じゅうさん、空席の椅子


 ……雨が降っている。


 とてもひどくはないけれど、傘を差さずに歩くのは躊躇われるくらいの雨だ。

 どんよりとした曇り空。いとゆう荘と幸丸大学の間にあるコンビニ。駐車場には何台か車が停まっている。

 その軒先で、雨の強さを確かめるように右手を差し出すひとがいた。


 薄水色のくらげがプリントされたトレーナーを着て、一見するとスカートのようなワイドパンツを履いている。足元はワークブーツ。肩掛けのトートバッグには見覚えがあった。

 女性かと思ったけれど、曇天を見上げる横顔は、確かに苑爾さんだ。


 未来が変わった。

 最初の未来視では大量に出血してもう助からないかと思われた彼が、今度は一週間以内に、雨に降られて困るのだ。

 泣きたいくらい嬉しくて、僕は初めて、未来視のちからを愛おしく思った。





 食堂に下りると、苑爾さんと惠さんが並んで朝食をとっていた。

 当たり前のように「おはよう」というあいさつが飛んでくる。朝っぱらから誰かと言葉を交わすことに、ようやく慣れてきた。おはようございます、と返事をする。

 今日もご機嫌で台所に立つ大家さんとも朝のあいさつをして、ごはんをよそい、おみそ汁を受け取る。だし巻き卵と焼き魚、季節の野菜の小鉢と、お漬物。相変わらずホテルの朝食みたいなメニューも、だいぶ慣れた。

 テレビのニュース番組では、どこか遠い場所で起きた傷害事件を報じている。


 あの事件から二週間が経った。

 陣さんが手配した警察官によって竹村は連行され、赤金さんは病院で処置を受けた。居合わせた全員が事情聴取を受けたのち、いとゆう荘に帰宅。

 待ち構えていた美沙緒さんは容赦なく赤金さんのほっぺたをぶったが、泣きそうな顔をしていたので、赤金さんは「そんなに心配してくれたの?」とからかってしまった。美沙緒さんから二発目を、苑爾さんから三発目をいただいた赤金さんは、なんてことない様子で笑っていた。もしかしたらあのノリは心配に対する照れ隠しなのかもしれない。


 神さまの用意した椅子は空席になった。

 巡り巡って誰が座ることになるのかは、まだわからない。


 もしかしたら全然違う場所の、全然違う誰かが、僕たちの知らないうちに辻褄合わせで傷ついているのかもしれない。

 選択した未来に対して負うべき責任は、まだ計り知れない。


「今日は雨が降るよ」


 惠さんがぽつりとつぶやいた。一足先に食事を終え、ヨーグルトにはちみつをかけている。

 隣の苑爾さんはテレビの天気予報を確認していた。


「えぇ? 降水確率三十%よ」

「でも、降るよ。朝一のピアノの音がすこし、こもっていたから」


 苑爾さんは目を細めてじっくりと惠さんを見つめる。

 彼がこうして誰かを観察しているときは、言葉から受ける色の微妙な違いを観察しているということに、僕は最近気がついた。


「……あたしの力って、けっこう参考にならないのよね」

「苑爾くんて、本人が嘘だと思っていないことは見抜けないもんね」

「あたしが視てるのは感情の色だからね。嘘を吐いたことに対する罪悪感の色なのよ」


 いとゆう荘のひとたちは、自らの持つ異能の特性をしっかりと把握していて、そのうえで上手につきあって生きている。

 ただ押しつけられた未来を受け止めるだけで、このちからについてろくに考えたこともなかった僕には、そういう姿勢がとても強く、潔く見えた。

 いただきます、と手を合わせて、汁椀を手に持つ。

 先程見えた週間天気予報では、向こう一週間、晴れだった。


「まあ、降ってもたいしたことないでしょ、きっと」


 苑爾さんは肩を竦めて席を立つ。

 食べ終わった食器は自分で洗うのが朝食ルールだ。手早く済ませた苑爾さんは、冷蔵庫のなかからペットボトルの紅茶を取り出して、じゃあねと僕らに手を振った。


「光舟さんごちそうさま。行ってきまーす」

「はーい、行ってらっしゃい」


 ソファでくつろぎモードに入っていた大家さんが、フと僕のほうを見る。

 史龍先生をして「胡散臭い」と言わしめる笑顔を向けられ、なんとなく動きを止めてしまった。今朝の未来視のことは誰にも話していないのに、なぜか大家さんには筒抜けのような気がする……。

 そういえば、いとゆう荘の大家さんである光舟さんは、どんな力を持っているのだろう。

 これから先を過ごしていくなかで知ることもあるのだろうか。


「忍くーん。なんか視てんとちゃうん」

「うっ……」


 なんで知ってるんだ。

 訳知り顔の大家さんにせっつかれるように、僕は声を上げた。


「……あの、苑爾さん!」

「はい、なぁに」


 食堂のドアを開けた状態で立ち止まり、首を傾げて振り返る苑爾さんの今日の服装は、くらげ柄のトレーナーにスカートみたいなワイドパンツ。

 未来視と、同じ。


「傘、持っていったほうが……いいと、思います」


 尻すぼみになってゆく僕の声に、しかし彼は「あら」とやわらかく目を細めた。


「じゃ、持っていくことにするわ。ありがと」


 静かに閉じた扉を見やり、惠さんは「忍くんの言うことは聞くんだから」と唇をとがらせた。どこか子どもっぽい反応に、なんだかこっちが照れくさくなる。


「ね、忍くん。今日、雨、降るよねぇ」

「降りますよ。……視えましたからっ」


 大家さんがにやにやと胡散臭く笑いながら、「よく言えました」と目を細めた。



第五話 おしまい

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