ご、ついていける気がしない

 前を歩く二人は途切れることなく会話しながら階段を下りて、食堂に顔を出した。ソファに座ってドラマの再放送を観ていた大家さんが振り返る。


「お、苑爾くん早かったやん」

「人手が足りてたから帰ってきちゃった。これから忍くん連れてお買い物に行ってくるわね。弥土商店街に行くから、おつかいがあるなら買ってくるけど」


「ほんならおつかいリスト送るわ」「はーい」「知らんおっさんに声かけられても返事したらあかんよ」「はいはい」「飴ちゃんあげる言われても絶対ついてったらあかんよ」「何歳児なのよ」「美沙緒ちゃんはフルーツ缶買うてきてええで」「やったー!」「だから何歳児なのよって」

 マシンガンのごとき応酬。聞いているだけで精一杯だ。やばい、ついていける気がしない。


 二人のあとを追いかけていとゆう荘を出る。

 この辺りの最寄り駅は近鉄幸丸大学駅前だが、その隣の弥土という駅も近い。ちょうど中間地点になるはずだ。これから目指すのはその弥土駅前の商店街とのことだった。

 大体、都会の電車は駅と駅の間隔が短すぎるのだ。僕の地元では次の駅まで四、五分かかるのが当たり前だったのに、大阪の電車は発車して加速してスピードが上がりきったと思ったらもう減速している。どう考えても歩ける距離だろと呆れたのも記憶に新しい。

 まあ、電車で一分未満でも歩けば五分。

 時間の流れ方が田舎とは違うのだろう。苑爾さんと美沙緒さんのやり取りを見ればわかる。僕と従兄のやりとりを二倍速で流しても多分こうはならない。


「忍くんはどこから来たの? 言葉の感じ、関西圏ではなさそうだけど」

「岡山の、端っこのほうです」

「端っこのほうって言ったら、瀬戸内側? それとも山?」

「広島寄りの瀬戸内側です。ど田舎ってほどではないけど、何もないところですよ」

「へぇ。学部に岡山の子いるけど、忍くんと違ってばりばり岡山弁よ。最近は関西弁が感染してきたって言ってるけど」

「僕、両親が関東圏なので……。正直なところ、岡山県民の自覚も薄いといいますか」


 故郷について語る言葉を、僕はあまり多く持っていない。

 瀬戸内海に面する街だが、海の近くには住んでいなかった。市内はぐるりと山に囲まれていて、どこを向いても視界には必ず山があり、どこへ行くにも山越えが必須。山陽本線が通っていたから鉄道に不便はなかったが、郊外にはバスの便数が少なく、車がないと生きていけない。

 ど田舎じゃないけど、何もない。

 旅立つことに未練もなかった。

 ……薄情なのかも。


 今日離れたばかりの故郷を脳裡から追い払い、僕は前を行く二人に小走りで追いついた。

 一歩前を歩く苑爾さんと美沙緒さんはずっと喋っている。

 美沙緒さんが勤める中学校の修了式の様子や、赤金さんの部屋の被害状況、今日の晩ごはんのメニュー予想、春休みの予定。同じアパートの住民同士というか、普通に友だち同士の会話みたいだ。


 よく言えば昔ながらの家々が、正直に表現すれば古びた家屋が、所狭しと狭い路地に立ち並んでいる。苑爾さんたちは家々の間を右に左に折れながら速足で進んだ。一回じゃ道を覚えられそうにない。

 辺りを眺めている間に二人との距離が離れていたので、小走りに追いついた。歩くのも速い。

 そういえば、と思いついたことがあったので「あの」と声をかけると、二人は息ぴったりに振り返った。


「気になっていたことがあるんですけど、皆さんどうして、琴子ちゃんのことを『社長』って呼ぶんですか。あと『よろず屋』というのは……」

「ああ、あれね」苑爾さんが苦笑する。


 面接のときに『いとゆう荘よろず屋 社長兼おさんぽ屋さん』とかいう謎の自己紹介をされたが、意味がわからないまま訊ねるタイミングを逃し続けているのだった。


「琴子ちゃんが去年あたりから言いだしたことなの。『いとゆう荘のみんなの個性で困っているひとを助けよう』っていう活動の、言い出しっぺだからあの子が『社長』。アパートのみんなは半強制的によろず屋社員ってことになるわね。といっても本当に雇用されるわけじゃないから安心して」

「みんなの個性……」

「社長はおさんぽ好きだから『おさんぽ屋さん』」


 弥土駅前から東西に真っ直ぐ伸びる商店街の入口に差し掛かる。

 不意に立ち止まった苑爾さんは、どこか含みのある笑みで僕を見つめた。


「あたしは『ほんと屋さん』。嘘と本当がわかるから」

「…………」

「ひとの話す言葉に色彩を感じるタイプなの。こういうの共感覚っていうのかしらね? 微妙な色の変化で、そのひとの話の内容の真偽が判別できます」


 僕は黙り込んだまま相槌も打てなかった。

 ただ苑爾さんの、思慮深く底知れない双眸を見つめ返すことしかできない。

 嘘と本当がわかる? ひとの言葉に色彩を感じる? ほんとうに? 僕の未来視以外にも、そんな意味のわからない特異な力が存在するのか。本当だとしたら……人の嘘がわかるなんて、それは……。


「嘘をつかれたら判るけど、だからって別に責めはしないわ。見て見ぬふりをしてはいけない嘘以外、嘘をつかれたふりもする。だからあんまり気にせずお喋りしてね」

「それ、いとゆう荘の皆さん、知っているんですか」

「そうよぉ。うちの住民はそれぞれ大抵、特技や個性があるの。社長自身の力だって、あたしなんかよりよっぽど不思議なものよ。みんなの中じゃ隠すことのほうが少ないから、忍くんのこともぺろっと口を滑らせちゃったのよね」


 ごめんなさいね。苑爾さんはにこりと微笑み商店街の中を上機嫌で歩きだした。

 少しずつ遠ざかるその背中から視線を逸らし、隣で立ち止まって待ってくれている美沙緒さんを見る。


「あの……美沙緒さんもそうなんですか」

「私のは大した力とちゃうよ。えーっと、そのへんのお花を咲かせることができたりできなかったり」


 それは嘘でしょ。「えーっと」とか言っちゃってるし。

 と思ったら苑爾さんが振り返った。


「嘘よ、忍くん。その人は自分の力を内緒にしてる側なのよー」

「嘘つかれたふりするん違うんかい」美沙緒さんは小声で毒づき、それに無言で同意している僕の肩を軽く叩く。

「まあつまり、言いたくなくても別にえぇってことよ。むしろそれが自然やろ」


 誰から授けられたのかも、なんのためにあるのかも定かでない力。

 眠りの隙間を縫って叩きつけられる乱暴な神示に、僕は子どもの頃からずっと、振り回されてきた。

 こんな力は普通の人にはなくて。

 だから口外しないのが、この歳になれば普通で。

 大体、僕の頭がおかしいだけなのかもしれないし。

 そうしてひっそりと隠れるように生きてきた僕の目の前には今、性質は違えども同じように特異な力を持ち、そのうえで受け入れて笑う彼らがいる。

 不思議な感覚だった。

 苑爾さんや美沙緒さんがとても……まぶしく感じる。

 そして卑屈な自分が踏み入れた泥沼の暗さに絶望した。

 ──紛れもない劣等感。


「忍くーん。どうしたの?」


 苑爾さんに呼ばれてはっと我に返る。

 気付けば二人はだいぶ先に進んでしまっていた。しまった、こんな風に立ち止まったら気を遣わせてしまう。慌てて駆け寄ろうとした僕はふと、視界に映る景色に既視感を抱いて首を傾げた。


 あれ?

 僕、この商店街、初めてじゃない。


「いや、そんなわけ……」


───『知らない風景』  『走りだそうとする男』

     『商店街』  『道端に転ぶ女』  『大量の自転車』


 あ、と思い至る僕の視界の端を一人の男が通り過ぎていった。

 黒っぽいトレーナーのフードをかぶって、ジャージを穿いた男だ。顔は見えない。背は然程高くないけれど筋肉質で、足元は派手な蛍光オレンジのスニーカー。

 どきりとした。

 あの男、今日、新幹線で視た未来のにいた気がする。

 男の後ろ姿を凝視しながら、苑爾さんたちのもとに辿りつく。男の歩いていく先には女性がいた。ぽっちゃりとしたシルエットと、ひらひら揺れるシフォン素材のスカートにやはり見覚えがある。

 商店街の端を歩く彼女の肩には、ヒョウ柄のバッグ。

 その先には大量の自転車が路駐されたパチンコ屋。

 間違いない。あの男はこれから彼女のバッグを奪って逃げる。前方を見つめる僕の視線を追って、苑爾さんと美沙緒さんが首を斜めにした。

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