ろく、陸上選手か何かかあの人は

「どうかしたの、忍くん」


 ──止められない。

 視えた未来を止めようとしたことなんてない。止めようとするには多分、手遅れだ。僕の脚じゃあの男を捕まえられないし、それに。

 それに……怖い。

 だから、いえそのと言い淀みながら「あの男の人……」と呟いたのは、半ば無意識だった。


 だというのに、苑爾さんはすでに走りだしていた。

 ことが起こるより先に。

 苑爾さんが駆けだして三歩目のその瞬間、小走りで女性に近付いた男が彼女の肩からバッグを奪って走りだす。女性はバランスを崩して地面に転び、やがて何が起きたか理解すると威勢よく叫んだ。


「あいつ! ひったくりや! 誰か捕まえてっ!」


 即座に美沙緒さんが動き出す。最も事前に察知していた僕が出遅れたのは、情けないことに臆病が故だ。

 逃げる男は素早かったが、追う苑爾さんはもっと速かった。そもそもスタートダッシュがひったくりの発生よりも先だった。難なく追いつきそうな彼の脚力にぎょっと目を剥く。陸上選手か何かか、あの人は!

 ひったくりは店の看板を引き倒し、停めてある自転車を蹴飛ばし、苑爾さんの追跡を妨害しながら逃げていく。

 すると突如その進路を塞ぐように、エプロンをつけた青年がふらりと歩み出た。

 小さな箒と塵取りを持った青年は、こちらの攻防にちっとも気がつかない様子で、のんびりと掃き掃除を始めてしまったのだ。

 隣で走っていた美沙緒さんが叫ぶ。


「そこの店員さん、ソイツ捕まえろ!」


 青年が、緩慢な動作で顔を上げる。

 ひったくりは「どけやぁ!」と怒鳴ったが、彼のほうは至極落ち着いた仕草で、道を譲るように二歩ほど下がった。

 そして、ひったくりは吹っ飛んだ。

 強風に舞うビニール袋みたいに、勢いよく宙を舞った。

 男の進路を開けたかに見えた青年は、驚きの白々しさで足を引っ掛けたのだ。

 ずざざざー、とものすごく痛そうな音を立てて顔面からスッ転んだひったくりの背に、追いついた苑爾さんが容赦なく圧し掛かる。男が握っていたバッグを取り上げ、両手を背中に捩じり上げた。そこに到ってようやく僕と美沙緒さんは走るスピードを緩めて、僕のほうは肩で息をしながら、美沙緒さんはわりと平気そうな顔で近付いていく。


「あーあー、顔面から行ったな。痛そ」

「い、勢いよくスライディングしましたね、痛そう……」


 自業自得といえば当然そうだが、ちょっと同情するほど見事な転びよう。幸い転ぶ瞬間に腕で顔を庇ったらしく、派手な流血は見られない。しかしこれ以上の逃亡をする気は失せたようで、大人しく地面に転がったまま「痛い」「救急車」と唸っている。大丈夫だろうか。

 美沙緒さんは青年の肩をばしばしと叩く。


「ナイッスー! 脚の長い男は違うな!」

「いえいえ。お姉さんの声が聞こえたおかげで突き飛ばされずに済みましたわ」


 青年は、すぐ横の喫茶店の店員らしい。報告を受けた店主が警察に通報している。

 転んだひったくりを店から貰ったビニール紐で両手足ぐるぐる巻きにした苑爾さんは、取り返したバッグを僕に差し出してきた。


「忍くんのお手柄でしょ。返してらっしゃい」

「いやいやいや何ですかそれ絶対僕じゃないです」


 バッグの返却を遠慮し合う僕らに呆れた美沙緒さんが「私が行く」と請け負ってくれた。

 ひったくりの被害に遭った女性は、三十代か四十代くらいの化粧の厚いお姉さんで、転んで擦り剥いた膝を庇いながら追いついてきて何度も頭を下げた。


「ほんまに有難う! なんかお礼できたらえぇんやけど、今なんも持ってへんわ」

「お気になさらず。それよりお姉さん、膝擦り剥いてますやん。警察来るまで中で座らしてもらったほうがえぇですよ」

「もーほんまスカート破けるし血ぃつくし痛いしムカつくわ。あっ飴ちゃんあった。飴ちゃんあげる」

「やった」


 美沙緒さんはお姉さんから飴を受け取りながら、彼女を横の喫茶店に促した。お姉さんがくれた飴は、僕と苑爾さんと美沙緒さん、それと掃き掃除を再開したマイペースな店員の青年とに分けられる。

 黒いフィルムに包まれたのど飴だった。

 苑爾さんは早速口に放り込みながら、青年のほうを見やる。


「あのぉ、あと任せてもいいかしら?」


 青年はにこりと微笑んだ。

 全て心得ていますと言わんばかりの表情だ。


「大丈夫ですよ。警察には上手いこと言うときます」

「キャーありがと! 警察が来るのを待ってたら、いつ帰れるかわかったもんじゃないもの。よし行くわよ二人とも」

「えっ、いいんですか。大丈夫なんですか?」

「名乗るほどの者ではないってことで!」


 苑爾さんは楽しげに笑って腕を組んできた。その拍子に落ち着いた香りが漂う。この人香水つけてるお洒落すぎて怖い。一体どんな人生を送ってきたら香水なんてものを身につけるようになるんだろう。

 僕もあと二年すれば、災難に見舞われた友人に力を貸してあげたり、アパートの新しい住民に甲斐甲斐しく世話を焼いたり、ひったくりと見れば躊躇なく駆けだしたりできるような、そんな男になっているのだろうか。

 いや、ならないだろうな。

 苑爾さんに対する尊敬と憧れが生まれた代わりに、自分の不甲斐なさにちょっとへこんだ。


 しばらく早歩きで現場を離れ、喫茶店が肉眼で見えなくなった頃に、苑爾さんは脚を緩めて美沙緒さんの靴を見下ろす。


「美沙緒ちゃん、足大丈夫なの? あたしけっこう本気で走ったけど、わりと早く追いついてきたわよね」

「平気平気。それにしても世も末やなぁ、まさか目の前でひったくりが起きるとは」

「本当それよね。ま、久々によろず屋の社員としてひと働きできて良かったわ」

「てか苑爾、ひったくり発生より先に走りだしてたやろ。フライングやん」

「だって忍くんの声が真剣だったから。あの男何かあるんだろうなぁと思って」


 肩を竦めた苑爾さんの言葉に、二人から三歩遅れて追う僕は思わずぽかんとした。

 だって僕は「これからあの男がひったくりをします」と言ったわけではない。

 新幹線でのうたた寝の最中に叩きつけられたあの画から想像した、一番有り得そうな事象がひったくりだったというだけで、詳しいことは何も判らなかった。だから「あの男の人が」としか言えなかった。

 なのに苑爾さんは、少ない判断材料から即断して走りだしてくれたのだ。


「何が起きるとか、言ったわけじゃなかったのに……?」

「社長と大家さんに認められた力の持ち主が何かを真剣に危惧している、それだけで充分なのよ。あたしにはそれが嘘か本当か判るんだから。案外便利なものでしょ」


 便利、なんてそんな単純でさっぱりした言葉で片付けてしまえるほど、彼にとってその力は当たり前のものなのだ。

 ……僕とは違って。

 言葉をなくして黙り込む僕を見て、美沙緒さんが苑爾さんを小突いた。苑爾さんは眉を下げて申し訳なさそうな顔になる。


「……いとゆう荘で生活するからにはあんまり怯えたり隠そうとしたりしなくていいのよって言いたかったんだけど、こういうのって理屈じゃないものね。無理せず忍くんのペースで慣れていってちょうだい」


 なんと返せばいいか解らず、ただ「すみません」とだけ零した。

 苑爾さんはそんな僕を慰めも責めもせず、視界に入ったスーパーを指さし「行きましょ」と微笑んだ。

 いとゆう荘、よろず屋。

 今日から自分がその輪に加わるのかと思うと不安で仕方がない。

 人付き合いがいいほうとは言い難い自分をよく知っているというのもあるが、異能に対するスタンスの違いが決定的すぎて、吐き気がしてしまう。

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