エピローグ
傘
雨は、四限目の講義が終盤に差し掛かった頃、誰にも気付かれないうちに降りだした。
とてもひどくはないけれど、傘を差さずに歩くのは躊躇われる程度の雨だった。
学部棟を出て、持参していた折り畳み傘を開く。正面にある法学部棟のピロティ―に見知った顔を見つけたので、迷わずそちらに駆け寄った。
「赤金さん、諏訪さん、こんにちは」
「お、忍だ。いま帰りか?」
燃えるような赤髪の赤金さんと、冷たい氷のような顔立ちの諏訪さん。
容姿だけ見ると相性のよくなさそうな二人だが、ESの依頼以外でも交流があるらしく、学内で一緒にいるところをよく見かける。
ちなみに先日の事件で赤金さんが乗り捨てた際、諏訪さんに借りた自転車の前かごは歪み、ボディには無数の傷が入った。未来視のことを除く大体のあらましを聞いた彼は、「人の命が救えたならべつに構わん」と、心平らかに許してくれたそうだ。いい人だ。
どう見ても雨宿りしているようだったので、僕は首を傾げた。
「傘、ないんですか」
「だって今日、降水確率三十パーだったじゃん。持ってるわけねーって」
傘を差しているひとは大勢いるので、持っているわけがないは言い過ぎだと思うけど……。
でも、赤金さんがまめに傘を持ち歩くイメージはあまりないな。濡れてもお構いなしに悠然と歩いている姿が想像できる。
「苅安と灰谷がこれから合流すっから待ってるとこ。諏訪はそのつきそい」
赤金さんの額には市販の絆創膏が貼ってある。
傷痕は残るらしい。
本人はまったく気にしていないみたいで、「苑爾のイケメンフェイスに傷がついたら泣く女子がいるから俺でよかったなぁ」とニヤニヤしてまた引っ叩かれていた。ちなみに話を聞いた苅安さんは深い溜め息をついて赤金さんのお尻を蹴りつけたらしい。愛の鞭、といらん照れ隠しをした彼はまた殴られたとか。
黙りこくっている諏訪さんは、口の中で何か転がしている。
なにか食べているのかなと見上げると、彼はポケットに突っ込んであった手を取り出して、僕に手を出すよう顎で促した。
与えられたのは飴だった。
「いつも赤金に振り回されて大変やな」
「い、いや、そんな。いつも親切にしてもらっています」
「人生相談するなら赤金よりは苑爾のほうがマシやぞ。苅安と灰谷はあかん。あいつらどっちも壊滅的に人の気持ちがわからへんから」
ものすごい言いようだ。人生相談ってなんのことだろう。
ここまで容赦なく言い合えるほどの友人は、僕にはいたことがない。
未来視という劣等感があって、いつも他人と距離をとる生活をしていた。
「忍は灰谷とは面識ねぇけど、苅安と仲いいんだぞ。根暗同盟とか言って」
「あー、別名赤金被害者の会やな。こいつは性悪の大魔王なんで、あまり近寄らんほうがええ」
「諏訪ひでぇ」
赤金さんは一体なにをやらかしてこんな扱われ方なの?
赤金さんと諏訪さんに別れを告げて、僕は本部キャンパスの立体駐車場の奥にある南門から外に出た。
いとゆう荘へは、南に徒歩七分。
傘を叩く雨の音を聴きながら歩いていると、未来視で視たコンビニに辿り着く。
軒先には苑爾さんが立っていた。
雨の強さを確かめるように、右手を差し出している。
通りがかった僕と目が合い、彼はばつが悪そうに笑って手を振ってきた。
「忍くん。悪いんだけど、傘、入れてくれない?」
断る理由はない。傘の下を半分明け渡すと、苑爾さんは頬に手を当てて小首を傾げる。
「あのね、言い訳がましいんだけど、惠ちゃんや忍くんの言うことを疑っていたわけじゃないのよ。傘はちゃんと持ってきたんだけど、コンビニに入っている間に盗られちゃって」
「えっ! そんな、おおごとじゃないですか」
「ふふふ、間抜けよねぇ。そろそろ買い替えなきゃって思ってたからちょうどいいわ」
「ぼ、僕が余計なこと言ったから……」
「いやぁね、なに言ってるの。そんなわけないでしょ」
でも僕が傘を持っていくように言わなければ、苑爾さんはきっと傘を持たずに大学に来たはずだ。雨に往生したかもしれないが、きっと盗まれることはなかった。
そんなことをぐるぐる悩んでいると、苑爾さんは気温が下がり始めた秋の空みたいな、爽やかに澄んだ笑い声を上げる。
「あたしの傘のおかげで、濡れずに済んだ誰かがいるってことよ」
やさしい双眸がきらきらとひかる。彼の穏やかな解釈が、そう考えられる彼自身の深いやさしさが、とても得難く尊く感じた。
かつて琴子社長に対して抱いた畏敬の念とよく似ている。
自分もこう在りたい。劣等感として深く根を張るだけではなくて、とくべつな贈り物なのだと思えるようになれたら、どれほど肩が軽くなるだろう。
……まだまだ、先は長そうだけれど。
「ま、泥棒はよくないけどね。天網恢恢疎にして漏らさず。いつかどこかで、そいつが神さまの用意した椅子に座る日がくるかもしれないわね」
「美沙緒さんも、似たようなことを。……椅子はいつまでも空席のままではいられないって」
「そうねえ。今回はあたしも赤金も無事で済んだけれど、いつか身近な誰かが椅子に座ることになるかもしれない。美沙緒ちゃんの事情はあたしもよくわからないけど、もしかしたら、空席に座らせたことがある側のひとなのかもしれないわね……」
ひとの悲しみは、単純ではない。
僕と赤金さん、そうと知らずに美沙緒さんの抱く大きな悲しみに触れ、土足で荒らし回ってしまったのだろう。
美沙緒さんは事件以降も変わらず優しいけれど、それはきっと、彼女が悲しみを隠して笑える大人だからだ。ちゃんとした大人で、先生で、だから年下の僕たちを心配してくれている。
「あたしや琴子社長や翔馬みたいに、ちからが自分のなかに完結しているタイプと違うから……惠ちゃんや忍くんや、もしかしたら美沙緒ちゃんのちからは、とても難しい」
脳裡に浮かんだのは、遊戯室のソファの上で、世界から隠れるように膝を抱えた惠さんの白い横顔だった。
「でも」と苑爾さんはちいさく零した。静かな湖面に石を投げ入れたような一言。横顔を見上げると、苑爾さんはどこか遠いところにある過去を悼むような目をしていた。
「どれほど大きな後悔があったとしても、それがあたしたちの全てではない」
……ああ、そのとおりだ。
どれほど大きな後悔があっても、過ちがあっても、それでもどうにかこうにか、生きていくしか道がない。
ぱたぱたと傘を叩いていた雨の音はいつの間にか聞こえなくなっていた。
いとゆう荘の桜が見えてくる。
とっくに花びらを落としきり、青く茂る葉桜のはるか向こうで、灰色の雲の合間から光の梯が下りていた。門の間からひょっこり顔を覗かせた琴子社長が、曇天を見上げて傘を畳む僕たちを見つけて大きく手を振る。
「おかえり!」
……ただいま。
大阪府鹿嶋市はいとゆう荘、ふしぎな力を持った人びとが集まるあわいの場所。
それぞれの蹉跌と再生の毎日は、これからもあたたかく続いていく。
了
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