じゅうに、今日イチの殺意
赤金さんの下に伏す竹村の体が大きく震えた。
僕はふとウィリアムを思い出した。
惠さんのピアノに魅せられて死んだ弟を持つ、自らもまた魅せられ慈しむピアニスト。
結局のところこの竹村もあの人と同じなのだ。惠さんのピアノはみんなに捧げられるべきだと。それだけの力があるから、神さまのピアノだから──趣味にするなんて許さない、って。どいつもこいつも勝手なことを言って惠さんを傷付けている。一番傷付いているのは、一番自分を赦せないのは惠さんなのに。
だけど当の惠さんは静かに聞いているし、苑爾さんは彼女を尊重しているし、赤金さんなんて溜め息をついてパンツのポケットから煙草を取り出している。しかし口に咥えたところで嫌煙家の相棒を見上げて、そのままぶらぶら上下に揺らした。
「趣味にするならその腕をくれよ」
「ごめんね。さすがにそれは……できない」
「勿体ない。ほんとうにもったいない。そんな腕使いものにならなくなればいい。それなら趣味でいい。みんな納得する。だから」
「だから切ろうとしたってわけ」苑爾さんが吐き捨てるように口を挟んだ。
惠さんはじっと竹村の額のあたりを見つめて、そっとつぶやいた。
「ごめんね」
「おまえの」
「…………」
「おまえのピアノが頭から離れないんだ」
竹村はくしゃりと顔を歪めて地面に額をこすりつける。
「……ごめんね」
言い返すでもなく、泣くでも嘆くでもない、単なるごめんねの羅列は何よりも強い拒絶の態度だった。
どうして惠さんが謝らなければならないのだ。全く筋の通っていない理屈に対して、なぜ害意を向けられた彼女が、さも加害者であるかのように頭を垂れるのだ。
彼女の背中は小学五年生の忍だった。
お母さんおじいちゃんおばあちゃんごめんなさいと、部屋の隅で膝を抱えた忍そのもの。
かける言葉も失った寂しい商店街に、竹村の支離滅裂な呪詛と、惠さんの謝罪がこだまする。
誰も動けずにいると、脇道からスーツ姿の男性が駆け込んできた。
「苑爾くん、大丈夫かい。何があった?」
「陣くん!? どうしてここに」
「府道を走っているときに、琴子社長から緊急指令がきてね。苑爾くんがピンチみたいだからみかげ商店街に行ってくれ、って。もう遅かったようだけど……」
陣さんは素早く状況を確認した。
ナイフを両手で握りしめる僕、立ち尽くす苑爾さん。額から血を流す赤金さんと、その下敷きになった竹村、傍らに膝をつく惠さん。一体どういう納得の仕方をしたのかわからないが、陣さんはひとつうなずくと携帯電話を取り出してどこかへ電話をかけはじめた。警察に通報しているようだった。
見知った大人の登場で、全員の気が緩んだ。
そのとき獣の唸り声のようなものが聞こえたかと思うと、赤金さんの体が吹っ飛んだ。
竹村が全身を使って起き上がったのだ。身構えた瞬間には竹村の突進を受けて、僕はすぐそばのシャッターに突っ込む。
色々なことが一斉に起こった。
僕の手からナイフを奪った竹村がゆらりと立ち上がり、一回転した赤金さんが体勢を立て直す、苑爾さんが惠さんの腕を引っ張って背後に庇う、事態に気付いた陣さんの手から携帯電話が投げ出される。
「おまえのピアノのせいだ、全部……!」
苑爾さん──の後ろの惠さんめがけて凶器を構えた竹村の前に、赤金さんが飛び込む。
どっと鈍い音がした。
──刺された。
赤金さんが!
凄まじい形相になった陣さんが男の襟首を引っ掴む。竹村の体はぐるりと円を描くように宙を飛んで、地面に叩きつけられた。血に濡れたナイフがからんとタイルの上を滑る。血。
血が出てる。誰の?
「……赤金!」
ほとんど悲鳴のような声を上げて、苑爾さんが赤金さんの背を支えた。赤金さんは茫然とした様子で刺された腹部を押さえている。僕はもう半分泣きながら、ゆっくりと地面にしゃがみ込んだ赤金さんのもとへ転げるように駆け寄った。
視界がちかちかする。呼吸の仕方がわからなくなった。刺された。あんなに気をつけていたのに。僕が武器を奪られたからだ。僕のせいだ。
「あ、赤金さんっ、赤金さん!」
「おう、泣くな忍、大丈夫だから」
「大丈夫なわけないでしょうがこのド阿呆!」
苑爾さんがいつもの優しい態度をかなぐり捨てて怒鳴りつける。
赤金さんは満足したようにそっと口の端をほころばせて、苑爾さんの頬を撫でた。不吉な微笑みだった。
「なんだ苑爾、そんなに俺が心配か。たまには怪我してみるもんだな」
「なにバカなこと言ってんのよ……! 止血するから手をどけて、忍くんは救急車!」
「いやいや。──いやいや、マジで必要ない」
にやり。
赤金さんの口角が意地悪く吊り上がった。
お助けサークルの代表というよりも悪の組織のボスのような、凶悪な魔王みたいな、例の笑顔。
「珍しい苑爾が見られて余は満足じゃ」と、茶化しながら赤金さんがシャツを捲り上げた。その下の惨状を想像して、惠さんの喉がひっと引き攣った。
刺し傷から血が溢れて真っ赤になっているかと思われた腹部は、真っ黒だった。
黒い、──ベストのようなものを着ている?
「……これ、なんですか?」
代表して僕が口を開いた。多分このなかで一番状況が解っているから、我に返るのも早かったのだ。
「プレート入り防刃ベスト。送料込みで三万七千円」
「たっっっか」
思わずつっこんでしまった。いや、命には代えられないけれども、思ったより高いぞ。よっぽどいいやつを買ったに違いない。
がくりと項垂れた僕に赤金さんはケラケラ笑う。苑爾さんと惠さんはまだ放心状態で、苑爾さんなんて口から魂が抜けていてもおかしくない顔だった。惠さんは真っ蒼になってカタカタ震えているので、僕はとりあえず彼女の両手を握って、氷のようになっている指先をさする。大丈夫、大丈夫です赤金さん生きてます……。
「多分、俺より竹村クンのほうが重傷だと思う。柄のないナイフでプレートぶっ刺したら、手が滑って指が切れるだろ。陣くーん、竹村クンの指ちゃんとついてるー?」
「ついてますよ。痛そうだけどね」
想像するだに痛い。絶対あっち見ないようにしよう。
苑爾さんはそれから呼吸みっつほど置いてハッと意識を取り戻した。
「心配して損した」を通り越して、赤金さんの窮地に我を忘れた自分が恥ずかしくて──そして一周回って殺意が湧いたらしかった。そんな感じでクルクル表情が変わるのを、僕と惠さんは傍らでそっと眺めていた。
見たこともないほど物騒な顔になったイケメンが、赤金さんの頸に両手をかける。
今日イチの殺意だ。
「こ、ころ、殺す!!」
「わははは! そうか苑爾ィ、そんなに俺が心配だったか!」
「だだだだめです苑爾さん落ち着いて! 赤金さんは煽らないでもう黙って!」
危うくこっちが暴力沙汰に発展するところであった。
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