第五話 神さまの椅子

いち、悪い夢だ

 ……一人の青年が倒れていた。

 仰向けで両手両脚を地面に投げ出し、ぴくりとも動かない。

 色白の頬にすっきりと通った鼻筋、二重瞼の虚ろな双眸に薄い唇。ちょっとなかなかお目にかかれないほどの端麗な顔立ちははっきりと蒼褪めている。フードつきの黒パーカー、カーキのカーゴパンツ、右手首には白いGショック。

 顔や首には切られた跡があり、特にお腹の辺りを執拗に刺されているように見えた。だいだい色や茶色のタイルが敷き詰められた地面には赤いものが滲み込んでいる。惨劇を裏付けるように、彼の傍らにはナイフが落ちていた。刃渡り数センチ。柄は黒。付着した血がぬらりと不吉に光る。


 何者かに刃物で襲撃されたその人のもとに、僕は駆け寄ろうとしていた。

 周囲の情景は霞がかかっていてよく視えない。こういう未来視の場合、僕自身も相当焦っていることを示している。

 当然だ。

 だって僕はこの人を知っている。

 誰がどう見たって好青年で、イケメンで、口調は独特だが誰にでも親切で、明るくて優しい。ひとの言葉に色彩を感じ、真偽まで判別してしまうという力の持ち主だけれど、その力を疎むことなく自然に受け入れている。

 僕にとっては非の打ち所がない、憧れの先輩だ。



 ──死んでいるように見える。

 六条苑爾そのひとが。



「っ……!」


 体が強張る感覚で目が覚めた。

 長いこと呼吸を忘れていたような気がする。

 思い出したように息を吸い、ゆっくりと吐いて、手足の指先からゆっくりと感覚を確かめていった。

 時間をかけて呼吸のリズムを正常に戻し、気怠い上体を起こした。

 まだ心臓がどきどきしている。


「なんで、苑爾さんが……」


 震える手を握りしめて、先程の画を掻き消すように目を閉じた。

 しかしどれほどきつく目を瞑っても、苑爾さんの蒼白い頬や地面に投げ出された手が、頭から離れない。


 かなりの出血量だった。

 ……生きているようには、見えなかった。


「考えるの、やめ。やめよう。起きよう……」


 一人でいると余計なことまで考えてしまいそうだったから、身支度を整えて食堂に下りることにした。

 一階に下りると、食堂の窓から明かりが洩れている。住民たちの朝食の時間はまちまちだが、少なくとも大家さんはいるはずだ。人の気配にほっとしてドアを開けようとすると、それより先に内側からドアが開いた。


「あれっ、忍くんおはよう、今日は早いやん」

「美沙緒さん……。おはようございます」


 スーツもメイクもすでに『先生』モードになっている二〇三号室の時任美沙緒さんは、僕の姿を見て首を傾げる。朝が早く、時間も決まっている彼女と違って僕はいつものんびりと朝食に行くので、あまりすれ違うことがないからだ。


「熱でもある? 顔色、悪いけど」


 躊躇いなく伸ばされた白い手が僕の前髪を掻き上げる。指を四本揃えて額に当てると、自分の額と較べて「うーん」と眉根を寄せた。


「うん。わからへんわ」

「なんやのー? 忍くん体調不良?」


 入り口で立ち止まっているからか、キッチンにいた大家さんもやってきた。


「いや、だ、大丈夫です……」

「そお?」


 慌てて首を横に振った拍子に美紗緒さんの指は離れていった。彼女はまだ胡乱な目を向けていたが、腕時計に視線を落として顔を引き攣らせる。


「やば、遅刻する! 忍くん調子よくないんやったら無理せんときや。行ってきます!」


 カツカツとヒールの音を響かせて、美沙緒さんはいとゆう荘を出ていった。


「ハァイ行ってらっしゃ~い」

「行ってらっしゃい……」


 大家さんがのんびりと手を振って見送るのに続いて、僕も彼女の後ろ姿をしばらく見つめた。


「ほんで、忍くんはなんか悪い夢でも見たん?」


 手を振り終えたその延長線で、大家さんがぽんと頭を撫でてくる。二人にそうして気遣われて、ようやく僕は、自分の顔の筋肉がひどく強張っていることに気がついた。

 悪い夢。

 そうだ、あれは……悪い夢だ。

 悪い夢にしなければならない。


「……はい。そんなようなものです」


 生まれて初めて、強く、強く思った。

 あんな未来を受け入れることはできない。



 ───未来を変えなければ。






 この体質が最初に発現したのは、おそらく五歳くらいの頃だ。

 僕自身はよく憶えていないけれど、同じ保育園に通っていた同級生が、中学校に上がっても『予言マン』と揶揄してきたから多分合っている。松雪は保育園の頃から何かと未来が視えると法螺を吹いたのだ、だから予言マンなのだと、思えばしつこく絡まれたものだった(ちなみにそういう絡みが鬱陶しくなって、中学一年の冬頃からは不登校になった)。

 小学生の頃はそう悪目立ちもしなかったのだ。みんな、自分だけの力、というものに憧れを抱く年頃だったから。

 真偽のほどは不明だけど、霊感があると自称するやつも何人かいた。僕はそういう子たちのうちの一人として数えられていた。


 自称していた周囲の子どもたちは、年齢とともに徐々に冷静になっていく。

 最初から自分の未来視を正直に喋っていた僕は最後まで取り残された。

 退くタイミングを見誤り、見事に痛いやつ認定を受けたのである。これには僕にも非があるなと、今となっては思う。もっと早く気付くべきだった。

 やがてクラスメイトのからかいの対象になることが増え始めた小学五年の初夏、事件は起きた。


 一枚の画を視たのだ。

 見たこともないような茶色い濁流に、祖父の家が流されている画だった。──正しくは、その様子を中継されているテレビの画面を、自分が見ている画だ。

 当時、川の氾濫とか洪水とか堤防の決壊とかいう災害の存在もよくわかっていなかった僕は、それをつたない言葉で母に伝えた。

 母は本気にしなかった。

 それまでの未来視といえば、登校中に猫が前を通るだの休み時間に誰かが転ぶだのという程度のものだった。だから未来視ではなくただの夢だろうと思ったらしい。

 それから一週間後、母の実家は、三日間続いた豪雨に伴う堤防の決壊で流された。


 母が幼少期を過ごした家は跡形もなく押し流された。避難が間に合った数名の知り合いが助かったらしいが、思い出の場所は悉く濁流の餌食となった。当然、為す術もなかった。

 祖父が遺体で見つかった。

 祖母の遺体はまだ見つかっていない。多分もう見つからない。


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