なな、いとゆう荘へようこそ

 母親と親戚を除けば女性との関わりがほとんどなかった僕にも、女性の買い物は長いらしい、という知識はある。もちろん人によるだろうけれど。

 まずは僕の必要物資、それから大家さんに言いつけられたおつかいの品々。商店街の中ほどに並び立つスーパーとドラッグストアで買い物を済ませたあと、女子二人の本領が発揮された。苑爾さんを女子にカテゴライズしていいのかどうかは未だ謎だが、僕から見れば、美沙緒さんのウィンドウショッピングに付き合ってきゃっきゃとはしゃぐ彼は十分に女子だ。


「あたし箸より重いもの持てなぁい」はどこへやら、僕と美沙緒さんに比較的軽いものを当てがった苑爾さんは、両手に食材や僕の洗剤等を抱えた状態で商店街を巡りに巡った。

 古いアーケード街に立ち並ぶ、こぢんまりとした古書店、文房具店、雑貨屋、手芸用品店。顔を出しては商品を眺めて、一通りはしゃいで、結局買わない。買わないのかよ、という内心のツッコミが十回を数えたところでようやくいとゆう荘に帰りついた。


 春の夜を吹き抜ける風はひんやりと冷たい。

 庭に植わった桜の花びらを後頭部に受けつつアパートに戻ると、六時を回ったところだった。


「あたしたち、おつかいの品を光舟さんに届けてくるわ」

「忍は荷物を部屋に置いといで。もう夕飯の時間やし、ぱぱっと片してすぐ食堂に下りておいでな」

「あ、ハイ」


 食堂へ向かう二人と別れ、僕はよろよろと急勾配の階段を上る。

 ハードな一日だった。基本的に引きこもり気質が強い僕にとって、一週間分の行動量に相当する内容だ。夕飯をいただいたら即寝よう。寝床の準備をしておいてよかった。油断すると床に寝転びたくなる自分を励ましながら部屋に戻り、冷蔵庫に入れる必要のありそうなものだけ片付けて、再びドアを開ける。

 二階廊下はしんと静まり返っていた。

 みんなすでに食堂にいるのだろう。待たせているのかもしれないと思うと胃がきゅっとなる。

 慌てて食堂へ向かうと、窓際に立っていた翔馬くんが、僕の姿を確認して室内に顔を向けたのが見えた。

 やっぱり待たせていたかも。初日から申し訳ない。ノブに手をかけてドアを開ける。

 すると、ぱぱぱんっ、と破裂音が響いた。


「……えっ」


 間抜けな声が洩れる。

 視界がちょっと白く曇っていた。

 煙が晴れると、クラッカーを手に握った琴子社長、翔馬くん、それに美沙緒さんの悪戯っぽい笑みが現れる。一拍遅れて、頭上からカラフルなテープが降ってきた。

 まるで紐暖簾のように垂れ下がったテープを、僕は指先で摘まんだ。クラッカーの中身だ。そして火薬くさい。


「しのぶー! いとゆう荘へようこそー!」


 弾ける笑顔で駆け寄ってきた社長の手には三角帽子がある。百円ショップで売っているようなキラキラしたやつだ。

 茫然としていると、社長は「しゃがめ」と唇をへの字にした。あ、はい。ご命令通りに膝を折る。このアパートで一番権力が強いのは、多分、社長だ。

 つたない手つきで帽子をかぶせられる。

「はいはい、これもかけて」と苑爾さんが持ってきたのは『本日の主役』と書かれたタスキ。これも百円ショップかどこかで見たことがある。

 ようやく冷静になって食堂内を見渡すことができた。

 ピンクやオレンジのお花紙で作られた花や、折り紙の輪飾りで色とりどりに飾りつけされている。壁面には社長の字っぽいつたなさで『いとゆう荘へようこそ』と書かれた横断幕まで貼られていた。


「わ、あ……すご……」


 なんだか目頭が熱くなってきた。

 これが泣きたいときの人間の生理反応だと解っていたから、必死で唇を噛んで抑えた。

 すると昼間に一度顔を合わせた史龍さんが肩を叩いて、僕を席まで誘導していく。父親ほども──もしかしたらもっと年上かもしれない男性に椅子を引いてもらうという畏れ多い待遇にガタガタ震えながら、用意されたその椅子に腰かけた。

 広いテーブルの上にはたくさんの料理が並んでいる。修学旅行のホテルのビュッフェ、あるいはスーパーで時折見かけるオードブルのようだ。

 隣に座った惠さんが「お茶とジュースとどっちがいい?」と訊ねてくる。これもまた畏れ多くて、震える声でお茶をお願いした。十代の翔馬くんと社長はジュース、他のみんなはビールやチューハイを手にしている。まだ見ぬ真田氏以外の全員が、食堂に集合していた。

 オレンジジュース片手に、社長が椅子の上に立つ。


「それでは、これからしのぶの歓迎会をおこないます!……銀水が東京にしゅうしょくしてからというもの、一年間あきべやだった二〇一号室に、このたび新しいよろず屋の社員をむかえることとなりました」


 よろず屋の社員、という単語にどきりとしたものの、社長は約束した通り『みらい屋』の話をすることはなかった。


「いまは亡き銀水にかわって!」

「銀水は別に死んでないけどね」と翔馬くん。


 しかし聞いちゃいない社長は続ける。


「これからはしのぶを加えた新生よろず屋として、困っている人を見かけたら、せっきょくてきに余計なお世話をやいていきましょう。かんぱい!」


 高らかな発声とともに、住民たちは慣れた様子でグラスをぶつけ合う。ひとりわたわたしていた僕には、両隣の苑爾さんと惠さんがかつんと乾杯してくれた。

 大人数で一緒に食事をするなんて久しぶりだった。

 僕は一人っ子で三人家族だったし、その家族のかたちも随分と前に壊れた。記憶にあるのは子どもの頃、祖父母の家に親戚中が集まってわいわい夕飯を食べたときのものくらい。それももう二度と戻らない。

 自分が壊した食卓の記憶を掘り起こして勝手に沈み込んでいると、惠さんがテーブルの上の食事を色々と取り分けてくれた。


「食べられないものはある? 光舟さんのごはん、美味しいよ」

「わ、ワアすみません。大丈夫です。ありがとうございます」


 カラフルなおにぎり、何種類ものサンドイッチ、餃子の皮で作られたピザ。大量の唐揚げにサラダ、サーモンのカルパッチョ、小ぶりなグラタン、その他料理の知識に乏しい僕にはさっぱりわからないおかずの数々。しかもどれも美味しそうだし、インスタ映えしそうなお洒落な盛りつけがされている。眩しい。眩しすぎる。アメリカのホームパーティーか?


「苑爾くん、わたし、カルーアミルクおかわり」

「はいはーい。お酒つくってくるけど、そっちの酒盛り組はどうする?」


 当たり前のように苑爾さんへグラスを渡した惠さんが、おどおどしっぱなしの僕に微笑んだ。


「苑爾くんね、バーでアルバイトしてて、お酒つくるのがじょうずなんだよ」


 アルバイトまでお洒落だなんて。怖い。苑爾さんのキラキラ大学生っぷりに恐れおののいているうちに、台所で手早く注文をこなした彼が戻ってきた。すでにほろ酔い気味の美沙緒さんと大家さんをあしらう様子は確かに手慣れている。


「美沙緒ちゃんは明日もお仕事でしょう? 程々にしなさいよ」

「いーのいーの、三年団やったから卒業式以降一足先に春休み突入したようなもんやったし」

「そういえば美沙緒くんは来年も担任を持つんですか」

「そうですよー。こないだ三年間持った子らが卒業したんで、次は一年団」

「また忙しくなりそうやね。いつもお疲れさまです、美沙緒先生。ハイかんぱーい」


 大人組がお酒を酌み交わして盛り上がる傍ら、年少組もそこそこ賑やかに食事を進めた。

 個人的には、最初のあいさつのときに素っ気ない素振りだった翔馬くんが、隣に座った社長の世話を焼いているのが意外だった。ジュースを取ってあげたり、おかずを小さく切ってあげたりと甲斐甲斐しい。まるで本当の兄妹みたいだ。


 会が始まって一時間ほど経った頃、ドアが開いた。

 食堂に入ってきたのは、先程商店街で会った喫茶店の店員だった。

 片手には白い大きな箱を持っている。


「どうも、遅れまして。ケーキのお届けです」

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