く、苑爾は苑爾以外の何者にもなれない

 幸丸大学から北に徒歩二十分のところに、菖華音楽大学の正門がある。

 苑爾は待ち合わせ相手を待つ間、赤金に電話をかけた。着替えを借りたメッセージに既読がついていなかったためと、おそらく尾行を指示されていた苅安たちに文句を言わないよう釘を差すためだ。


「もしもし? どうした」


 第一声を聞いて、おかしい、と感じた。

 赤金の声がいつもと違う。周囲に気を遣うような、遠慮がちな声の出し方だ。普段の赤金なら、電話はちゃんと落ち着いて話せる場所に出てから取るはずだ。ちゃらんぽらんだがそういう点では律義なやつなので。

 後輩の人生相談中なのだろうか。相談しにきた後輩を余計に迷わせるようなことを言っていないといいけれど。


「さっきメッセージ入れたんだけど、読んでない?」

「……読んでねえ」


 音大だけあって、様々な楽器を抱えた学生が行き交っている。

 他大学の校門前に立っているのは変な感じだが、高校と違って全員私服なので悪目立ちすることもない。自分の趣味でない服を着て、自分の在籍しない大学にいる。


 一瞬だけ、自分が六条苑爾以外の何者かになったような気がした。

 錯覚だ。

 苑爾は苑爾以外の何者にもなれない。


「……悪いけど、あんたの服借りてるわよ。本部に置いてあった黒のパーカー」


 ふた呼吸分の沈黙。

 やがて絞り出された赤金の声のトーンはひとつ下がっていた。


「……おい、今どこにいる?」

「菖華音大前よ。なに、もしかして借りたら悪かった?」


「菖華音大?」文句をつける赤金の音声が揺れる。スマホを持って移動しているようだ。電話の向こうでちりんちりん、と鈴の音が鳴った。『青い鳥』のベルだ。やっぱり店内で電話をとったのか、珍しい。


「なんでそんなとこにいんだよ」

「惠ちゃんとデートの用事」

「惠ちゃんとデートぉぉ? 一億年早ぇんだよ」

「冗談よ。でも惠ちゃんと予定があるのは本当だから、苅安と灰谷の監視は撒いたわよ。なんの遊びをはじめたんだか知らないけど、今日は惠ちゃんと一緒だから尾行ごっこはナシ、怒っちゃダメだからね。じゃあね」


 赤金はまだ何か言っていたが、待ち人の姿が見えたので電話を切った。

 紫陽花めいたワンピースに身を包んだ、いとゆう荘二〇四号室の古賀惠は、数人の友人とともに正門に向かって歩いてくる。

 苑爾を見つけて控えめに手を振る様子はさながら深窓の令嬢だ。

 実際、幼少期から音楽留学できる環境なのだから育ちはいいのだろう。『触媒』などという厄介な体質のせいもあってか、どこか厭世的で、世界とのつながりが薄い女の子だ。だからこうして友人と一緒に歩いているのを見ると安心する。


「おつかれさま、惠ちゃん。今日は何事もなかった?」

「わざわざ来てもらってごめんね。今のところは大丈夫」


 惠の声はやわらかい色をしている。

 昨年の誕生日に史龍からプレゼントされた色彩事典で探してみたら、千草色とか白緑という色がとても近かった。すこしくすんだ、灰交じりのごく薄い緑。感情によって明るくなったり黄色味が強くなったり、暗くなったりもする。

 この間のウィリアムのときはひどかった。罪悪感と悲しみと自己嫌悪と虚勢が綯い交ぜになった、沼底のような色をしていたから。

 今のところは落ち着いた色だ。本当に「大丈夫」だったのだろう。


「惠ちゃんのお友だちもおつかれさま。あとは任せて、気をつけて帰ってね」


 彼女を囲むように歩いてきた友人たちにも笑って声をかけ、苑爾は惠の隣を引き継いだ。

 友人たちの背中が駅方面へ遠ざかっていく。

 しばらく辺りを見渡した苑爾は、特に異変がないことを確認して「行きましょ」と惠の背中を押した。


「苑爾くん、なんだか普段と服が違うね」

「あらバレちゃった。本部で派手に飲み物零しちゃったから、赤金が放置してた着替えを借りてきてみたの。いつもの服より多少は強そうに見える?」

「普段は優男風イケメンだけど、今日は普通のイケメンに見えるよ」

「牽制になるならなんでもいいわ」


 同級生の様子がおかしいのだ、と相談を受けたのは昨晩のことだ。

 先月、惠は同じ専攻の同級生から告白され、丁重にお断りした。もともと顔を合わせれば話す程度に仲がよかったので、それからも適度に友だちづきあいをしていたが、徐々にしつこくつきまとってくるようになったという。


 三日前、友人たちと食事した晩、いとゆう荘までの帰り道で誰かにつけられていると感じた。

 二日前、大学から真っ直ぐ帰ってくる途中も、おかしな足音がついてきた。

 そして昨日、こっそり確認したカーブミラーに映っていたのが、その彼に似ていた気がする──。

 サークルのミーティングが終わって帰宅すると、惠が妙な表情でピアノを弾いていたから話しかけたら、そういう事情があった。危機感や恐怖を抱いているというよりは、「どうしたらいいかなぁ苑爾くん」とひたすら困った様子の惠に、とりあえず一人で帰すのは心配なので迎えに行くと提案したのだった。


 本人もわかっているはずだ。

 彼女の体質は厄介だ。善いものを善いほうへ、悪いものを悪いほうへ。よほどしっかり目が合わない限り、よほど相手の自我が弱くない限り、影響は微弱だ。しかし、人間の感情が陰や負に流れる速度は、一瞬よりも短いことがある。


「惠ちゃん、いい加減に自転車でも買えばいいのに。徒歩十五分ならじゅうぶんチャリ通圏内でしょうに」

「うーん、でもわたし自転車乗れないから……」

「うそでしょお?」


 訊き返すまでもなく、惠の声は嘘をついている色ではなかった。それでも驚いた。

 彼女もそれがわかったのか、おかしそうに笑いながら肩を竦める。


「残念ながら本当です」

「……そのようね」


 菖華音大からいとゆう荘に帰る道なんてさっぱりなので、先導は惠に任せてのんびりと歩く。

 途中で差し掛かったのは鄙びた商店街だった。

『みかげ商店街』という古びた看板の横を通り過ぎる。

 苑爾たちがよく買い物に行く弥土駅前の商店街とは違って、ほとんどの店にシャッターが下りていた。こんなところを夜道に通って、誰かにつけられたとすればかなり怖い。


「もうちょっと人通りのある道ないの?」

「一本向こうの府道に歩道はあるけど、車通りが多いから怖くって。それにここの商店街ね、道路が可愛いからお気に入りなんだよ」


 微笑んで答える惠の言葉に、苑爾は視線を落とした。

 白やだいだい色や茶色のタイルが組み合わさり、まるで薔薇の花のような形をしている。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る