めて僕の頭を引っ叩く。痛い。けっこうな威力だ。
「そうかもしれないけど、怪我したら元も子もないでしょ」
「う……。すみません」
確かに一歩間違えば人身事故だ。でも、でも、止めなくちゃと思って。心の中でぐだぐだ反論してしまう。
すると「危ないだろう」と、至極真っ当な注意とともにウィリアムが車を降りてきた。返す言葉もないけれど、僕は頭一つぶん高いところにある彫りの深い顔を見上げる。青灰色の、理知的で静かな眸は、感情を悟らせてくれない。
「本当はもっと違うことが言いたいんじゃないんですか」
いとゆう荘から出てきたみんなが駆け寄る音が背後に近付いてきた。
「はるばるオーストリアから会いに来て、強引な手段で惠さんに近付いたのは、事前に連絡したら逃げられると思ったからでしょ。けんかして帰りたかったわけじゃないはずです。本当は惠さんに何を言いに来たんですか」
惠さんが拉致されたと知った苑爾さんは激怒したが、一度もウィリアムの言葉を「嘘だ」と言わなかった。
惠さん自身に対しては「嘘はいけない」と言ったのに。
彼は吐息とともに肩を下ろして、二、三度頭を振る。
それから僕の後ろを見やると、「惠」と静かに呼び掛けた。
「貴女は……いつもそうだ。人の目を見ようとしない」
「……うん」
「貴女がひたすらに、まっすぐに、目を合わせていられるのはピアノだけだった。小さな頃から。ピアノもまた貴女を見つめている。私も、コーネリアスも、そういう貴女が好きだ」
ウィリアムの日本語は上手いけど、母語じゃないから語彙に制限がある。だからけんか腰になったり、否定的な言葉になったりする。日本人だって日本語を十全に使いこなせるわけじゃないのだ。
「貴女の旋律は美しい。世界に知られるべきなんだ」
惠さんは僅かに下を向いていた。
ウィリアムの言う通り、彼女は顔を向けていても視線を下に逸らしていることが多い。
あんぷ屋さんたる彼女が他者を守るための策なのだ。誰かの感情を、特に負の感情を、本来以上に拡げないための。
✿
古賀惠にピアノの才能があるとわかると、音楽家の両親は生活の拠点をオーストリアに移すと決断した。十二歳のとき歴史ある音楽大学に飛び級で入学し、同い年のコーネリアスに出逢った。大学で同級生だったウィリアムの紹介で、別の大学に通うコーネリアスに引き合わされたのだ。
国際コンクールで入賞常連だったコーネリアスのことは惠も知っていたし、コーネリアスも当然、若干八歳にして海を越えてやってきた日本の少女のことを知っていた。
コーネリアスは美しい少年だった。
色が白くて、茶色い髪はさらさらのカールヘア。華奢で、すらりとした手足。長い指。彼が黒と白で構成されるグランドピアノを弾く姿はまるで古い洋画の一場面を切り取ったみたいで、惠はだから、コーネリアスが伏し目がちに演奏するところを眺めるのが好きだった。
普通の十二歳が目を覚ます頃には、惠はピアノを弾いている。彼らが学校に行って、恋愛や友だちの話をするあいだに惠は楽譜を読んでいる。ドッジボールで遊ぶあいだにレッスンを受けている。帰宅してすぐ遊びに出掛けるあいだも、家族で食卓を囲うあいだも、惠はひとりピアノを弾いている。自分の生活が普通の子どもたちとずいぶん違うことには気付いていたけれど、その時点で惠は自分がピアノを弾くことに疑いを持っていなかった。
──弾くために生まれた。
だけど、
「ピアノが弾けなくなったら僕ら、何をして生きていくんだろうね」
コーネリアスはそういう不安に憑りつかれていた。
若き天才ピアニストという非凡かつ凡庸な称号や、クラシック界とかピアノ界とか大層なものを勝手に背負わされる一方で、自分の人生を振り返ったときピアノを弾いた記憶しかないことに恐怖を感じていたらしい。
今までは子どもだったから、世間は物珍しさで持て囃してくれたけれど、これから大人になればどうかわからない。
自分が才能の壁に跳ね返されて凡人となったとき、その凡庸さに耐えられなくなったとき、それでも彼にはピアノしか残されていないのだった。それが彼には堪らなく恐ろしかった。
「……弾けなくなったらって、どういうとき? 指を怪我したとき?」
「うーん……。そういうんじゃなくてさ」
コーネリアスはウィリアムとともにウィーンのアパートに暮らしていて、惠はたまに彼らの部屋を訪れては一緒にピアノを弾いた。
グランドピアノが置かれた殺風景な防音室。
惠は開け放った鎧戸の傍で丸椅子に腰かけ、斜め後ろからコーネリアスの耳や頬を眺めている。
「弾いても結果が出なくなったとき。誰にも価値を認めてもらえなくなったとき。ピアノで生きていけなくなったとき。惠は不安じゃない?」
「あまり考えたことがない。わたしはピアノを弾くのが好きだから、例えば両手がなくなったとか寝たきりになってしまったとか、そういうのじゃない限りピアノを弾くと思う……」
「惠らしいね」
ピアノソナタ第十四番、「月光」。彼の好きな曲。
コーネリアスの言葉の意味はよくわからないけれど、彼がなんだか不安に思っているらしいことは惠にもわかった。
音が違う。奏でられる旋律に薄っすらと絶望が混じっている。
「惠のピアノには欲がないからなあ。羨ましいくらいに」
「欲……?」
「神さまみたいだ」
“神さまのピアノ”コーネリアスはよく惠の音をそう称した。
ピアノに神も何もない、と惠自身はそう思う。あるのは楽器と奏者だけ。
いや、違うかも。楽器がこの世に誕生するまでに幾人もの手を経て、管理維持や調律にも人の手を借り、奏者を奏者たらしめるための気の遠くなるような本人の努力、誰かの協力、そして聴衆。数えきれないほどの人の心が係っている。だとしたらその心の集合体を神さまと、コーネリアスは感じるのかもしれない。
宗教に関してはわりあい寛容な民族である日本人の惠には、キリスト教徒のコーネリアスの言う“神さま”がよくわからない。
ただ惠がコンクールの成績にあまり拘泥しない性格なのは確かだ。欲がない、というのはそういう部分なのだろう。
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