ろく、コーネリアスが愛したわたしのピアノ

「惠、弾いて」


 ついぞ彼の「月光」から絶望が消えることはなかった。コーネリアスは静かに席を立ち、薄く微笑んで惠に椅子を明け渡す。


「ラフマニノフがいいな」

「第二?」

「うん。聴かせて」

「好きだね、コーネリアス」


 彼と一緒にピアノに向き合えば必ず演奏を乞われる曲だった。「好きだよ」と笑う彼に微笑みを返して鍵盤を押す。ポ───ン……と静寂を切り裂く一音。ピアノは一台一台で音や性格が異なるし、その一台についても気温や湿度やその他色々な要素のためにその日その日で鍵盤の感触が変わり、音もまた変化する生き物だ。惠はいつも世界に一台のこのピアノ、今日この瞬間の調子を確かめてから指を這わせた。

 ラフマニノフ、ピアノ協奏曲第二番。

 グランドピアノだけが置かれた殺風景なウィーンの一室。

 コーネリアスは開け放った鎧戸の傍で丸椅子に腰かけ、風とともに流れるラフマニノフに聴き入った。


「僕、わかっちゃった」


 ふと惠が顔を上げると、やけに穏やかな顔をしたコーネリアスと目が合った。

 ──目が、合った。

 コーネリアスの薄水色の双眸は柔らかな光を湛えていた。


「この世に惠のピアノがある限り、僕がピアノを弾く必要なんてないんだ」

「……? わたしがピアノを弾くこととコーネリアスがピアノを弾かないことと、関係があるの?」


 どうしてだか嬉しそうに彼は言った。


「惠のピアノは神さまみたいだね。戯れのような音ひとつとっても」

「コーネリアス?」

「惠。僕、きみのピアノを愛してるよ」


 そして十五歳の少年は窓から身を躍らせた。

 何が起きたのか理解する前に、惠の耳には、たったいま愛してると嘯いたコーネリアスの体が地面に叩きつけられる音が届いた。

 コーネリアスは死んだ。

 まもなく世界中へ羽搏こうとしていた若き天才は、翼が生えるのを待つことができなかったのだ。





 これは、ウィリアムを見送ったあとの惠さんから聞いた話だ。

 当時きっと彼女の周囲の誰もが惠さんのせいではないと言っただろう。けれど彼女の特異な影響力を知る僕たちには、迷いなく断言するということはできなかった。

 僕たちの力は時に人を殺す。

 僕も、それを知っている。


 ともかく冷静さを取り戻したウィリアムと惠さんは、いとゆう荘の庭にあるベンチに座って静かに会話をしていた。

 僕たち外野組は、エントランス前に腰を下ろして、その様子を眺めている。


「あたしたちピアノの教養がなくてよかったわね」


 苑爾さんは膝を抱え込みながらそう言った。


「音楽のことなんてサッパリわからないから、惠ちゃんのピアノを能天気に凄い凄いって聴いていられるけど。そうじゃなければウィリアムみたいに憑りつかれるか、レベルの違いに絶望するか、どちらかなんでしょうね」

「確かに。楽譜が読めて、憶えられて、そんで右手と左手と足が全部違う動きするって意味わかんないよね」


 翔馬くんは同意したのだが苑爾さんは彼をじとりと睨む。


「あのね、あたしからすると翔馬のゲームもドラムも同じ『意味わかんない』技術よ」

「えー? 別に大した技術じゃないよ」

「ことこはしのぶみたいに映画を二時間ちゃんとねないでみられるのすごいと思うぞ!」

「そ、そう……? ありがとう」


 社長がいつかの惠さんと同じことを言いだした。と思ったら、満足そうに腕組みをしてふんふんと辺りを歩きはじめる。探偵気取りか。


「ことこ最近、としょしつで詩集をよむのにはまっているんだが」

「高尚な小二だなぁ」と翔馬くん。

「これはまさに『みんな違ってみんないい』というやつではあるまいか?」


 当然、小学校の国語の教科書に載っているその詩を知る僕たちは、あー、とうなずいた。


「……色々難しいこともあるけど、そういうふうにあれたらいいよね」


 大阪へ到る新幹線のなかでその詩を心に唱えてから、はや二ヶ月が経とうとしている。

 あれから僕はどこか変わったのか、それとも何も変わらなかったのか……。


 視線の先では惠さんがウィリアムにタブレットの画面を見せているところだった。


「ウィリアムは、わたしのピアノが世界に知られるべきだと言った。確かにわたしも、プロになってコンサートを開いたり、国際的なコンクールで賞を獲ったりする、そのこと自体にも大きな意義はあると思う」

「ああ」

「それでね、これ見て」


 と、惠さんは自分のユーチューブのチャンネルを見せたらしい。

 彼女のチャンネルは多分、いち音大生のピアノ動画としてはかなりの視聴数を誇る。チャンネル登録者数だって、僕は数を見たとき目を疑ったのだが二百万人を優に超えているのだ。余裕で金の盾がもらえる数だよ。


「半数以上は日本人以外の人なのよ。ピアニストのコンクールもコンサートも一般人には敷居が高いことを思えば、じゅうぶんたくさんの人に聴いてもらえている」


 これにはウィリアムも閉口していた。

 ……ていうか、チャンネルのこと知らされてなかったんだ。惠さんのピアノ大好きなのに。ちょっと不憫だ。


「きっとわたしは、一生、コーネリアスを殺したわたしのピアノを赦せない」


 ウィリアムは反論しようとして、しかし飲み込んだ。

 自分の言葉で他人を変えるのは容易ではないと気付いたのだろう。


「だけどコーネリアスが愛したわたしのピアノを、やめることはないと思う」





 穏やかな帰り際、ウィリアムは惠さんに一枚のチケットを渡した。

 日本で行うコンサートに彼がピアニストとして出演するのだ。「これを渡したかった」と若干疲れた顔で言った彼に、惠さんは「もう自分で買ったよ」と笑った。こっちの心配をよそに、二人の色々な事情が噛みあわない以外は至って仲がいいらしい。

 すっかり緑色に染まったいとゆう荘の桜の下で、二人のピアニストは向かい合う。


「今度はちゃんと、事前にアポを取ってね。じゃないと後ろの人たちが暴走しちゃう」


 惠さんの言葉に、ウィリアムがこっちを見た。

 大暴走して洒落にならない脅迫までした三人はそっと視線を逸らす。


「訂正するよ。仲間想いで、興味深い友人たちだ」


 ここにきてようやく表情を綻ばせたウィリアムは、片頬をクッと上げて微笑んだ。それから頭一つ小さな、弟の愛したピアニストを見下ろす。


「きっとこれまで、何人もの人間に、何度も何度も言われたことだろうけれど、私も言う」


 ウィリアムはやさしい声で語りながら惠さんを抱き寄せた。惠さんはされるがままウィリアムの腕のなかに収まる。

 親しい相手同士が別れを惜しむ、穏やかな抱擁だった。


「貴女に罪はない。どうか自分を赦してあげてくれ」

「…………」


 自分の言葉で他人を変えるのは容易ではない。それでも言葉を捧げ続けるしかない。どう足掻いても変わらない過去に対しては、それ以外に道はない。


 惠さんはもう答えなかった。

 赦すだろうとも、赦さないだろうとも。

 ただ黙って、ウィリアムの背中に手を回した。




第四話、おしまい

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