はち、あたたかく、あたらしい日々
ケーキの配達なんてしてるんだ、さすが大阪……などと呆気にとられていると、社長が突然立ち上がって青年に突進していく。
「じん! おかえり!」
……『じん』?
「ただいま帰りました、琴子社長。光舟さんこれケーキ。お願いします」
「ありがとぉ。陣くんもお仕事お疲れさん。さささ、座って座って」
陣と呼ばれた喫茶店の店員は、台所の水道で手を洗って、空席のまま残っていた美沙緒さんの隣に着席した。
「おかえり、陣くん。今度は弥土商店街の喫茶店で働いてるんやね。ビールでえぇ?」
「ありがとう美沙緒さん。俺はお茶でけっこうです」にこりと人の善さそうな笑みで辞退してから、苑爾さんのほうを見る。「それにしてもさっきは驚いたよ。苑爾くんもけっこう無茶するねぇ」
「無茶ってことはないでしょう」
さらっとそんな会話を始めた三人に、僕はぎょっとして口を挟んだ。
「知り合いだったんですか!?」
「知り合いっていうか、ほら、一〇一号室の真田さんよ。黙っててごめんなさい」
苑爾さんが眉を下げて謝ってくる。そう言われてみれば彼がひったくりを捕まえたとき、何やら陣さんのほうも訳知り顔で逃がしてくれたのだ。苑爾さんたちにこのあと歓迎会の予定があることを、陣さんも知っていたのだ。
惠さんがカルーアミルクのグラスを両手で持ちながら笑う。
「詳しくは誰も知らないんだけどね、陣さん、本業の都合で色んなところで色んなお仕事をしているんだって。でも外で出会ったときは他人のふりをするようにって決まっているの」
どんな本業だ。
「神出鬼没やねんなぁ。忘年会の帰りに御堂筋でキャッチされたときは笑ろてもたけど」
と、ほろ酔いで上機嫌の美沙緒さん。
「あたしサークルの追いコンで日本橋のカラオケに行ったとき受付してもらったわ」
と、けっこう飲んでいるわりに平然としている苑爾さん。
「ぼくは渋谷でそっくりさんとすれ違ったくらいかなぁ」
と、一人だけ東京の目撃情報を上げる翔馬くん。
全員けろっとしているが一体どれが本職で一体どんな都合なんだ。恐る恐る陣さんに視線をやると、ばっちり目が合った。
年の頃は、美沙緒さんと同じか少し上くらい。物腰は穏やかで、ただの爽やかなお兄さんに見える。黒の短髪といい白いシャツといい、喫茶店の店員のお手本みたいな清潔感だ。
──けど、他人のふりをするように、って。
スパイか何かなの?
さすが大阪、意味がわからない。
「さっきはあいさつできなくてごめんね。一〇一の真田陣です」
「二〇一の松雪忍です。よろしくお願いします……」
「仕事が忙しくてあんまり帰宅しないんだけど、よろしくね。新しいひとが入るって聞いたときから気になっていたんだが、松雪くんはどんなひとなんだい」
ちょうどそのとき、陣さんから受け取ったホールケーキを切り分けた大家さんが台所から戻ってきた。
「忍くんはなー、未来が視えるひとやでー」
「あっ」「あー」「こら、光舟っ!」
慌てたのは苑爾さんと美沙緒さんと社長だった。僕が隠したがっていることを知る三人。
社長に叱責されて事態に気付いたのか、大家さんは蒼くなって口を塞ぐ。
「え? なに、スマン、言うたらあかんかった?」
「いや……あかんこたないわよ、あたしたちはね。でもほら忍くんは来たばっかりだから、こっちが全然気にしないことにも慣れていないっていうか。徐々に馴染んでいきましょうねって感じで……」
「ああぁぁ、部下のふてぎわは社長のふてぎわ! すべては光舟にちゃんと内緒だって言うのをわすれていたことこのせきにんだ。かくなるうえは腹をかっさばいておわびするしかない」
「わあああやめろやめろ、誰ですかそんなことを小学生女児に教えたのは!」
この世の終わりみたいな顔になった社長がガタガタ震えながら土下座しようとしたので僕は慌てて止めた。
「妙な語彙は苑爾でしょ」「いや史龍先生」「光舟と見た時代劇だろう」と責任を擦り付け合う大人たち。おいしっかりしろ!
大家さんの大暴露に凍りついた空気はなし崩しにゴチャッとなって、そんななかでもマイペースな陣さんがのほほんと笑った。
「未来が視えるのかぁ。それで苑爾くんのスタートが早かったんだ? 人助け向きの素敵な力だね」
「そう! じんもそう思うだろ!」
「差し詰め『みらい屋さん』とかなのかな」
「その通りだ!」偉そうに胸を張る女児。部下の不手際は社長の不手際じゃなかったのか。
社長嬉しそうですねぇ史龍先生、と陣さんは食事に戻った。
なんの含みもない自然な感想だ。陣さんは本当に、心の底から、僕の力を人助け向きで素敵だと言ったらしい。
信じがたいことに、このアパートに集まる人びとは大体みんなそうなのだ。ここの住人たちにとっては誰かが自分とは異なる力を持っているのは当たり前で、隠さなければならないようなことではない。
僕だけがいけない。
僕がひねくれているだけで、この人たちは、もっと異能と上手く付き合っているのだ。
どうしようもない自己嫌悪が心の隅っこに墨痕を残す。楽しそうに笑う苑爾さんや美沙緒さんが急に遠い世界の人に思えて、僕は箸を置いた。
もうおいとましよう。一人になって、ゆっくりしよう。
……ここにいたら自分の卑屈さばかりが浮き彫りになる。
すると、椅子から下りた社長がとことこやってきて、僕の手を引いた。
「しのぶ、ちょっとおさんぽしないか?」
「散歩? こんな時間に───」
またこの女の子は唐突なことをと戸惑った──瞬間、
世界が呼吸を止めた。
ケーキを食べようとしていた翔馬くんが、カルーアミルクばっかり飲んでいる惠さんが。
そろそろ明日に響きそうな美沙緒さんを止めている苑爾さんが、黙々と食事をしている史龍さんが、穏やかな表情で大家さんの話に相槌を打つ陣さんが──大規模な彫刻作品のように、時を止める。
異様な光景だった。
そんななかで、にっこり笑った社長と、彼女に手をつながれた僕だけが、息をしている。
「ことこは世界を止めることができるんだ」
「せ、世界を……?」
「他のみんながぴたーっと止まっているあいだ、世界はことこだけのものなんだ。あんまり長いこと止めていたらみんなに悪いから、三分間だけって神さまが決めているみたいだけど」
社長のツインテールが揺れた。
対照的に髪の毛一筋も揺れない惠さんの横を通り過ぎ、静寂に満ちた食堂のドアを開ける。社長はことさら丁寧にドアを閉めたあと、僕の手を握ったままいとゆう荘を出た。
三分間、世界を止める。
彼女はなんでもないことのように言うけれど、間違いなく、凄まじい異能のはずだ。
人の言葉に色彩があるとか未来がワンカット視えるとかの比じゃない。
神さまの領域に、多分近い。
ちょっと怖いくらい静かな世界を社長はずんずん進む。
やがて、いとゆう荘の庭に植わったまま呼吸を止めた満開の桜の下で、「じゃーん!」と僕を振り返った。
「きれいだろー! お花のきれいな季節が、ことこのおさんぽシーズンだ」
「おさんぽ……」
きっと、悪用しようと思ったらいくらでも悪いことに利用できる力だ。
世界中で自分だけに与えられる三分間は長い。
人を──傷つけようと思ったら、十分すぎる時間。
もちろんそういう悪用法を考え付くにはまだ彼女は幼く、いとゆう荘の人びとは善良だ。おさんぽ程度にしか使えないのは当たり前かもしれない。
それでも。
誰から、なんのために与えられたのかもわからない力を、こんなふうに使える。
そう在れる社長の柔らかい心の有り様が、なによりも尊いと感じた。
風に舞い散る花びらが中空に浮いて静止している。
写真か絵画のような光景を見上げて茫然とする僕の隣で、社長は宙に浮く花びらを何枚か掴み取っていた。さっきからずっと、つないだ手を放そうとしないから、誰かと一緒に『おさんぽ』しようと思ったら触れていないといけないのかもしれない。
「きれいだね」
「ふっふっふ、まだまだだぞ。ネモフィラ畑とかひまわり畑とか紅葉とか色々きれいなおさんぽルートがあるから、今度教えてやる。ふくりこうせいの一部だ」
「また難しい単語を……」
いいなぁ、と素直に思えた。
僕も琴子社長みたいに、自分の力を好きになりたい。
取り返しのつかない失敗があってもまだ間に合うだろうか。ここの人たちみたいに堂々と、自分の力と折り合いをつけて生きていけるようになるだろうか……。
呼吸を止めた世界で一粒だけ涙を零した。
社長の手が泣けるくらい優しかったせいだ。
ここはいとゆう荘、ふしぎな力を持った人びとが集まるあわいの場所。
あたたかく、あたらしい日々。
僕の再生の一歩は、六分咲きの桜と世界を止める女の子に見守られてはじまった。
第一話、おしまい
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